何者か我に命じぬ割り切れぬ数を無限に割りつゞけよと(中島敦)

 青山ブックセンター川上未映子市川真人前田塁)のトークショーをみにいく。生で川上未映子の話しを聞くのは初めてなんだけど、なんだろう、凄い、この人本物だ。なんの本物だろう。呪われている。コトバに強く呪われている。なにか、ふっ、とでてきたものがぐるぐるとまわりだし、なにかを思うにしても、考えるにしても、それが、その尾を喰らう蛇のように結局コトバについての思考に回帰してしまうような呪われかた。といってもそれは勿論、ロマン主義的な「天才故に呪われた」あるいは「呪われているが故の天才」のような意味合いではなしに、コトバについて、本当にちゃんと考えているのだなぁ、という(作家というか、モノを書く人間としてあるべきだと思われる)まともさというか誠実さに、そういう人が、そうやってモノを書いているということに強い感動を覚える。

『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ社)に、「私はゴッホにゆうたりたい」という文章があって*1、文字通りにゴッホに向けて語りかけている文章なのだけど、はじめて読んだ瞬間、こんな詩を思いだした。

   三八四   告別
                         一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
秦西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった菅とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかった、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐ仕事ができて
そいつに腰かけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ


春と修羅第二集『宮沢賢治全集1』(p539〜542)

「おまへ」に向けて語りかける中にはさみこまれる「よくきいてくれ」「いゝか」というその言葉が、それまでひどく性急に語りかけているような、自分の思いを「おまへ」にぶつけているような調子に、いちど我にかえるような、自分の思いをゆっくりと、正確に目の前の「おまへ」に語りかけようとして一息いれているように感じ、それを読んでいる私の姿勢を正せるような、強い、なにかひどく切迫した思いというものを感じてしまう私。そして『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』にはその名も「宮沢賢治、まるい喪失」という文章もあって、「永訣の朝」にでてくる、いもうとのためにあめゆきをいれようとする茶碗の記憶と夕暮れをつなぐ、とても美しい文章で、これを読んでいると、私はやはり賢治のいうところの「mental sketch modified」という言葉を思いだしてしまい、なんとも悲しい気持ちになるのです。ただの「mental sketch」(=心象スケツチ)なのではなく「modified」とあることに。なんだろう、賢治にとっては、書かれたものとしての詩にあるようなことが、実際にそのようなものとしてあって、それを「ありのままに」描きたかったのだろうけど、それが一度、紙の上に文字として固着されると、その瞬間、まったくの違った(あるいはねじまがった)ものとしてあらわれてしまうということに対する、苦さと痛みと諦念があって(まことのことばはうしなはれ)(まことのことばはここになく 修羅のなみだは土にふる)、そういう思いがこの「modified」という言葉に集約されているように感じてしまい。コトバのあちら側とこちら側で引き裂かれる痛み。そして私は思うわけですよ。願わくば彼によって書かれた文字の連なりが、彼がみていたものの近似値であってくれればいいなぁ、と。そして、私が読んでいるその言葉の連なりからうける感触が、その近似値の近似値になっていたらどんなにか楽しいことでしょう、と。

 って、いま川上未映子のブログ「純粋悲性批判」を見にいったら、2008.04.28のところに、7月3日に京都精華大学で対談すると書いてあって、相手は誰ぞなと思ったら千野帽子! マジで!! うあー、超見にいきたい! 行きたいけど京都はさすがに遠い。でも見に行きたい。あああ、みーにーいーきーたーいー。

*1:川上未映子のブログ「純粋悲性批判」のこの日の文章でも読める