目黒が、マグロと聞こえてマグロのサンマとはこれ如何に烏賊にあらずで怖い蟹、もうなにがなんだか、けふはわたしのたましひは疾んでをりますので烏さへ正視できないのです。

 パソコンの文章データを整理していたら、数年前に屋久島へいったときの日記が見つかる。読んでいるうちに色々と思いだし懐かしくなりすぎて頭をかかえる。夏だった。とても暑かった。大垣夜行にのるため18時頃から品川駅のホームで延々電車を待ち、満員の電車で座れたはいいけれど大雨で電車が止まり、名古屋から伊勢にでて青年団の公演をみて、そこから和歌山にでて和歌山ラーメンを食べ、フェリーで四国へ渡りちょうどやっていた阿波踊りをみたあと、徹夜の状態で讃岐うどんを食べながら西へ西へと向かい、道後温泉で眠ってしまい溺れ死にそうになりながらさらに西へすすみ八幡浜から別府に渡り、ついたのが夜中だったので歩いて別府駅までゆき、それから電車を待ち宮崎周りで鹿児島までゆきフェリーに乗ったら人生で最悪の船酔いにあい、あ、こりゃ死ねるかもという勢いでもどしながら屋久島についたというのは我が事ながらよくそんな体力あったなぁと感心する。しかも屋久島以外の全行程野宿だったし。
 
 屋久島ではご多分に漏れず縄文杉を見にいったのだけど、登山口からのぼりはじめ延々トロッコ道を歩きどれくらいたっただろうか、お腹もすいたし少し休もうと横道にそれた。瘤のようにごつごつとした木の根にすわり一息ついていると、木々の陰になったところに40代半ばくらいのおじさんがいるのが目に入った。目が合ったので何とはなく会釈をするとそのおじさんが近づいてきた。
「一人で登ってるのか?」という言葉に頷くと、彼は少し眉をひそめ「そんなに危険な山では無いけど気をつけなよ。毎年何人か遭難者もでてるしな」といった。聞くと彼は屋久島のガイドのような事をしているのだという。仕事が無い日も山の状態を見るためとトレーニングを兼ねてこうして一人で歩いているのだという。
 お茶を貰い、飲みながら屋久島の話を聞かせてもらった。やがて、おじさんは首をゴキゴキと鳴らし立ち上がると、ズボンについた土を払い真面目な顔で「じゃあ、そろそろ行くけど、気をつけなよ」といって、森の奥を指差した。
 その動きにつられるように目を向けた。昼間とはいえ鬱蒼とした森は薄暗い。木々を透かして遠くの方にしめったような黒い岩が積み重なっているのが見えたが、風が揺らす木立や葉のほかに動くものは何も見えなかった。
「たまにな、あっちの方へふらふらとひかれてゆく奴がいるんだ」とおじさんはいった。「前もな、森の奥のほうに赤いのが見えたような気がして暫く見ていたら、それが登山服を着た若い女の子でな、そのへんは崖なんかもある結構危ない場所だったんで慌てて近づいたら、何だかぼうっとしていてな、何度か声をかけてやっと正気づいたみたいになって、ぽかんとした顔で『あれ、何で、ここ、あれ』とかいってんだよ。そうやって遭難していく人がいるからな。あれだな、何かに引っ張られるのかね」
 いい終わると、おじさんはリュックを拾い上げ、「じゃ、あんたも気をつけてな」といい、軽い足取りで山道を登っていった。すぐにその姿は見えなくなった。
 私は一人になった。取り残された、と思ったわけではないのだけど、何となく寂しくなった。静寂に心細くなり、音を立てる木々の奥にもう一度目をやった。
 ぞっとした。
 森のその奥から何かが私を見ているような、確かに何か人をその奥へ引き付けるような、そのまま見ていると目が離せなくなるような感じがして、そう思った途端恐ろしくなり、慌てて目を逸らした。それは高いところから下を覗き込む時のような恐ろしいのだけどそうであればあるほど惹かれそのままふっと引き込まれそうになる時に頭を揺らす奇妙な陶酔感に似ていると思い、ますます怖くなり、私は慌ててリュックを背負い直し早足に歩き出した。暫くして人の姿が見えた瞬間、体が溶けるような安堵感を覚えた。でも体のどこかにまだあの奇妙な陶酔感が残っているような気がしてそれがますます私を恐ろしくさせた。そして、その後も山道を歩いている間中ずっと、誰かが森の奥に立って私を見ているような気がして、そんな感覚を引きずったまま歩いていると、意識しまいという強い意識の中でふとした拍子に森の奥に目がいった時、そこに白い服を着た青白い顔の女性が森に溶け込むように立っているような気がして背筋が凍りつくような思いをしながら歩き続けた。いや、本当に怖かった。

 そういえば、山といえば熊野の山中では死人に会えるという、そんな話があった。いぜんなにかに取り憑かれたように熊野に惹きつけられ、長い休みのたびにあの辺りをふらふらとまわっていたとき読んだ本にそんな言い伝えがあると書かれていた。自分の身近な人間の霊に会えるのだというが、その話を読んだとき、死人はどのような姿で現れるのだろうかと思った。死んだ時の姿そのままで現れるのだろうか。本人が自由に選べるのだろうか。それとも普通の登山客のような姿で現れるのだろうか。三番目が一番恐いような気がする。日中に山道を歩いていると前から登山客がくる。道を譲ろうと少しさがりすれ違う。挨拶を交わそうと顔を上げる。目が合う。どこかで見たような顔である。一瞬考える。それが自分の知っている死人だと気づく。真昼の山道で登山の格好をした死人―しかも知り合いの―と出会ってしまったら一体どうすればよいのだろう。すぐに消えてくれればよいが、立ち止り話しかけられでもしたらどうすればいいのだろう。何を話せばよいのだろう。やあ、久しぶり、元気かいとでもいわれたら、君よりは多分元気だと思うよ、そうか、体は大切にな、ああ、お互いな。会話をした後、死人はどうするのだろう。そのまま山をくだるのだろうか。あるいは私と一緒に登山を続けるのだろうか。とても気を使いそうだ。
 そういえば昔こんな話を読んだことがある。確か内田百閒だったと思うけど、夜、土手の一本道を歩いていると向こうから誰かが来る。近くに来て顔を上げるとそれは自分の兄だった。久しぶりに会ったと思い話をして別れ、それから、ふと、思い出す。兄は死んでいたという事を。でも自分はただ思うだけだった。ああ、死んでいたのだったなと。私はこの話を読んで、何かふわふわとした気持ちになったのを覚えている。そして、このふわふわとした気持ちのことを幻想的というのだろうかと思った。

 熊野といえば去年の8月、いきなり休みが三日もらえたはいいけれど別にやることもないしなぁと一度は帰省しようかとも思ったのもつかの間なんだか面倒くさくなり、ムーンライトながらの切符がとれたので、18切符を使って京都にいってきた。はじめは久しぶりに奈良の天川にいき温泉にでも浸かろうかと思っていたのだけど、京都駅で乗り換えの電車を待っていたらなんだか面倒くさくなりそのまま駅をでて街を散策し古本屋をまわり、夜は大阪の友人に会いにいき酒を飲み一日を終える。翌日も京都の古本屋をふらふらとまわり、ときたま寺社仏閣をみてまわる。ちょうどダ・ヴィンチで森見が特集されていて、そこにのっていた森見がバイトだかちょっと手伝ったかなんかしたという古本屋も見にいく。それとあの有名な恵文社一乗寺店も。ちなみに大阪を往復したときに電車を使った以外は総て歩き。気がつくとかなり古本を購入していたので死にかける。というか脱水症状になりかけていたような気がする。京都は暑い。

 古本といえば、出発する前夜、四方田犬彦『先生とわたし』を読み終えたのだけど、その中に丸山静という人の話があった。なんでも名古屋にいた市井の学者だという。その描かれ方を見ると、由良君美におさおさ劣らぬ碩学の人らしいけど、はじめて目にする名前で、ほえーこんな人おったんやと気になったのは、由良君美と対談した「直後に『はじまりの意識』という大著を纏め、やがて馬頭観音の研究を端緒として熊野研究へと向かった」(四方田犬彦『先生とわたし』p75〜76)とあるからで、「熊野」のところに反応し、そんな碩学が書いた熊野の研究を読んでみたいなーなどと思っていたら古本屋で見つけてしまう。丸山静『熊野考』。驚く。あるんだなこういうことって。前々日まで存在も知らなかった著者と作品。もし『先生とわたし』を読んでいなければ棚で見ても素通りした公算が高い。そう考えると、なんだか感動的な気がする。ちなみに『熊野考』はあの「せりか書房」からでているのだけど、『先生とわたし』の中でこの作者について書かれているところは「せりか書房」という文化運動がいかにして生まれたかを書いていてめっさ面白い。
 
 といいながら、『先生とわたし』で一番興奮したところは由良君美の父親、哲次の話。『先生とわたし』によると由良家は奈良県丹生市にある丹生神社の神官の家系で、南朝の遺臣の血を引く一族だという。三重県立第三中学校(現在の上野高校)へ進学し、そこで一級下にいた横光利一と終生におよぶ深い親交を結ぶ。京都大学に学び、卒業後、ドイツに渡りそこでエルンスト・カッシーラーに師事し、帰国後、東京高等師範学校で教鞭をとるようになるとともに、いくつかの大学で哲学を講ずることになる。第二次世界大戦下ではナチズム、ファシズム民族主義的なものに傾斜し、「大東亜共栄圏」の歴史的な必然性を説くようになったという。そんな中、1937年『歴史哲学研究』を出版したところ、神宮皇學館の学長をつとめていた国語学者山田孝雄から手紙がとどき、以後彼らは深い親交を結ぶようになる。この出会いが縁となり哲次は1943年から神宮皇學館で集中講義をするようになる。戦局が日増しに厳しくなるなか、わざわざ伊勢まで訪れたのにはわけがあったという。二人は北畠親房の事跡を調べようとしていたのだという。周知のように北畠親房といえば南朝正統論最大のイデオローグであるとともに、この時期の皇国史観のバックボーンをなす『神皇正統記』の作者。南朝の一族という伝承を持つ家に生まれた哲次は中学時代に郷土史家の影響をうけ、家に伝わる古文書を読み、そこに書かれた事跡を求め奈良の山野を歩き回ったのだという。その記憶がここにきて民族主義的なものと結びついたのか、二人は熱心に調査を続けやがて大和宇陀郡福西荘址に親房の墓所をみつけることに成功したという。で、私は次の文章にぞわぞわと総毛立った。

ちなみに由良君美のゼミ生で、第2章でわたしが名を掲げた『地球ロマン』編集長の武田崇元は、あるとき君美にむかって異端神道の話を切り出したことがあった。君美はパイプを燻らしながら武田の話に愉しそうに耳を傾け、その後で「そういえば昔、日本にもナチス神道というのがあってね」といいかけた。関心をもった武田が聞き質すと、君美は慌てて誤魔化し、別の話に変えてしまったという。おそらく彼の念頭にあったのは、哲次とその周辺にあったイデオローグのことであったはずである。

四方田犬彦『先生とわたし』p115

ナチス神道」ですよ!

 ちなみにいう。哲次が『歴史哲学研究』を発表し、北畠親房に深くかかわりを持つようになる1937年からさかのぼること3年の1934年。大西源一という人物が三重県度会郡の五ケ所小学校で愛洲氏についての講演を行なった。この愛洲とは南朝方に組し活躍するとともに、後に北畠家の家臣となった一族。講演の中で大西はこの一族から移香斎という武芸者が生まれ最近その一族の子孫が名乗りでたという。

愛洲氏の子孫と云ふものは、如何なりましたか。これまで少しも知られなかつたのでありますが、近頃其のたしかな子孫の方が、秋田市に現存して居られることが明らかになりました。今年(引用者注 昭和9年(1934))三月、名古屋中央放送局の計畫にかゝる、建武中興六百年記念講座に於て、一日私は「南朝の東藩閼國伊勢」と云ふ題の下に、三十分の公演を致しまして、丁度幸ひ全國中繼でありましたゝめに、秋田市の平澤波治と云ふ方が、それを聞かれて非常に喜ばれ、愛洲氏の子孫は自分である、記録類も所持しているからと云ふ書面を下さいました。

―中略―

 平澤家ではこれを動機に、更に、庫中を捜索されましたところが、其の祖(引用者注 原文旧字)先愛洲移香(又推孝、名は久忠)と云ふ方の、自筆の兵法の書き付や、其の子の美作守(宗通)及び修理亮(宗通)と云ふ方へ、佐竹義重が兵法の入門をされるに就て差し入れられた、永禄七年八月九日付の起請文と書鏐、其の次代の義斯公の天正十年六月十三日付、元香斎(宗通愛洲)同じ小七郎(常通)連名宛の起請文などの、當時の實物が現れまして、それを吉川さん(引用者注 平沢波治氏の娘かその旦那かと思われる)がわざ/\持つて来て、見せていたゞきました。


南朝の隠れたる勤皇家伊勢愛洲氏」(大西源一『南朝之砥柱』所収,愛洲顕彰会,1935.p.179〜180)

 さらにいう。この移香斎久忠がおこした流派を陰流という。この流派は久忠の息子、宗通に伝わる。宗通は常陸に移住し佐竹家に仕えることになる。時に永禄7年(1564)。北畠親房常陸小田城の陣中で『神皇正統記』を著すこと230年後のことである。この陰流は上泉伊勢守秀綱という人物にも伝わる。秀綱は自分の習い覚えた術儀を「新陰流」と号し弟子に伝える。その中に柳生宗厳という人物がいた。いわゆる「柳生新陰流」の起こりである。以前ここにも書いたように、柳生家と南朝方には深い関係がある。
 そしてこの話に、由良家に関わる丹生神社が柳生の里のすぐ近くにあるということは別に関係のないことである。
 ちなみに今村嘉雄『定本 大和柳生一族 新陰流の系譜』にこのような文章がある。

「天石立神社からもとの疱瘡地蔵道へもどって左折して南下し、道を左にとれば丹生に出る。ここに丹生神社がある。かつてこの境内に福王子(丹生神社神宮寺)というのがあって大般若経六百巻(永享三年木版刷折本の完本)と大乗経四百巻(応永九年、天文三年全巻写本折本)が所蔵されていた。福王子廃棄の際散逸したが、同村出身者由良哲次博士によって一部回収され、同社に所蔵されている。経文寄進者の中に柳生松吟庵長盧*1の名が見えている。」

今村嘉雄『定本 大和柳生一族 新陰流の系譜』(p23〜24)

Welcome to the目眩く偽史柳生World!!

*1:この松吟庵はなぁ……。どうにもよくわからない人物で今村嘉雄 編『改訂 史料柳生新陰流 上』(1995.新人物往来社)の「大和柳生家系譜」(p37)では家厳の息子として七郎左衛門の名が見えていて、そうすると宗厳の兄弟なのだけど、本文中の「玉栄拾遺」では家厳の項にその名前がみつからず、その父親の重永のところに「軍伝曰」として「次男 某 七郎左衛門後号松吟庵子孫為家臣系別ニ録ス」とある(p46)。私はこれを「七郎左衛門、後に松吟庵と号す。子孫のなす家臣の系、別に録す」と読み下した。しかしながら読みは私が漢字が苦手なので間違っている可能性があるのでなんとも心もとないのだけど、まあもしこの通りならば『軍伝(恐らく「和州諸将軍伝」)』では七郎左衛門を家厳の弟して書いていて、これが正しいのなら、松吟庵は石舟斎の叔父という事になるかと思うのだけど。どうにもこうにも。