いまだにウッカリして甘いお茶なんて飲んだりしたり 

 筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)を購入。筒井の「小説作法」とあってはこりゃ読まな、と近くの居酒屋で読み始める。仮フランス装の瀟洒な装丁。柔らかな手触り。飲みながら片手で読むのに軽くてとても良い。目次を見ると「凄味」「色気」「迫力」「幸福」……などなど面白そうな項目が並んでいる。ぱらぱらと索引を見てみると、なかなか丁寧につくってある。作品名と作家名がわかれているのも良いですね。探しやすくて。索引を見ているだけで楽しくなってくる。そういえばなぜか、江戸川乱歩(だけ?)が旧字になっていたのだけど何故だろか。
諧謔」という項目にこんなくだりを見つける。

 実は「猫」〔「我輩は猫である」〕に夢中になる以前、小学校に入る前からもう一冊、夢中になっていた本がある。弓館芳夫という人の「西遊記」だ、これはギャグや言葉遊びの洪水だった。弓館芳夫という人は東京日日新聞の記者をしていた随筆家で弓館小鰐というペンネームだったが、この本は軽装の戦時体制版だったためか本名で書いている。

筒井康隆『創作の極意と掟』p259-260

 本筋とはまったく関係ないのだけど、「弓館小鰐」というこの名前、はて最近もどこかで目にしたなと帰宅して本を漁るに、先週読んだ野村胡堂『随筆銭形平次』(旺文社文庫)にあった。野村胡堂の中学校時代の同級生だった。

 弓館小鰐があんなに巨大な豪傑になろうとは、誰が一体思い設けよう。かつての弓館小鰐は、筆名を小学生と名乗ったほどの小柄な美少年であったが、身体が大きくなると共に、それを小鰐と変え、万朝から毎日新聞に移り運動記者としての大元老になった、同時に「西遊記」の現代語版の作者でもある。

野村胡堂『随筆銭形平次』(旺文社文庫)p27

 大きな人だったらしい。考えもしないところで私の中で筒井康隆野村胡堂が結びつきなんだか面白い。そういえば、と思いだし書棚をさぐり筒井康隆筒井康隆の文藝時評』(河出書房新社)を見つける。考えもしないといえば、この本は「文藝」に1993年の春季号から冬季号まで全四回連載されていた「時評」で、奥付をみると、ちょうど二十年前のいまごろに刊行されていることに驚く(1994年2月25日初版発行)、主に時間の経過に、早いなぁ、94年ってもう二十年前かよ!ということはどうでもよく、何故にこの本を思いだしたかというにここにも考えもしない結びつきがあり、五年ほど前に古本屋で買って読んでから、それが頭のどこかにずっと引っかかりつづけていたからだった(ということとは別に、この本でやっていることと『創作の極意と掟』のなかでやっていることが同じ―つまり小説に対する「批評」―で、やっぱり筒井は凄いなぁ、などと思ってしまう)。この本は、「時評」ということもあってか多くの作家や評論家の名前がでてきて、その人について後注形式で説明しているのだけど、そこに取り上げられている名前を見て、さてこの中の何人が現役の作家としていま書いているのか、と思うとなかなかに恐ろしいものがある、というのとは別に、考えもしない結びつきというのが、この本のなかに名前がでてくるけれど後注にでてこない人、つまりこの時点では作家でも評論家でもない人が、おそらくいま作家として活躍している、ということだったりする。「文藝時評◇第2回」に書かれたこんなくだり。

「聖者たちの街」は大阪を舞台にしていて、主人公は私立探偵である。私立探偵とくればすぐ、ハメット、チャンドラーといったハードボイルドの作家に連想が働くのは、いかに短絡であるとはいえ、やはりしかたのないことだ。(中略)一方やはり大阪を舞台にして、こちらははっきりハードボイルドを謳った黒川博行の「封印」(文藝春秋)が出ていてやけに評判がいい。何通信社系なのか知らないが「神戸新聞」の書評欄には「エンターテインメント」なるコラムがあり、荒山徹という人が「ハードボイルド・シティとしての大阪の魅力」とか「浪速ハードボイルド」なんて言葉まで創造して賛辞を呈している。

筒井康隆筒井康隆の文藝時評』(河出書房新社)p90

 明敏な方はもうお気づきだと思うけど、もう一度繰り返そう。

何通信社系なのか知らないが「神戸新聞」の書評欄には「エンターテインメント」なるコラムがあり、荒山徹という人が「ハードボイルド・シティとしての大阪の魅力」とか「浪速ハードボイルド」なんて言葉まで創造して賛辞を呈している。

同上(太字は引用者による強調)

 というわけで、荒山徹には是非、大阪を舞台にした現代モノの「浪速ハードボイルド」を書いて欲しいと思ったことであるよ*1
 そしてここまで書いてきて、これはもしかしたら『創作の極意と掟』の項目にあるところの「妄想」というやつなのではないかとも思ってしまう。脳のクセか。困ったものだ。

*1:ちなみにまったくウラはとっていないので、ただの同姓同名の可能性は否定できない。それはそれでも面白い。

花は自分が美しいことを知らない


 さて、山本夏彦によると明治の昔、「岩野泡鳴は桃中軒雲右衛門の浪花節をきいて、しきりに落涙して、拳固〔げんこ〕で涙をぬぐいながら、この涙はウソだウソだと、言いはってきかなかったという」*1が、本日、私はでたばかりの成田美名子の『花よりも花の如く』の12巻を、モツ焼き屋で飲みつつ読みながら、溢れでてくる涙を抑えきれず同じことをつぶやいていた。この涙はウソだウソだ。いや、思いきり泣いているのだけど。でもウソ。

 一日千秋の思いで新刊がでるのを待ちようやく今日という日をむかえ、近所の本屋さんで購入し、さてどこで読もうかと思案、お腹もへっていたので近場のモツ焼き屋に入り瓶ビールと枝豆に、串をお任せで頼み準備万端。馬手にビール、弓手に『花よりも花の如く』を構え、読み始める。コマの運びと物語に加速され、ぐいぐいと読み進めているうちに、ある場面で、ん、と一瞬なにか込みあげてくるものがあり、気づくと温かいものが頬をつたっていた。あれ、私、いま泣いているよ。モツ焼き屋のカウンターで。マンガを読みながら。と現状を冷静に認識する私がいながら、一方で、物語世界に深く入り込んでいる私がおり、どうしようもなく涙が溢れてくる。驚いた。久しぶりに物語に振り回された気がする。ああ、それにしてもこの巻の終わり方は凄い。物語を自在に操作するその技巧、成田美名子、いま円熟期なのではないだろうか。ああ、それにしてもお店の方に、カウンターで隣に座っていた人、ごめんなさい。周りから見たら、串とマンガを片手にぽろぽろ泣いているって、けっこう怖かったかも。私なら話しかけるかもしれないけど。

 そういえば、物語中、青森の神社で矢を放つ神事があり、これは以前同じ作者が描いていた『NATURAL』の中でも扱われていたので、そのことを思いながら読んでいたら、一コマだけ、その『NATURAL』のメインキャラクターである山王丸がでてきて、しかも大学四年生になっていてびっくりする。理子さんはどうなったのだろう。時は流れる。年々歳々花相似、歳々年々人不同。

 最近、前田英樹と安田登の対話集、『身体で作る〈芸〉の思想―武術と能の対話』(大修館書店)を読んだせいもあるのかもしれないけれど、成田美奈子とこの二人の、あるいは内田樹との、能に関する対談読んでみたいなと思ったことであるよ。仄聞するところでは内田樹、マンガ結構読んでいるみたいなので、ちょうどよいのではと妄想之云爾。

*1:山本夏彦『茶の間の正義』p15(中公文庫)

猛暑に夏風邪

 バカなため夏風邪をひき一週間近く寝込む。体温なのか気温なのかわからない暑さのなか仰臥。とめどもなく汗がでてくる。お盆ということも相俟ってか、死んだ祖父が夢にでてくる。勘弁してください。動くこともままならず、熱で頭のゆるむままに布団の中で『文豪ストレイドックス』(原作=朝霧カフカ、漫画=春河35角川書店)にもし海外からの来襲者がでてきたら、ということを考える。
 『文豪ストレイドックス』とは、「現代横浜を舞台に繰り広げられる異能力バトルアクション!」(公式サイトより)ということで、この説明でわかる方もいればわからない方もいるかと思うのだけど、なんというか、山田風太郎の鬼子というか、清涼院流水の直系というか、「戦国無双」(コーエーコーエーテクモゲームス)、「戦国BASARA」(カプコン)の想像力の質というか、「剣豪」(元気)の「文豪」版というか、つまりは歴史という文脈から浮遊する「文豪」という記号と「バトルアクション」という物語でなりたっているマンガ。歴史という文脈をあっけらかんと無視した設定で(絶対に出会うことの無い人物が作中で共存している)、作中の「武装探偵社」の成立の話を描かないかぎり、いくらでも(史実的な)前の時代にさかのぼれるわけで、これ、すごいな。江戸(を舞台にした)時代にしてもいいわけだし。それこそ初代は稗田阿礼とか…。異能力「古事記〔ルビ:フルコトフミ〕」とか…角川だし…、という妄想をする。
 それはさておき、80年代〜90年代のジャンプに汚染された頭としては、いずれ、外部(海外)から新たな敵が襲来し、いま敵対している二つのグループが共闘するのではと思ってしまう。
 ところで、二巻までの登場人物を史実に沿って生年順・没年順に並べてみる。

生年順
福沢諭吉(1835-1901)
国木田独歩(1871-1908)
樋口一葉(1872-1896)
泉鏡花(1873-1939)
与謝野晶子(1878-1942)
谷崎潤一郎(1886-1965)
芥川龍之介(1892-1927)
江戸川乱歩(1894-1965)
宮沢賢治(1896-1933)
梶井基次郎(1901-1932)
中島敦(1909-1942)
太宰治(1909-1948)
立原道造(1914-1939)


没年順
樋口一葉(1872-1896)
福沢諭吉(1835-1901)
国木田独歩(1871-1908)
芥川龍之介(1892-1927)
梶井基次郎(1901-1932)
宮沢賢治(1896-1933)
泉鏡花(1873-1939)
立原道造(1914-1939)
与謝野晶子(1878-1942)
中島敦(1909-1942)
太宰治(1909-1948)
谷崎潤一郎(1886-1965)
江戸川乱歩(1894-1965)
(以上、生没年のデータはwikipediaより)


 これを元にして、「私が選ぶ最強の外文作家」を考えてみる。縛りがないと面白くないので、恣意的ではあるものの、一応最大範囲で史実的に1835年(福沢諭吉の生年)から1965年(江戸川乱歩の没年)の間に死亡していて*1、なんとなく強そうな「異能力」を持っていそうな外文作家。とりあえず、こんな感じで思いつく。左からキャラクター名、歴史上の生没年、異能力名。さっそく友人に送ってみる。


メアリ・シェリー(1797-1851)「フランケンシュタイン
エドガー・アラン・ポー(1809-1849)「赤死病の仮面」
エミリー・ブロンテ(1818-1848)「嵐が岡」
イワン・ツルゲーネフ(1818-1883)「猟人日記
ドストエフスキー(1821-1881)「罪と罰
ラフカディオ・ハーン小泉八雲、1850-1904)「影」
マルセル・シュオッブ(1867-1905)「黄金仮面の王」
マルセル・プルースト(1871-1922)「失われた時を求めて
ポール・ヴァレリー(1871-1945)「海辺の墓地」
レオポルド・ルゴーネス(1874-1938)「塩の像」
トーマス・マン(1875-1955)「魔の山
魯迅(1881-1936)「吶喊」
ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)「フィネガンズ・ウェイク
ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)「波」
フランツ・カフカ(1883-1924)「審判」
フェルディナン・セリーヌ(1894-1961)「夜の果ての旅」
フィッツジェラルド(1896-1940)「華麗なるギャツビー
アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)「キリマンジャロの雪」
(生年順。データはwikipediaより)


 これだけでもかなり強そうだけど、原作が朝霧カフカということで、このキャラもぜひ入れて欲しい。


 ラヴクラフト(1890-1937)「狂気山脈」
(あるいは、異能力は、次のものをカナで言ってルビをふって欲しい)
 「ザ・コール・オブ・クトゥルフ」〔ルビ:クトゥルフの呼び声
 「ザ・ネームレス・シティー」〔ルビ:無名都市〕


 絶対、ラフカディオ・ハーンは裏切り者だよね。国木田独歩ツルゲーネフ江戸川乱歩とポー、立原道造ヴァレリーのバトルとかわくわくするよね、やっぱりプルーストはマドレーヌをもぎゅもぎゅしていて欲しいよね、と友人にメールしたところ、「まず熱下げろ。というか寝ろ」との返信が来る。友人はいつも正しい。SFバージョンを考えたとか、ミステリバージョンを考えたとか、哲学者バージョンを考えたなどとはとてもいえない。でも、とりあえず、「異能力名で格好良さそうなのは『虚無への供物』だよね」という言葉には同意をもらえたのでよしとする。あと思ったことには、このマンガを教材にして「私の考える最強の文豪」とかやってくれぬものか。中学校とかで。

*1:できればボルヘス(1899-1986)も入れたかった…。芥川ばりのボスキャラで。異能力名「伝奇集」で、その下位能力に「バベルの図書館」「八岐の園」とか。あとサミュエル・ベケット(1906-1989)で、「名付けえぬもの」とか考えたのだけど。残念。

こんなグルグルまわる家いりませんよ

 森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』読了。およそ二年ぶりの新作。堪能する。オビを見ると「森見登美彦作家生活10周年」とあり、一驚。10年!
 はじめて『太陽の塔』で森見作品に触れ、一読後、当時一緒に暮らしていた人に「とうとうわれわれの時代の作家が生まれた!」と叫び、冷たい眼で見られてからもう10年!

 森見登美彦というと、どこで眼にしたのか忘れたものの影響をうけた作家として内田百輭をあげており、さもありなんと思ったけれど、今回の作品を読んでいる最中、この感じはなにかに似ているな何だったっけ、うーん、この茫洋とした感じというかお酒に酔ってふわふわしているような感じ、ってそれはそのままか、うーん、でもこの酔いはじめのような柔らかな酩酊感が物語にえがかれている以上に、文章と不可分な感じがして、この読書体験て、と思っていたら、途中にでてくる秘密団体の名前を見た瞬間に「木曜の男」という単語が頭に浮かび、そこからチェスタトンにいき、一気に氷解する。あ、吉田健一に似ているんだ。

 テングブランとは不思議な酒だった。いや、これは本当に酒なのだろうか。割った葡萄酒の味をくるみこんでいるものは、何か透明な、良い香りのする、曖昧なものだった。口の中をチクリとも刺さない。酒精分が入っているのかどうかも曖昧なまま、胃の腑へ落ちていく。
森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』(朝日新聞出版 p204)

 そうして宵山の喧騒に耳を澄ましていると、自分の立つ位置が曖昧になってくる。どうやら少し浮かんでいるらしい。目を開ければ元に戻ってしまう。もう一度目を閉じると、また身体は浮かんでいく。そんなことを繰り返して遊んでいるうちに、自分の位置を少しずつ引き上げていけるような気がした。眼を閉じたままでいれば、まるで自分が空にいるように感じられた。頰に当たる風はたしかに空を渡る風である。
同上(p205)

 このあたりとか、吉田健一のこんな文章を思いだす。

 大体、どこの酒でも、いい酒であればある程がぶ飲みするやうに出来てゐない。飲み難いといふのではなくて、酒は上等になるのに従つて味その他が真水に近くなり、(…)水に近いだけでなくて更にその他に何かがあり、分析すればこくだとか、匂い[ママ]だとかになるその何かががむしやらに飲まうと逸る気を引き留める。本当に美しいものを前にした時、我々は先づ眼を伏せるものである。酒にもそれと似た所があつて、水に近いまでに冴え返つたその正体がやがて味や匂ひなどに分れて行き、それをゆつくり楽まうと思へば、ゆつくりする他ない。そしてその間にも、余計な苦労をしない程度に酔ひが少しづつ廻つて来るのが、酒といふものの有難い所なのである。酔ふのが目的なのではなくて、酔ふことも酒を楽むのに必要な一つの順序に過ぎない。
吉田健一「酒と人生」(『旨いものはうまい』グルメ文庫 p74)

(…)酒が旨いといふのはその味がいいといふことであるとともに、飲んでゐるうちに体がどことなくふはふはして来ることでもあり、羽化登仙した積りで立ち上がると、別によろめきもしないのは、これも不思議である。必要とあれば、又、踊りを知つてゐさへすれば、踊ることも出来る筈であつて、それであの「勧進帳」の弁慶は一升酒だか何だかを飲んだ後で富樫の前で舞ふ。
同上(p107)

 一度連想が動きだしてしまうと、内省や韜晦や諧謔の混ざり具合が嫌らしくならず、絶妙なバランスで成立する森見の文章がえがくところの、主に京都を舞台にした作品世界と、吉田健一の、たとえば『東京の昔』や『旅の時間』や「金沢」などの物語性のつよいというか、彼の文章の中で一番「小説らしい」作品がえがく土地の感じが、とても近しいもののように思えてくる。二人の作品を読んでいてつい笑ってしまうその笑いをおこす文章のメカニズムが、割合に近しいところにあるのではないかとも思う。作中人物の会話の妙とか。

こんな夢を見た。

 なだらかな坂道を下っていると、向こうから若い女がやってくる。
 だいぶ近くに来たので見てみると、真っ白いスカートに薄い青色の半袖をあわせている女は、薄紅色の傘をさしている。
 はて、この晴れの日に傘とはと思っていると、ぽつりと、何かが顔にあたり、つづいて、ぽつりぽつりと、勢いを増した雨粒が体を叩き始めた。
 なるほどあれは雨傘だったのかとみていると、女は、傘を頭の上で逆さにし、先端の尖った所を片手に持つと、水影に煙り様子は良く分からないが、何やら楽しそうに傘を上下に動かし始めた。
 ぱつりぱつりと、雨が落ちる場所によって少しずつ音が変わる。
 どうやら彼女はそれが楽しいようで、笑いながら、片足でバランスを取るような奇妙な動きをする。雨が溜まり段々に重さを増してゆく傘を空に向けるようにして、ゆらゆらと揺らしている。
 器用なものだと思い、その様子を腕組しながら見ていると、
「あら、不躾な。見るなら、ちゃんと舞台で見なさいな」という。
 さかさまになった傘の下から、瓜実顔の整った顔立ちが覗いた。青白い肌の中に凛々と光る眼がこちらを値踏みするように見ている。傘に溜まった水ごしに、女の顔がゆらゆらと揺れる。
 傘に溜まった水が跳ね、私の顔にかかる。かすかに潮の味がするような気がした。
「なにをいっているんだい。舞台なんてものがどこにある。ここは往来ではないか」というと、彼女は七分目程に水の溜まった傘を重そうに片手で支えながら、呆れたように目を細めた。
「ほらそこにあるではないか、なんだい、お前はあきめくらかね」という。
 女が指差した方を見ると、確かに舞台があった。檜皮葺きの立派な舞台の上には、目の前の女と同じような格好で傘を揺らす女たちが沢山いる。
「舞台で見るのなら麻の葉の一枚でも持ってくるというのだが礼儀だろうに、その様子じゃ用意なんてしてやしないんだろう」
 困惑した私は、持っていた鞄をかき回し、中からどうにか、孔雀の羽を一枚引っ張り出してきた。
 そろそろ水が八分目にもなろうという傘を、片手から両手にかえて重そうに持ち上げている女は、それを見ると重さも忘れたように、
「なんだいそんな良い物があるのなら早くいうもんだよう」という。
 そこで私は、この女が北国の出身であることがわかった。

立ち読みではあるものの。

 今週のモーニングの、よしながふみきのう何食べた?」を読んでいると、どこかで見たようなカフェが。矢吹が行きたがり、わざわざ電車で移動してゆくカフェ。ん?としばし黙考。内装と店の雰囲気から見るに、もしかしてA-NE CAFE(をモデルにした店)ではなかろうか? 仄聞するところでは『愛がなくても喰ってゆけます。』にでてきたbagelというお店の後身とのことで、いわれてみれば登場する店員さんの雰囲気も似ているような気がする。よしながふみ、本当にこのお店好きなんだなぁと、以前一緒にA-NE CAFEにいった人にメールする。
 「今週の『きのう何食べた?』にでてくるカフェが、前にいったお店のような気がするのですがどう思います?」
 三時間後返信。
 「私も思った! んー。たぶん間違いないですね。あそこは美味しかった。またいきましょう。ところでマンガでは史朗が奢るといってましたね。よろしく!」
 ……やぶへびだったか。

昔書いた文書が大量に見つかりびっくりする。やはり整理は必要か。しかしもう他人が書いた文書みたいだ。

 J=F・リオタールはその著書の中でモダンとポストモダンの文化を特徴づけるために、大きな物語/小さな物語という用語を提出している。
 大きな物語とは、歴史主義の議論ではマスター・ナラティブとも呼ばれるが、その典型的な例はキリスト教の終末論や、生産様式の変遷によって社会主義革命に至ると考えるマルクス主義唯物史観に見る事ができる。

 リオタールは、啓蒙時代以降のモダンと呼ばれる時代に創造された、理性、自由、進歩などの価値観を、普遍的な価値を有する物語として正当化する言説を「大きな物語」と名付けたが、このような、歴史全体を統括するような理念に先導された思考はいまや完全に破綻しているといえるだろう。

 人間の生の差異を同一性へと還元する力を持つ大きな物語に対して、「小さな物語」はポストモダンの文化において多様に拡散し、分裂した局所的な物語として個々人の生を支えている。いわばそれは寄せ集めのテクストとして、個々人の中で「生の意味」というものを作り出している。精神史的な意味での20世紀はここから始まっているといえる。

 芸術におけるモダニズム運動はキュビズム以降の絵画や、プルーストジョイスなどの20世紀文学がそうであるように、様式についての強い自意識を持ち、芸術の固有性・自律性を強調する。また、この運動はリアリズムに代表される19世紀の伝統的な価値体系を廃し、小説の分野では意識的に作者と読者との間に共有される暗黙の了解を無視するという手法を取るようになった。
 他方でポストモダニズムの文学の代表者であるJ・バースは、次のような指摘をしている。

「文学の可能性は既に使い尽くされており、今やそれらを接木したり補完したりする事こそが重要である」(金曜日の本)

 つまり、ポストモダニズム的な技術形式の主要な特徴は、引用・反復・パロディ・雑種性・などのメタ意識的な「ひねり」のうちに見て取る事ができる。「語り」の構造、いわば「語り」のコードを自覚的に反転・逸脱させたメタフィクションは、物語の自己完結性に対するアイロニーとなり、さらには偶発的な出来事を組み込む事により、自覚的な創作主体による作品の統一という神話に疑問を投げかける。このような考えはモダニズム運動に連動する芸術の形式化運動に対するアンチといえるだろう。また、ポストモダニズム的な小説とはモダニズムによって獲得された形式を自己言及的に語るものだといえる。

 メタフィクションの典型的な例は、物語を停滞させる語り手(=作者)が物語進行について弁明するスターンの『トリストラム・シャンディ』や、「贋金使い」という小説を書いている小説家を登場させる事で、作中小説家の語る小説論を物語の中心になるよう構成されているジッドの『贋金使い』などが上げられるであろうし、現代小説ではたとえば「ニューヨーク三部作」(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)や『リヴァイアサン』などで知られるポール・オースターが上げられるだろう。
 『リヴァイアサン』は次のような物語である。

 主人公であるベンジャミン・サックスは「自由の女神」建造100年祭の日にパーティーで花火を見物しようとして4階から墜落し、危うく一命をとりとめる。 その日から彼の失墜が始まる。バーモントで森に散歩に出たとき、道に迷い、親切な若者のトラックで家まで送ってもらう途中、車の故障で困っている男に声をかけたところ、男は銃で若者を撃ち殺し、サックスがバットで男を殴り殺すという惨劇が起こる。 サックスが殺した男は、自分の思想を実行に移すアナーキストだった。サックスはその遺志を継ごうと「自由の怪人」を名乗り、アメリカ各地の「自由の女神」像に爆弾を仕掛けてまわるうちに、爆死を遂げる。 この新聞記事を読んだ「私」は、サックスに聞いた話を元に友の死の真実を明らかにする小説を書き始め、「自由の女神」が象徴する国家がつくった“偽りの自由”を暴き出す。

 この小説には中心がない。複数の物語が別々に、等しい重要性をもって進行していく。それゆえに筋は複雑だし、だから読者のほうにも、物語を読み解くうえで相応の努力が要求される。オースターの「虚構」へのこだわりは極めて強く、初期のニューヨーク三部作(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは実験色も濃い。だが、『ムーン・パレス』やこの『リヴァイアサン』などに至ると、そうした実験色は陰を潜める。けれどもそれは虚構へのこだわりをオースターが放棄したということではなく、小説の底部に深く沈潜させているといったほうが正確だろう。この作品においては、それ以前のモダニズム的なコードによる規定を受けず、どこまでも拡散していく様子が見られる。

 さて、西欧でおこったポストモダニズム現象は1980年頃日本にも輸入され、(いわゆる)純文学の世界ではその影響下に様々な実験的な作品が生み出されてきた。

 しかし、視点を少しだけずらしてみると、西欧と日本の文学現象を繋ぐ形で、日本にはすでに探偵小説という形式があったのである。
 笠井潔は探偵小説(ミステリ)論の中で次のような事を述べている。

「ミステリ(探偵小説)はコードの小説である。そこには確固たる形式がある。犯人と被害者と探偵がいて、最後には探偵が犯人を指摘して終わる。探偵小説においては、人間の個性は、その反復強迫のように繰り返される同じ構造のなかで、副次的で装飾的な役割を果たすにすぎない。この点で探偵小説は、人間の個性を前提とする19世紀的な近代小説から離れ、「大量死」と「大量生」で特徴づけられる20世紀の精神世界を反映した固有のジャンルを形成している。」(『探偵小説論I・II』、東京創元社

 笠井によれば、黄金期の英米探偵小説は第一次世界大戦の、日本の戦後本格は第二次世界対戦の破壊的な時代体験を背景として生じたものだという。その意味で大戦後西欧で起こったモダニズム芸術運動は、英米における探偵小説運動の時代的根拠ということができる。今ではあまり聞かれないが、かつて探偵小説を語る時のクリシェとして「人間が書けていない」という言い方があった。第一次世界大戦という、人類史の中でも未曾有の大量死の体験が古典的な人間像に死を宣言した。世界大戦を通過した時代が、登場人物をパズルのピースのように扱う奇妙な小説形式に20世紀的なリアリティをもたらしたのである。

 メタフィクションはある時期から物語の写実的な語り形式や描写方を疑問視し、それらを徹底して脱構築するような小説形式を意味するようになってきている。

 黄金期の探偵小説の中で、メタフィクションの典型的な例としてはクリスティの『アクロイド殺人事件』が上げられる。この作品は「私」が遭遇した殺人事件を描いた手記として読者の前に提示されるが、実はその「私」が犯人であるという結末が用意されている。このような、作中の作者(小文字の作者)が読者を騙す手法は探偵小説では叙述トリックと呼ばれ、今では当たり前の手法になっている。しかし、この作品が発表された当時はまだ、「私は…」という文章で始まる時、それは物語に内在した透明な人物による作品であるという、作者と読者の間に存在する不可視の近代小説のルールが存在していた。この近代小説の制度性を裏返した点で『アクロイド殺人事件』優れてメタフィクション性を備えているといえる。

 メタフィクション的な探偵小説は、『虚無への供物』の作者として知られる中井英夫によって「アンチ・ミステリー(反探偵小説)」と命名された。探偵小説では、どのように異様な謎も最後には、現実性の論理において解明される事が宿命づけられている。つまり、謎を現実の論理に沿って解体するところに探偵小説のルールがあるといえる。だから、このルールを自覚的に逸脱する作品の系列はアンチミステリと定義される事になるだろう。
 さて、日本におけるアンチミステリの一つの到達点として、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』をあげたい。
 この作品は箱根山中の巨刹で起きる連続僧侶殺人事件が事件の中心となっている。

 本作品の中では幾度も禅の公案について語られているが、それは禅の公案もまた形式体系を追求する事により、内部からその形式性を破壊するという意味で、作中においてミステリ(アンチミステリ=メタフィクション)と類比的に語られている。

「だから了念さんも一休も盤珪公案を嫌ったのだなあ。坊主どもも皆、大概今のあんたのようなことを考えおる。長い間公案はな、言葉遊びみたいになっておったのよ。その、最近ではなんと云いますかのう、そのゲ」
「ゲーム?」
「そうそう。頭を使うゲエムみたいに、如何に洒落た着語や下語―回答するか、そこに工夫を凝らすようになった。如何にも奥の深そうな回答を如何に綺麗に作るか、そればっかりに腐心する。良い答えの書いてある行券という虎の巻まで横行した時期があったそうでな。こりゃ求道じゃない。言葉の遊びだ。禅の堕落だ―」
「言葉の、小手先の技術に過ぎない訳―ですね」

 作者は言葉の遊びと化した公案を「ゲエム」という言葉で表現している。
 古典的な本格形式はしばしば小説の形で出されるパズル、あるいはゲームであると言われてきた。

 現在最もラディカルに探偵小説を書いている作家達は、自己のジャンルの形式性に際だって自覚的である。探偵小説の形式性とは、そのコードに集約される。先に引用した笠井の言葉をもう一度繰り返すならば、探偵小説とは『犯人と被害者と探偵がいて、最後には探偵が犯人を指摘して終わる』ものなのである。しかし、探偵小説というジャンルは、その形式性故に、自己の形式の無根拠さに直面せざるを得ない。それは英米探偵小説の黄金期に発表されたE・クイーンの『十日間の不思議』によくあらわされている。

 この作品は、ライツヴィルという架空の町を舞台にしたシリーズ中の一つであるが、登場人物が少なく、犯人の意外性など初めから捨てている話といえる。『十日間の不思議』は二部構成になっている。探偵エラリイが友人の不倫事件に頭を突っ込み、謎の脅迫者と暗闘を演じたりしたあげく、殺人事件が起きる。エラリイはバラバラに配置された様々な「一見なんでもないこと」の裏に、モーゼの十戒という秩序を見い出し、精神分析という知を活用して犯人を指摘する。ここまでが前半である。さらに、後半(解決篇)は、恋愛サスペンスが一転して宗教心理犯罪小説の相貌を帯びる。そして最後にはそれをもひっくり返してしまう。解決されて謎など消滅した場面から、「謎/解明」図式が相対化されるのだ。第一の解決で活用された精神分析という知(そのフロイト的な家族図式)は、それを現実の犯人狩りへ適用させる場面において自爆する。最終的な真相は、超人的な犯人が担う神のイメージを経由して、形而上学批判にまで達している。

 この作品のはらんでいる問題は『後期クイーン問題』などと呼ばれ、自覚的にその問題と格闘している作家として、日本では法月綸太郎などを上げる事ができる。この問題とは、要するに、完璧な形式体系であるパズル的=ゲーム的な探偵小説空間が、その根拠の致命的な不在を自己露呈するという事である。

 海外に見られるメタフィクション的な作品は、モダニズム様式を備えた小説がこの「根拠の致命的な不在を自己露呈」してしまったあと成立したものだが、日本の探偵小説はこの点に関して二重の拘束性を帯びている。
 つまり、探偵小説はその形式性故に探偵小説であるのだが、その無根拠さに直面してしまった今、その形式性を保つ事が出来ない、しかし、その形式性を無視してしまった途端それは探偵小説ではなくなるというジレンマである。英米本格の時代はまだ、壊すべきコードがあったのだが、今や、壊すべきコードすら見つからないという状況になっている。それゆえこの状況下において探偵小説作家は、空無と化した形式体系を自前で構築し、維持し、最後には自己破壊するという作業が課せられている。

「束縛無くして自由は無い。つまり檻が無くては檻から出ることはできない。檻から出たがっているものはまず檻を造らなければならないんだ。(略)見立てだよ、見立て。明慧寺は宇宙の見立て。脳髄の見立てだ。彼は出たいから造ったのだ」

 先に挙げた京極夏彦の『鉄鼠の檻』からであるが、この言葉に探偵小説のジレンマは集約される。モダニズムの失墜が生み出した形式体系の無底性によって生じた小説形式のアポリアはここにあるのではないだろうか。