こんなグルグルまわる家いりませんよ

 森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』読了。およそ二年ぶりの新作。堪能する。オビを見ると「森見登美彦作家生活10周年」とあり、一驚。10年!
 はじめて『太陽の塔』で森見作品に触れ、一読後、当時一緒に暮らしていた人に「とうとうわれわれの時代の作家が生まれた!」と叫び、冷たい眼で見られてからもう10年!

 森見登美彦というと、どこで眼にしたのか忘れたものの影響をうけた作家として内田百輭をあげており、さもありなんと思ったけれど、今回の作品を読んでいる最中、この感じはなにかに似ているな何だったっけ、うーん、この茫洋とした感じというかお酒に酔ってふわふわしているような感じ、ってそれはそのままか、うーん、でもこの酔いはじめのような柔らかな酩酊感が物語にえがかれている以上に、文章と不可分な感じがして、この読書体験て、と思っていたら、途中にでてくる秘密団体の名前を見た瞬間に「木曜の男」という単語が頭に浮かび、そこからチェスタトンにいき、一気に氷解する。あ、吉田健一に似ているんだ。

 テングブランとは不思議な酒だった。いや、これは本当に酒なのだろうか。割った葡萄酒の味をくるみこんでいるものは、何か透明な、良い香りのする、曖昧なものだった。口の中をチクリとも刺さない。酒精分が入っているのかどうかも曖昧なまま、胃の腑へ落ちていく。
森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』(朝日新聞出版 p204)

 そうして宵山の喧騒に耳を澄ましていると、自分の立つ位置が曖昧になってくる。どうやら少し浮かんでいるらしい。目を開ければ元に戻ってしまう。もう一度目を閉じると、また身体は浮かんでいく。そんなことを繰り返して遊んでいるうちに、自分の位置を少しずつ引き上げていけるような気がした。眼を閉じたままでいれば、まるで自分が空にいるように感じられた。頰に当たる風はたしかに空を渡る風である。
同上(p205)

 このあたりとか、吉田健一のこんな文章を思いだす。

 大体、どこの酒でも、いい酒であればある程がぶ飲みするやうに出来てゐない。飲み難いといふのではなくて、酒は上等になるのに従つて味その他が真水に近くなり、(…)水に近いだけでなくて更にその他に何かがあり、分析すればこくだとか、匂い[ママ]だとかになるその何かががむしやらに飲まうと逸る気を引き留める。本当に美しいものを前にした時、我々は先づ眼を伏せるものである。酒にもそれと似た所があつて、水に近いまでに冴え返つたその正体がやがて味や匂ひなどに分れて行き、それをゆつくり楽まうと思へば、ゆつくりする他ない。そしてその間にも、余計な苦労をしない程度に酔ひが少しづつ廻つて来るのが、酒といふものの有難い所なのである。酔ふのが目的なのではなくて、酔ふことも酒を楽むのに必要な一つの順序に過ぎない。
吉田健一「酒と人生」(『旨いものはうまい』グルメ文庫 p74)

(…)酒が旨いといふのはその味がいいといふことであるとともに、飲んでゐるうちに体がどことなくふはふはして来ることでもあり、羽化登仙した積りで立ち上がると、別によろめきもしないのは、これも不思議である。必要とあれば、又、踊りを知つてゐさへすれば、踊ることも出来る筈であつて、それであの「勧進帳」の弁慶は一升酒だか何だかを飲んだ後で富樫の前で舞ふ。
同上(p107)

 一度連想が動きだしてしまうと、内省や韜晦や諧謔の混ざり具合が嫌らしくならず、絶妙なバランスで成立する森見の文章がえがくところの、主に京都を舞台にした作品世界と、吉田健一の、たとえば『東京の昔』や『旅の時間』や「金沢」などの物語性のつよいというか、彼の文章の中で一番「小説らしい」作品がえがく土地の感じが、とても近しいもののように思えてくる。二人の作品を読んでいてつい笑ってしまうその笑いをおこす文章のメカニズムが、割合に近しいところにあるのではないかとも思う。作中人物の会話の妙とか。