「それはつまり『終わりなき思春期を生きろ』ということですね!」「いや、ぜんぜん違う」

「考える人」2008年春号 特集海外の長編小説ベスト100を読んでいたら「私の海外小説ベスト10」というアンケートがあり、それに触発され自分の海外小説ベスト10を考えてみるが思えばまともに海外小説、というか翻訳ものにちゃんと触れるようになったのは20歳をすぎてからなので絶対量が足りていないのだなぁと嘆息し、回答者のコメントをみて己の不在する教養を嘆くもまあしょうもなし。でもなぁ、子供の頃はひとなみにポプラ社のルブランに夢中になり(でもドイルは駄目だった。あ、いや、『失われた世界』のような冒険ものは好きだった、なんだミステリが駄目だっただけか)、別に翻訳ものとか意識していなかったのだけど、今思うとあれは翻訳というよりかは改訳とか翻案に近かったんだろうな、そう考えると意識して読んだ、あるいは読もうとした「大人向け」の翻訳ものといえば記憶にある限りで一応こちらから扉をノックしてみたのが11歳のころクイーンの国名シリーズの『ローマ帽子の謎』で、確か5頁くらいで閉じたのを覚えているだって読み辛かったんと字ぃ小さいし行間ぎちぎちだし読めるかこんなもん!とその頃クラスで流行っていた深沢美潮フォーチュン・クエスト』に戻った記憶がある。この時に翻訳ものに苦手意識が生まれたのか、結局リベンジするのに10年かかった。しかも別に面白くなかったといったらまわりに、んじゃこれとこれとこれとこれ……読めといわれてカーとかヴァン・ダインとか、チェスタトンセイヤーズアジモフ、ブランド、ケメルマン、バリンジャー、バークリーなんかを読まされたけど、うーん、いや面白くなかったことはなかった、というか面白かったんだけど、どーも肌合いがあわんと思い(アジモフ黒後家蜘蛛の会』は愉しんだ)やはり翻訳ものは駄目なのかと苦手意識が強まったものだけど、しかし今更ながらこのラインナップをみるとやたらに教条的に勧めてくれたものだな。とかいいながらも14歳の頃は創元の『ラヴクラフト全集』に端を発しクトゥルーものが好きになりそこから知ったコリン・ウィルソン『賢者の石』とかは今でもたまに読みかえすし、18歳のころに読んだキング『IT』は本当に夢中になった(文庫で読んだのだけど1巻読み終わった瞬間、近所の書店にダッシュした)し、同じくキング『スタンド・バイ・ミー』とかマキャモン『少年時代』あたりは大好きだった、ってあれか郷愁を誘うようなもので子供がポイントかわかりやすいな自分、そういえばケストナー飛ぶ教室』とかダイベック『シカゴ育ち』とかも好きになった三つ子の魂百まで。だから一応海外小説も読むには読んではいたのだけど、別に海外小説として意識して読んでいたのではなく本当になんとなく偶々手に取った作品を読んでいたというに近い。この頃はジャンルにせよなんにせよ体系的に読むという概念がなかったので、本当に適当にふらふらと読んでいて、一つ面白い作品があったらその作者を追うか、あとは同じレーベルで読むか、本屋にいって適当にパラパラと中をみて、あらすじを読み、解説を読み、なんとなくフックされたら買うという読み方をしていたので面白いものにあうのもつまらないのに当たるのも運次第だった(そういえば翻訳家とか全然まったく皆目気にしていなかった)、というのはでも今思うと別に悪い感じではなかったなぁ、ってそれは別に翻訳小説に限らないけど。

 閑話休題

 ではどっから翻訳ものにも一応抵抗なく読めるようになったかというとどうにも判然としないのだけど、一つのきっかけになったのは多分21歳の頃に読んだ『星を継ぐもの』。これは本当に面白かった。最後の砂漠の場面は総毛だった、って書いていて思ったのだけど、別に翻訳小説とか関係なしに面白いものは面白く(って当たり前か)たまたま読んだものが面白くなくて、かつそれがたまたま翻訳小説だった時になぜか強く記憶されて翻訳ものは苦手だ、と思うようになったのかもしれない。それはさておき、ホーガン。さすがに四作目の『内なる宇宙』までいくとだれてきたけど三作目の『巨人の星』までは夢中になりそこからホーガンを追いかけるようになり、海外SFって面白いですねという話しをしたら先輩にブラッドベリ火星年代記』『華氏451度』『ウは宇宙船のウ』を貸され読んだら面白かったんだけどホーガン読んで海外SFって面白いですねといいはじめた人間に貸すものなのだろうかブラッドベリ、いや感謝してますけど。あとは友人にスティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』を勧められて読んでわけわからんといったらお前駄目とかいわれて今度はギブスン『ニューロマンサー』を貸されて読んだらさらに輪をかけてわからん、というかだなホーガン読んで海外SFって面白いねといっている人間に……以下略。で、そんなこんながありながら(どんなだ?)、海外小説に苦手意識が薄れてきた(本当か?)わけなのだけど、読んだ比率からすると圧倒的にいわゆるジャンル小説が多くなってしまう。それ以外のものって読む意味がわからなかったし。なのでベスト10を考えると、どうしてもジャンル小説に偏ってしまい、今回の「考える人」にあるようないわゆる「文学」のカノンとして扱われてしまうような作品は殆ど読んでいない、というのは別にカノンだからとかそういうわけではなくたまたまと、本当に興味がなかったからなんだな。棲み分け。とりあえず便宜的に海外小説の中でも、ジャンル小説のベスト10と非ジャンル小説のベスト10を考えてみる。ちなみに出版社は私が読んだバージョン。


ジャンル小説ベスト10(順位なし)

ハーラン・エリスン世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハヤカワ文庫)
ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会
コニー・ウィリス犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』(早川書房
テッド・チャンあなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫)
ダン・シモンズハイペリオン』『ハイペリオンの没落』『エンディミオン』『エンディミオンの覚醒』(ハヤカワ文庫)
グレッグ・イーガン万物理論』(創元SF文庫)
コリン・ウィルソン『賢者の石』(創元SF文庫)
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(河出文庫
ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』(福武文庫)

 あ、駄目だ。何も考えずジャンル小説でベスト10だしたら、ほとんどSFベストになってしまった。……まあいいや。短編集がいくつか入っているけどこれはもう一つ一つの作品を切り離せない。無理。ジーン・ウルフは『ケルベロス第五の首』か『新しい太陽の書』シリーズかで悩んだけど、こちらで。『新しい太陽の書』シリーズは完結してないし、って、え!小畑の絵になるの!? コニー・ウィリスはどれを読んでもはずれがない(例外的に『航路』はそんなに楽しめなかったけどこちらの体調の問題かも)。短編集『わが愛しき娘たちよ 』もとても好きなのでどちらにしようか迷ったけど、ミステリとSFとロマンスとユーモアの完璧な融合にくわえパロディの楽しさまで入ってお得感満載のこちらにする。『ハイペリオン』から『エンディミオンの覚醒』はこれで一つと考えたい。めくるめく体験。なんかこう、シュライクはツンデレなんだよ、といった奴がいたけど、そういうこというな! 氷の地下世界をゆくところとかとても好きです。あの禅の用語のところとか訳すの大変だったろうな……。定まった運命を知りながら生きるアイネイアーの強さ。彼女を待ちうける運命を知った瞬間、読者は震える。イーガンは凄い。なにが凄いのかよくわからないけど、現代科学の極み(なんだよね?)を作品に持ち込みながら実は描いているのは人間の存在に関する思考実験ってあたりに震える。短編集『一人っ子』『祈りの海』も好きだけど、一つ選ぶならこれ。『賢者の石』は人間の認識の限界とクトゥルー神話をつなげる力技に感動。『精神寄生体』もよいけれどこちらの方が濃密でよい。しかしやっぱりクトゥルーものは、神々との対決とか退治とかがあると興醒めする。だからダーレスとかラムレイとかはどうも……。震えて眠れ!テッド・チャンははやく他の作品だしてくれんものか。表題作をはじめ間然とすることのない作品ばかり。インタビュー形式だけで話しを進めてゆく「顔の美醜について -ドキュメンタリー」は凄ぇ凄ぇと叫んで友人に鬱陶しがられた。顔のことをとやかくいうなと。あとは「七十二文字」、これ西行の話と比較したら面白いなぁと思った。七十二文字と三十一文字、そういえばびっけの某作品を読んだとき何故かこの作品を思いだした。エリアーデ幻想小説はつかみどころのなさが幻想で、けっきょくホーニヒベルガー博士って誰?って感じが幻想。


・ノンジャンル小説ベスト10

ポール・オースターリヴァイアサン』(新潮文庫
カート・ヴォネガット『青ひげ』(ハヤカワ文庫)
ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫
J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ』(新潮文庫
『バートン版 千夜一夜物語』(ちくま文庫)『アラビアン・ナイト』(東洋文庫
セリーヌ『夜の果てへの旅』(中公文庫)
J.L. ボルヘス 『伝奇集』(岩波文庫
スタニスワフ・レム『完全な真空』(国書刊行会
G. ガルシア=マルケス予告された殺人の記録』(新潮文庫
トーマス・マン魔の山』(新潮文庫

 ポール・オースターはどれも好きなのだけど一つ選ぶとすればこれ。『空腹の技法』も、なんというか、物凄く身につまされるのだけど、一応エッセイだし。同じくヴォネガットも一つにしぼるのは難しいのだけど、『スローターハウス5』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』と競ってこれ。何故だ。断章でしか語れない世界、崩れゆく地面の上でタップダンスを踊る感じ、ああ、でもやっぱり『青ひげ』の最後の場面はもう。

暗闇の中を抜けてこの家までもどってきたとき、サーシはわたしの手を握り、結局ダンスに連れていってもらったわね、といった。
「いつ?」とわたしはきいた。
「いま、わたしたちは踊ってるのよ」
「そうか」

カート・ヴォネガット『青ひげ』p363(ハヤカワ文庫)

 でも一番好きなのはこの場面。電車で読んでいて、本当に、もう、なんというかエキサイトしすぎて笑いの発作をおさえるのに必死になった。

「そうさ。おまえはとんでもないくそ野郎だ」と彼はいった。「さっそく彼女が追いかけてきてな、壁紙をどうしたのかときく。この血迷った魔女め、とののしってやると、むこうはいいかえしてきた。居候でおまけに、『唾で詰まったアメリカ文学のブリキの笛のくせに』、と。『わたしに向かってそのいいぐさはなんだ。文学をうんぬんする資格がきみにあるのか?』と詰問してやった。すると、彼女は答えたんだ」
 彼女がスランジャーに答えた言葉はこうだった―「私の小説は、去年だけでも、アメリカで七百万部売れたわ。そのうちの二冊は、いまこうしているあいだも、超大作映画として製作中だし、べつの一冊は去年映画化されて、アカデミー賞の撮影章と、助演女優賞と、オリジナル作曲賞をとったわ。わかったら、このとんちき、文学のミドル級世界チャンピオン、ポリー・マディスンと握手なさい! そのあとで壁紙を返さないと、その腕をへし折ってやるからね!」

同上p153〜154

 ハイホー(違う)。
 『魔の山』はちょうど20世紀が終わらんとしている2000年の12月に読んでいたことを覚えている。読んでいる最中は意識していなかったのだけどあまりにもできすぎていたので覚えている。『魔の山』が19世紀的なものに終わりを告げる作品(最後にハンス・カストルプが山を降りるところは、どうしてもそう読めてしまう)であることを考えると、読まれている作品と読んでいる時間とが変な関係を持って記憶に残っている。『千夜一夜物語』はちくま文庫版、東洋文庫版の両方で読んだのだけど、これはバイトで必要があって読んだので、なんというか、自分の読書とはちょいとばかし違くなってしまうのだけど、面白かった。覚えているのはやたらに強いお姫様(たしかイスラムの姫)が十字軍かなにかできたはずの金髪碧眼の若武者を魅了して一緒に西洋の軍隊と戦う話(ほんとうにそんな話があったかのか自信がないけど、そういう話があった気がしてやたらに面白かった、という記憶がある。そういう記憶をつくってくれたこの本はやはり面白かったと思う)。あと食べ物が美味しそうだった。『地下室の手記』は読んだ瞬間、「これは私だ!」と叫び、ものすごい笑われた記憶がある。まあ笑うよな。私でも笑う。『夜の果てへの旅』はちょうど『夜の果ての旅』から改訳(?)された瞬間にたまたま手に入れたのでとても印象が強い。生田耕作のエッセイを読み、セリーヌ読んでみたいなと思い本屋でさがしたら全然見つからず、がっかりしていたら二、三日後中公文庫ででてびっくりした。熱い泥濘の中をぐちゃぐちゃと進むような文章にうへぇと思いながら読んだ。『虚数』ともどもレムに関してはもう何もいえません。ばけもの。『伝奇集』は、むかし読んだ『生ける屍の死』のなかで登場人物の一人が「八岐の園」という小説の話をしていて、ひどく興味をそそられたのだけど、作中の架空の物語かと思って、そういう話を考える山口雅也凄ぇと思っていたら本当にあった、というかボルヘスって本当にいたんだということにもの凄く驚いた自分がいたということ自体に驚く。『予告された殺人の記憶』はもしかすると小説の作り方、小説には語り方があるという(自明の)ことをはじめて強く意識させてくれた小説かもしれない。
 しかしなんというか、ベストをだしてみて思ったことには、例外もあるけど、総じて、外にむかって拡散していく話よりも内へ内へと閉じてゆくような小品が好きなのかもしれないということ。なんかこう、ぎゅーっと窄まってゆく感じというか。で、限界を超えて激しく自壊するというか。本当か?

 本それ自体の記憶もそうだけど、それを読んでいた時の記憶、その面白さを人に話したときの記憶なんかが渾然となっていて、どこまでがその本の面白さの記憶なのかがわからない。その本を読んだという記憶を核にしてそこにまといつく色々なものの感覚を基準に考えるとこういうベストになる。それにしたところで、自分でもどうかと思うほど教条主義的なベスト10。なんというか、こう、「自分だけの!」というものが無い……。でも実際面白かったしなぁ、というのは読みがすでに犯されている証拠なのだろうか。いや、でも面白いんだよ!

 そういえば吉田健一が対談で、日本でノーベル賞が騒がれるということに続けてこんなことをいっていたのを思いだした。

ところが文学というものは、どうせ世界的なものでしょう。日本だけの文学なんてあり得ませんよ。あったらそれは文学じゃないんだもの。もうすでに明治以後において、だれかちゃんとしたものを書けば、それは世界的さ。二葉亭四迷だって、鴎外だって。だけれどもいまだにそれはありませんね。その証拠に全集というのが二つあるじゃないの。日本文学全集と世界文学全集と。世界文学全集の解説を書かされちゃってね、盛んに日本の例をあげたんですよ。そうしたらだめだと言うの。日本は世界じゃないんだってさ。全部日本の例を削られた。(笑)

吉田健一対談集成』p147(講談社文芸文庫