この人やゆく道なしの飲んだくれ。当たり前だが、タイトルと以下の文章には何の関係も無い。

 内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』を読んでいると、人間の身体感覚について書かれたところがあった。内田は身体感覚、身体の感受性をバランスよく鍛えるための方法の一つとして、子供の遊びを例に挙げこのようにいう。

 

 たとえば「ハンカチ落とし」という遊びがあります。(中略)
 この遊びはどんな知覚を開発するためのゲームなのでしょうか。
 ハンカチは背中で落とされますから、もちろん目には見えないし、音もしません。ハンカチが背中を落下するときの空気の振動は「鬼」の騒がしい足音に比べればほとんど知覚不可能でしょう。それでも勘のよい子は、ハンカチが地面に落ちる前に、地面の後ろに「鬼」がハンカチを落としたことを察知します。いったいこの子は何を察知したのでしょう。
 それは「鬼」の心に浮かんだ「邪念」です。
 「この子の後ろにハンカチを落としてやろう」という、「鬼」の心に一瞬兆した「悪意」を感知するのです。
 別にオカルト的な話をしているのではありません。人間は誰でも緊張すると心拍数が上がり、発汗し、呼吸が浅くなり、体臭が変化します。(中略)
 勘の良い子どもは、自分の後ろでハンカチを落とした瞬間の「鬼」の緊張がもたらすこの微弱な身体信号を敏感に察知することができます。ぼくはそれを「邪念を感知した」というふうに言っただけです。


内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p126〜127


 この他に内田は「かくれんぼ」「鬼ごっこ」「缶蹴り」といった遊びを例に挙げ、これらの遊びがいかに子供の「気配を察知する」という身体感受性の練磨に寄与したか、という話を続け、そういった感覚を訓練する体系を今の社会は組織的に失ってしまったとするのだけど、その当否はさて置き、この文章を読んでいて思い出したことがある。


 私は昔、ほんの少しだけ武術をかじった事があるのだけど、その時習っていた流派にこんな型があった。
 攻撃を受ける側(これを「取」という)は正座する。攻撃を仕掛ける側(これを「打」という)は「取」の後方、数メートル離れたところに位置する。「取」の略式の礼を合図に「打」は静かに「取」に近づく。「取」のすぐ背後に来た瞬間「打」は素早く「取」の真横に踏み込み、「取」の顎と頭に手をかける。この型には左右のパターンがあり、「打」から見て左側に踏み込んだ場合(つまり「取」にとっては自分の左側面に相手が来ることになる)は左手を顎に、右手を頭にかける。逆に右側から攻撃する場合(つまり「取」にとっては自分の右側面に相手が来ることになる)は右手を顎に、左手を頭にかける。このまま、「打」が力を入れれば、こきっと「取」の首が折れてしまうので、顎と頭に手がかかった瞬間、「取」は首を捻られないように強く顎を引きながら、顎を押さえている方の掌(「取」の左側面ならば「打」の左手、「取」の右側面からならば「打」の右手)と肘を掴む。片足を立てると同時に「打」の手首を捻り関節を極めながら前方に投げ落とす*1。「打」は受身を取る。仰向けになった「打」の懐に入り込み、脛でその二の腕を押さえつけ、肘の側にある急所を圧迫すると同時に手首を極める。「取」は一歩退き、残心を取って(「勝切」といっていた)終了。


 この型には「頤捫(おとがいひねり)」という名前がついていた。ちなみに「頤」は「あご・下あご」、「捫」は「ねじる・ひねる」の意。つまりこの型では「何者かが背後から自分の首を捻りにきた」という状況で、どのようにしてそれを捌くのかが問題になっているわけなのだけど、普通に考えると、相手がこちらの型に合わせて行動してくれるわけもなく、そもそも首に手がかかったら、このように対応している暇もなくその瞬間折られてしまうような気がするのだけど、型ではそのようなことはいっさい問題にならないし、しない。
 なぜというに型というものは様々なシチュエーションでの、殆ど無限にあると思われる人間の動きを抽象化し再編成したものであり、それを学ぶ者に、武術(個々の流派)が要求する身体感覚を効率よく伝えるために考案された、実際には有り得ない状況と動きの総体だといえるからだったりするので、個々の型をいちいち俎上に載せて「実際は型通りにはいかない」だとか「あんな動きは不自然だ」とかいうのは、例えば英語の文型の例として挙げられた「This is a pen」という文章に対して、「実際はそんな言い方は使わない」とか「これがペンなんてみりゃ分かるだろう」というような文句をいったり嘲笑するようなものだといえる。英語という体系を学ぶに際し「This is a pen」という文章がどのような役割を持って配置されているのかを考えて文句を言わなければ的外れになるのと一緒というか。別に英語を教えるに際し「This is a pen」という文章を考えた人だって、「これはペンです」という「意味」を教えるためにこういう文章を作ったわけではないだろうというか。
 

 閑話休題


 面白い事に、この型を繰り返しているうちに、自分の後ろにいる相手がどの辺りまで来ているのか、という感覚が非常に敏感になり、終いには「後数歩、三歩、二歩、一歩、来た」と思った瞬間、顎と頭に手がかかっている、というようになっていた。内田の言葉を借りるならば「私の首を捻ってやろう」という「相手」の心に一瞬兆した「悪意」を私は感知できるようになっていたのだろうか。この型に限らず、三年という短い間だったけど、この流派を習っている最中、何度も面白いことがあった。例えば自転車で下り坂を物凄いスピードで降りている時、何か嫌な感じがして首を横に振った瞬間、頬を虫のような大きな塊がかすめていったり、角を曲がった瞬間、不意に人があらわれても気づかぬうちに身体が避ける動きをしたり、教室の扉を開けた瞬間、上から降ってきた黒板消し(何て古典的な!)を避けたりと、今では大分鈍ってしまったこの身体が、思いもかけない動きをした。何か一瞬の「イヤな感じ」がした瞬間、感覚と身体がずれることなく反応するようになったというか。型だけならば、繰り返し稽古しているうちに相手がくるタイミングが予想できるようになっただけだといえるかもしれないけど、それ以外の場所でも感覚が敏感になったという感じがあったので、まあ、身体感覚の練磨として効果があったのだろう。いや、面白い。そろそろまた何か始めようかと思っているのだけど、数年前から思っているので、このまま思っているだけに終わりそうな気もするのだけど、やはり『疲れすぎて眠れぬ夜のために』に「もし、君の身体が何だか分からないけれど、ある動きを求めてうずくようなことがあれば、それは未開発の身体能力が呼び起こされることを求めているのだ、と考えてみるといいよ(p145)」とあったので、すると今の私の身体は杖か刀を求めていることになるのか。うーむ。色々と落ち着いたら習いにいこうかしら。
 

*1:便宜的に分けて書いているけど、本当は顎を引いてから投げ落とすまでは一拍子。