「濃すぎる光を持てあましてるのね」アイスクリームなめつつ見る月(安藤美保)

 先日友人達と飲んでいて、木村紺『からん』の話になった。
 一巻の第〇話に、関東にいる人達がでてくるが、あの伏線は回収できるのか。できるとしてもこの展開の速度を考えると、いったい木村紺はどれくらいのスパンでこの物語を考えているのか。やたらに構築性が高くないか。『神戸在住』とは真逆の構築性。木村紺にいったいなにがあったのか。柔道にしても内容がちゃんと描かれているけどブレーンがいるのか否かどうなんだ。寝技なら、という言葉に高専柔道を連想した人、はーい、はーい、雅が実は三校の流れを汲む高専柔道を修めていたみたいな!? あーいいねそれ! 子供時代に近所に住む爺さんから三校の流れを汲む高専柔道を教わったのな、で、実はその爺さんは戦時中大陸で……。はいそこまで。伏線といえば、物語の合間合間に挿入される、雅と京が夏に一緒にいる場面というか心象風景? あれはなんの伏線なのだろうか、などなど『からん』の話は尽きず。今後どんな展開になるんだろうね、という中で「そういえば」と私がいった。
「金春っていつ目覚めるんでしょうね?」
「ん? 目覚めるって何に?」
「そりゃ決まってますよ。己の身の内に流れる『夜叉神の翁』の血にですよ」
「……君が何をいいたいのか全然わからないのだが」
「いや、ですから、金春といえば金春一族。金春一族といえば『明宿集』で子孫の金春七郎氏勝。金春七郎氏勝といえば『夜叉神の翁』。物語の中に『金春』という名前と、武道の話がでたらこれはすぐにつなげて考えたくなるじゃないですか。金春の中に流れる異形の血が沸騰し荒ぶる神になるわけですよ。で、そこでそれを鎮めるのが渡辺流の舞を修める九条京なわけですよ。ちなみにいうと京舞の井上流には三代目の頃からどうやら観世能が入っているみたいなんですけど、もしも渡辺流に井上流の影響があったとしたら、金春の一族と観世流の動きの激突なわけですよ。これはあるでしょ」
 いっせいに突込みが入る。
「それはない」



 というわけで『からん』の四巻がでたわけだけど、今回も凄かった。高瀬が柔道をしている理由を比嘉が尋ねる場面。

「私はね 人間の可能性を知りたいの 才能に恵まれた者の到達点! 才能の乏しい者の限界点 そしてこの自分がどこまでゆけるのか」
「困難に挑戦しそれを乗りこえ 人間が成長するその瞬間! それを目のあたりにしたとき ドッ と血が脈を拍つ! 掌が汗ばむほど興奮する!」
「あえて言うなら その瞬間に居あわせるのが私の望み なのかな?」


木村紺『からん4』p72-73

 ふと、『からん』という物語を「血」と「才能」と「努力」という三角形で考えてみると面白いと思った。
 これは直感的な話ではあるのだけど、おそらく物語(相対的に優劣を決定するような物語には特に)には「血」の物語と「才能」の物語と「努力」の物語がある。
「血」の物語はあるキャラクターの「特殊」な能力の理由を「血」に還元する(キャラクターが属している一族がその能力を保証する)。
 それに対して「努力」の物語は、あるキャラクターの「特殊」な能力を「努力」のおかげだとする。この物語の起源は明治維新の後、立身出世の物語により、より強化されたような気がする。そして「才能」の物語は、「血」の物語の近代以降の流れの中にあるように感じる。伝奇を思うと、そこに伏流するのは近代以前の「血」(=一族)の物語で、その否定形、あるいは一種の変容として「才能」という物語が発生したのではないかというような気がする。ある能力が、ある一族ではなく「個人」に属するものとして理解されるようになる。先天的な能力と後天的な能力が、そのように語られるようになる。「血」と「努力」という対立項から「才能」と「努力」という対立項へ。
 京都という古都を舞台にしているためか、「血」の物語を語りやすくしているようにも思える。ある一族の話、特殊な才能を持つ人間の話、努力をし続け何かを手に入れようとしている人間の話。

 それはさておき、今回語られる京の能力。見たものを映像のように記憶する「直感像記憶」。一巻の頃からこの「視る」能力の伏線をずっと張ってきていたのが、ここにきて一気に回収された。またその手つきが美しい。京の「異質性」をより特徴付ける能力なわけだけど、もしこの「直感像記憶」を「自閉症(あるいはアスペルガー症候群)」と置き換えれば、この『からん』という物語は木地雅映子が書いている物語とそのままつながるように思える(特に雅が京にその能力がいかに他の人と違うのかを説明する場面)。異質な存在とそれをとりまく人間の物語。そういえば『神戸在住』で、桂が『氷の海のガレオン』を読んでいる場面があったけど、活字倶楽部あたりで木村紺木地雅映子の対談とかやってくれないものだろうか。

 さて、巻を追うごとに雅の認識能力と分析癖がどんどん強くなっている印象をうけるのだけど、今後これはどうなるのだろう。ものすごい危うさを感じる。そもそも、何故15、6歳の少女がそのように物事を見る、考えるようになったのかということを思うとやはり異様な感じがする。この巻の最後、雅と萌のやりとりが、今後の伏線になっているのだろうけど、雅は、なにがしたいのだろうか。色々なものを自分の目指すところへコントロールしようとしているように見えるし、そのようにできると考えているようにみえる。あるいは、その予行練習か*1。人間関係をパズルのように捉え、あるべき姿へ淡々とピースを動かしているような感じ。
 これはけっこう恐い。
 自分のことを「他人事みたいに話す」客観性を持った人間が、他人を、周りをどう見るのか。
 こういうタイプの人間はえてして自分に理解できないものがある、ということを本当には理解できないように思う(というか、理解できないものとは、その定義上、理解できないものだから、当たり前の理屈ではあるのだけど)。今回も、京の「異様な」能力を見て、「隠すとより異質さを浮き彫りにしてしまう」と考えた雅は、皆の前で、その能力がどのようなものか説明する。この場面、雅は「京は異質な存在であるが、その異質性を隠すより、皆の前で説明をすることで、その異質性を薄めようとする」わけだけど、雅の仲間達とそれ以外のクラスメートを分かつようなコマの運びのうちに、結果として京の異質性をより強調してしまっているように読める。
 おそらく雅には自分の、その分析的な能力がある種の傲慢さにつながる危うさを持つということに対する自覚はあり、そのような傲慢さを表にださないだけの知性はあるのだけど、自分が傲慢だとわかっているが故に自分は傲慢ではない、と思っている人間が漂わせる傲慢さに、雅は気づいていないと思う。そしてある種の人間がその傲慢さに敏感だということにも。そこに悪意や敵意が生じるということにも。何かをなそうとしている人間は往々にしてそのような悪意や敵意に足元をすくわれる。一度発生した悪意や敵意の除去や調整には莫大なコストがかかる。だから賢い人ははじめから悪意を生じさせないように振舞う。雅もそれはわかっていて、予め悪意や敵意が発生しないように振舞っているのだけど、そのような振舞いがより傲慢な印象を与えかねないということに鈍感なように見える。
 ただ、そういう人は常にコスト計算をしていて、周りに気を配り悪意や敵意を生まないようにすることが、発生した悪意や敵意を潰すことよりもコストがかかると思えば、平然と周りを無視するようになる。これは恐い。「なんか九条さんて 恐いね」というクラスメートの台詞は実は雅に向けられたもののようにも思えた。
 ところで、パニックに襲われそうになった雅が、一巻にでてきた、おそらく親族である「保」という青年を思いだすことでパニックを抑える場面。これは今後、どのような展開を見せるかも気になった。

 あとはコマの外のモノローグとコマ内の発話がつながる瞬間は気持ちがよいなーと。具体的には第18話の終わり。物語内の発話、つまりそれまでの流れの中に生まれる発話と、いきなり挟み込まれるモノローグという異なる位相にある言葉が一つにつながる瞬間。一つの台詞が二つの意味を持つように描くというやり方は、もしかするとこのマンガの特徴の一つかもしれない。

 そういえばここ最近、衿沢世衣子『ちづかマップ』、麻生みこと路地恋花 1』、中村明日美子『卒業生-春-』、あとこれはちょっとしかでないけど、西炯子娚の一生3』と、京都がでてくるマンガによく出会った。最近、本当に久しぶりに『聖★高校生』の新刊をだした小池田マヤにも、ぜひ京都モノを描いて欲しいと思ったことであるよ。京都の学生生活とか。肉欲まみれの甘酸っぱさが感じられるような。

*1:あ、なんでこんなことを感じたのか思いだした。榛野なな恵の『パンテオン』の桃子と彰子の関係を重ねてしまったからだ。