いまだにウッカリして甘いお茶なんて飲んだりしたり 

 筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)を購入。筒井の「小説作法」とあってはこりゃ読まな、と近くの居酒屋で読み始める。仮フランス装の瀟洒な装丁。柔らかな手触り。飲みながら片手で読むのに軽くてとても良い。目次を見ると「凄味」「色気」「迫力」「幸福」……などなど面白そうな項目が並んでいる。ぱらぱらと索引を見てみると、なかなか丁寧につくってある。作品名と作家名がわかれているのも良いですね。探しやすくて。索引を見ているだけで楽しくなってくる。そういえばなぜか、江戸川乱歩(だけ?)が旧字になっていたのだけど何故だろか。
諧謔」という項目にこんなくだりを見つける。

 実は「猫」〔「我輩は猫である」〕に夢中になる以前、小学校に入る前からもう一冊、夢中になっていた本がある。弓館芳夫という人の「西遊記」だ、これはギャグや言葉遊びの洪水だった。弓館芳夫という人は東京日日新聞の記者をしていた随筆家で弓館小鰐というペンネームだったが、この本は軽装の戦時体制版だったためか本名で書いている。

筒井康隆『創作の極意と掟』p259-260

 本筋とはまったく関係ないのだけど、「弓館小鰐」というこの名前、はて最近もどこかで目にしたなと帰宅して本を漁るに、先週読んだ野村胡堂『随筆銭形平次』(旺文社文庫)にあった。野村胡堂の中学校時代の同級生だった。

 弓館小鰐があんなに巨大な豪傑になろうとは、誰が一体思い設けよう。かつての弓館小鰐は、筆名を小学生と名乗ったほどの小柄な美少年であったが、身体が大きくなると共に、それを小鰐と変え、万朝から毎日新聞に移り運動記者としての大元老になった、同時に「西遊記」の現代語版の作者でもある。

野村胡堂『随筆銭形平次』(旺文社文庫)p27

 大きな人だったらしい。考えもしないところで私の中で筒井康隆野村胡堂が結びつきなんだか面白い。そういえば、と思いだし書棚をさぐり筒井康隆筒井康隆の文藝時評』(河出書房新社)を見つける。考えもしないといえば、この本は「文藝」に1993年の春季号から冬季号まで全四回連載されていた「時評」で、奥付をみると、ちょうど二十年前のいまごろに刊行されていることに驚く(1994年2月25日初版発行)、主に時間の経過に、早いなぁ、94年ってもう二十年前かよ!ということはどうでもよく、何故にこの本を思いだしたかというにここにも考えもしない結びつきがあり、五年ほど前に古本屋で買って読んでから、それが頭のどこかにずっと引っかかりつづけていたからだった(ということとは別に、この本でやっていることと『創作の極意と掟』のなかでやっていることが同じ―つまり小説に対する「批評」―で、やっぱり筒井は凄いなぁ、などと思ってしまう)。この本は、「時評」ということもあってか多くの作家や評論家の名前がでてきて、その人について後注形式で説明しているのだけど、そこに取り上げられている名前を見て、さてこの中の何人が現役の作家としていま書いているのか、と思うとなかなかに恐ろしいものがある、というのとは別に、考えもしない結びつきというのが、この本のなかに名前がでてくるけれど後注にでてこない人、つまりこの時点では作家でも評論家でもない人が、おそらくいま作家として活躍している、ということだったりする。「文藝時評◇第2回」に書かれたこんなくだり。

「聖者たちの街」は大阪を舞台にしていて、主人公は私立探偵である。私立探偵とくればすぐ、ハメット、チャンドラーといったハードボイルドの作家に連想が働くのは、いかに短絡であるとはいえ、やはりしかたのないことだ。(中略)一方やはり大阪を舞台にして、こちらははっきりハードボイルドを謳った黒川博行の「封印」(文藝春秋)が出ていてやけに評判がいい。何通信社系なのか知らないが「神戸新聞」の書評欄には「エンターテインメント」なるコラムがあり、荒山徹という人が「ハードボイルド・シティとしての大阪の魅力」とか「浪速ハードボイルド」なんて言葉まで創造して賛辞を呈している。

筒井康隆筒井康隆の文藝時評』(河出書房新社)p90

 明敏な方はもうお気づきだと思うけど、もう一度繰り返そう。

何通信社系なのか知らないが「神戸新聞」の書評欄には「エンターテインメント」なるコラムがあり、荒山徹という人が「ハードボイルド・シティとしての大阪の魅力」とか「浪速ハードボイルド」なんて言葉まで創造して賛辞を呈している。

同上(太字は引用者による強調)

 というわけで、荒山徹には是非、大阪を舞台にした現代モノの「浪速ハードボイルド」を書いて欲しいと思ったことであるよ*1
 そしてここまで書いてきて、これはもしかしたら『創作の極意と掟』の項目にあるところの「妄想」というやつなのではないかとも思ってしまう。脳のクセか。困ったものだ。

*1:ちなみにまったくウラはとっていないので、ただの同姓同名の可能性は否定できない。それはそれでも面白い。