時折自分の記憶力が悪かったということを忘れてしまうくらいに記憶力が悪い。

 朝起きると妙に気だるく寒気がし、風呂からあがる頃には節々が痛み鼻水がでるわ咳が止まらぬわ眩暈がするわでまるで風邪のようだと思ったら本当に風邪だった。久しぶりに病院にいったら安静をもうしわたされる。一人暮らしの悲しさで上げ膳据え膳なんてのは夢のまた夢、なんかもう呼吸するのもきつくなりながらスーパーに買いだしにゆき、食料品と水を買い込む。咳き込みながらもここまで来たついでと本屋によると、よしながふみきのう何食べた?日本橋ヨヲコ少女ファイト田丸浩史ラブやん中村光聖おにいさん』の最新刊がでていたので長の闘病に備え買い込む。荷物が重くなる。ようやく家に帰りつき、もらった薬を飲んだら眠くなり、食料品もそのままに布団にもぐりこみ、気づいたら三時間たっていた。普段、薬を飲まないと効きが強いと聞いたことがあったけど本当のようだ。恐いくらいに効く。

 なにか温かいものでも食べようと、酸辣湯をつくる。鳥肉の胸肉を細切りにし塩、酒、醤油であえ、片栗粉をまぶしておく。中華鍋を熱し胡麻油で豆板醤と粒胡椒を軽く炒める。適当に水をそそぎ沸騰したら鶏がらスープの基を加え、そこに下ごしらえした鳥肉を入れる。鳥肉の色が変わったら水洗いしたもやしを加え、適当に切った豆腐を加えくつくつ煮る。火が通ったら水溶き片栗粉をくわえとろみをつけ、沸騰したら溶き卵を回し入れる。卵に火が通ったら、最後にお酢胡麻油を回し入れてできあがり。買ってきたマンガを読みながら食べようと、『きのう何食べた?』を読み始めたら、一話目に、まさに今食べている酸辣湯がでてきてびっくりする。シンクロニシティや。『ラブやん』を読んでいたら「ロッロリキャラの股間に邪悪なのが生えてて それがロリキャラの俺の中へ入ってしまう可能性があるとゆうのか…ッ!?」というセリフがあって笑い死にしそうになる。それはもう喘息の発作がでたかと思う勢いで咳き込む。田丸浩史は本当に凄いと思った。

 マンガといえば勝田文が『ちくたくぼんぼん1』と『ウランバナ』の二冊同時刊行で嬉しいことこの上なく。『ウランバナ』は読み終わると『ローマの休日』の逆バージョンだと気づくのだけど、9ページの段階でそれをさりげない短いセリフで表しているところが上手いなぁ。作者のあとがきに岩本ナオの名前がでていてちょっと驚く。知り合いなのか? 『ちくたくぼんぼん1』は都一と三五の絵の感じと関係が小林秀雄中原中也みたいだなと思ったり。
 白泉社から新創刊されたコミック雑誌「楽園」を読む。つくり方がエンターブレインの「Fellows!」に似ている様な気がする。新人の起用の仕方とか。描いている人の中ではやはり中村明日美子が図抜けて上手かった。二人の出会いの場面の地面に対する視線の垂直な移動と、最後の場面の地面に対する視線の平行移動。つまりところは視線の誘導が上手いなぁ。「海に出ますよ」というセリフとそこまでのコマの運び方がそれだけで心地良い。この人は本当にマンガ力が高いなぁ。「立体交差の駅」という題名も、それぞれの交差する人間関係にかけてあるし(でてくる女性が大きいのと小さいので分けられているのもそうなのかな。立体交差していたらそれぞれの線は決して平面上では交わらないというところがまた切ない)上手いなぁ。あとは売野機子という人が良かった。この人の作品、はじめて読むのだけど、大島弓子の匂いを感じる。二作品載っていたのだけど最初の「薔薇だって書けるよ」は、「ちょっと変わった」女の子と、その娘に惚れた男の話で、その「ちょっと変わった」部分に惚れた筈が、生活をともにするうちに重荷になってきて一度は別れを考えるも、でもやっぱり自分にとって大切な人だったと気づくというような話なのだけど(って要約すると身も蓋もないな)、その世界との関係のバランスを崩しているような、女の子の「変わり方」が、大島弓子の作品に散見される、なんというのだろう、世界に対して赤剥けの肌を晒しているような感じというかひどい危うさというか恐ろしさというか、境界上にいるような人物を描いているような気がする。二作目の方は自殺した売れないバンドのボーカルが、「あちら側」に行く前に、自分のファンだった女の子に彼女の夢の中で会うという話で、短いけど綺麗にまとめているなぁとか、女の子のアップの絵が高橋葉介っぽいなぁとか思ったり。今後も期待。

君には最大限の自由がある。ただし我々が認める範囲で。

 本屋の中をふらふら歩いていると面陳された本の表紙にふっとすいよせられる。はじめ思ったのはあの有名なパレンケの翡翠の仮面? いや違う、巨大な……これはなんだろう……赤ん坊の顔? と、妙に気になり鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』(羽鳥書房)を手にとる。
 ぱらぱらめくっていると、「シラ―谷の者 野の者(狼)」というタイトルと絵が目にとまる。見た瞬間、頭の芯がじんと痺れるような感覚。「シラ」ということばから自動的に浮かんでくるのは「白」の色彩。生と死の両義的な色。死と生が混交したゆたう場所。白山。花祭り。生まれ清まりの儀式。白比丘尼。白山比竎神。オシラ神。オシラサマ……といったことばと映像が一瞬のうちに到来し、興奮状態になる。絵を見ると、そこには群れ遠吠えをする狼の姿が力動的に描かれてある。しかしよく見るとそれはただの狼ではない。後ろ足から逞しい人間の足が這えている。人と動物が(想像の中で)未分化であり、連続していた時代。自由に変身することができた時代。そういった「神話的」な思考を感じてしまい見ているうちにまた強い興奮状態になる。静謐な月夜に群れつどう狼が人の姿に変わりまた狼の姿になり森の中を遊びまわる姿を観てしまい、陶然となる。

 こんな文章を見つける。全身の毛穴がひらくような感覚。強靭なことばにであったときに感じるあの身体が痺れるような感覚。

死者と遊ぶ人


ご飯を食べないで 生きてゆけるとは それは人ではない

見えないものを捕まえる あの瞬間 あの感触
あれを 捕まえたら 体が活力で満ち満ちてくる
己を超えた世界の扉を開くようで 他になにもいらなくなる
だからご飯も食べずに夢中になる


ご飯を食べないで 遊んでいられるのは それは人ではない
それは 死者のことだ


死者は 心臓の片隅にある 薄暗い小さな部屋で眠っていて
時々目覚めては 私と会話する


絵を描くとは 何だろうかと思う
思い そして
描く  ということは


鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』(羽鳥書房)

 目にした瞬間に尾崎翠の図書館の地下食堂で「ねぢパン」を食べる「こほろぎ嬢」のことを思ってしまう。なんの役に立たない考えをするにもやはりパンはいるのだとなげく「こほろぎ嬢」は逆説的に死者と触れ遊ぶものだったのではないかと思ったのだろうか私。
 いったいこの人はなにものなのだろうか、とページを繰るとどこかで目にした記憶のある絵があった。少年(少女?)だろうか、両性的な美しさを持った(どことなく獣の匂いのする)その顔のまわりを多くの短剣が舞っている。「己の前に立ちあらわれるすべての純潔、すべての無垢、すべての清楚を手あたり次第に踏みにじること」と題されたこの絵。どこで見たのかと思えば、川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』の装画だった!
 そして、また見ているといくつかの短い散文の中に「遊びとは魂を呼び還す技なり」という文章が目に入る。そこに「遊部」の字を目にした瞬間、もう、なんというか、もしかしてというか、もちいられていることばの感覚というか、描かれている絵の感覚から薄々感じてはいたのだけど、この人のつくるものがあまりにも私の好きなものすぎて驚愕する。まさかこんなところで「遊部」ということばに触れるとは!
 この「遊部」とは、詳しいことは不明ながら「幽顕の境を隔てて凶癘の魂を鎮むるの氏なり」(『令集解』釈記)」として、鎮魂、葬送儀礼にかかわった部民といわれる(生と死の間にかかわる一族!)。この一族については折口信夫中山太郎五来重谷川健一などが考察しており、小説では梓澤要『遊部』、マンガでは植芝理一ディスコミュニケーション 精霊編』『夢使い』などで扱われているが、管見の限りでは前田速夫『異界歴程』(晶文社)の中の「影の一族」が一番まとまっており、またその考察も非常にスリリングで読みごたえがある。そういえば柳田國男の「山宮考」に、直接はまったく関係ないのだけどどうにもこの一族を想起させる地名があり、ずっと気になっているのだけどいま確認しようとしたら、本がみつからない。どこにいったのだろう……。掃除せな……。

 それにしても、こういった一連の連想の中で見ると、「水を泳るために現れ何言かをいう」と題された絵。これはぶよぶよと不定形な、しかし人間の姿(女性)を思わせる塊が翁の面をかぶっているものなのだけど、その翁の面から自然と金春禅竹明宿集』の「翁」に連想が飛んでしまい、すると、ここに描かれた塊は母の胎内にいるこれから人になるもの(=胎児)なのかもしれないと思え、そこから、この鴻池朋子という人がやっているのは、「われわれがここにいる不思議」というか、植芝理一が『ディスコミュニケーション』の初期で描いていたことというか、つまりはおそらく世界中の宗教というか神秘主義が内包している、存在(ある)の根幹の存在(あるものをあらしめているある)にまつわる思考を形にすることなのではないかと思い、なんというか、ぼーっとたたずんでしまう。本屋の通路で。邪魔なことこの上ない。

 衝撃覚めやらぬままに本を繰ると展覧会記録がある。どんな展覧会やっていたんだろうと見ると、え、今やっている? しかもすぐそこ? というか明日まで?! と、その足で東京オペラシティアートギャラリー鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」を観にいく。すごかった。あと蜂飼耳と似た匂いを感じた。対談とかして欲しいなと思ったことであるよ。

最近読んで面白かった文章。

一般にすぐれた年長者との出会いは、自分のモデルとの出会いという意味で自己確立の契機であると同時に、相手の圧倒的な影響力によってそのモデルの中に自己を見失う自己喪失の危機をも意味する。とくに分裂病質者が相手から適当な心理的距離をとることによってみずからを守ろうとするのは、彼らの本性が“自閉的”だからではなく、逆に、彼らは相手に対して敏感にすぎ、自分が相手から全く見透かされているように感じるからである。彼らはたやすく自分と他人との境界線を見失ってしまう。とくに、強い自我との出会いはしばしば相手の自我が文字通り自分の中に侵入するように感じられるものである。分裂病者は相手との過度の接近によってかえって人と“出会いそこなう”のだといわれる。彼らはこの危険を敏感に察知し、みずからを自己喪失から守るのである。

飯田真・中井久夫『天才の精神病理』(中央公論社)p25-26

タイトルがあれなので、中井久夫が書いていなければおそらく手に取らなかった本ではあるのだけど、とても面白い。科学者の病積学的研究ということで、取り上げられているのはアイザック・ニュートンチャールズ・ダーウィン、ジグムント・フロイトルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインニールス・ボーア、ノーバート・ウィーナーの六人。この手の本にありがちな煽情的なわかりやすさというか単純化が無くてよかった。そして上記の文章に目がいったのは、たまたま「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を観た帰りに読んでいたことには何の関係も無い。「ヱヴァ:破」は梶さんが英語喋っていてびっくりした。

私とかかわる人達の中にその数だけ「私」が存在するという恐怖

 後出しじゃんけんのような話でまことに恐縮ではあるのだが、中村明日美子ダブルミンツ』(茜新社)を読んでいて、これは名前をめぐる物語ではないのかと思っていたら、あとがきでそのようなことが書かれていて、普段は「いやいや物語と作者は別物ですよ。作者の言葉が物語の解釈に影響を及ぼすことはあってもそれが全てだなんて考えるなんて、いや、そんな」などと嘯いているくせに、いざこういうことがあると、「ひゃっほー当たり当たり」とか思うのはあれだな、何だか卑しいなと思って微妙に凹む。
 同じく買ったヤマシタトモコ『ジュテーム、カフェ・ノワール』(フロンティアワークス)は表題作の「ジュテーム、カフェ・ノワール」が特に良かった。2人の従業員と3組の客がいるカフェを舞台にしたショートストーリ。一組は男女の友人同士、一組はゲイとノンケの男、一組は待ち合わせの相手が来ず携帯で話している女。たまたま同じ場所に居合わせたこの3組の客と2人の従業員の物語に、私は青年団の舞台を連想してしまった。というかこれ青年団の方法で舞台でやって欲しいな。
 マンガはどうしてもコマとして焦点化されることによって中心ができてしまい(「現実」であればその焦点化された場所以外でもなにかが起こっている)、そこを見ることを(あるいは世界をそのように見ることを)「強制」されるわけで、当然それはこの「ジュテーム、カフェ・ノワール」でもそうではあるのだけど、微かに空間の膨らみを感じる(つまり、コマの外でも、同じ時空間の中でなにかが起こっているような気配がある)。もちろんそれは事後的に私の脳内で変換された錯覚でしかなく、紙面にはコマとしての絵しか存在しないわけだけど、それが読まれることによって、読んだ私の中で時間と空間の膨らみを持って物語が立ちあらわれてくるというこの不思議な快楽。読んでいてぞくぞくしてくる。
 私が青年団の舞台に奇妙に惹かれるのは、小説やマンガのような線状化された時間ではなく、広がりを持つ空間内での同時多発的な出来事、複数の旋律を(直接的に)感じることが出来るからなのではないかと思っているのだけど、それは日常でも別に良いわけで。というか日常を模倣したものが青年団の舞台だとしたら別に日常があれば青年団を見る必要はないのではないかと思うものの別にそういうものでもないようなのは、恐らく作為無くあるものをいかに作為によってつくるか、という緊張感というか美しさに惹かれているからなのではないか。あるいは私が決して存在しない世界に安らぎを覚えるからなのかもしれないと思うものの、仮にそうだとして、何故そのような世界に安らぎを覚えなければならないのだろうか、ねえ、どう思う、と友人にメールしたところ「早く寝ろ」との返事が来る。友人の答えはいつも正しい。

 複数の旋律といえば岡井隆『注解する者』(思潮社)を読んでいたら頭がクラクラしてくる。紙面から水に波紋が生じる音と色が浮きでてくるような、寝入りばなに見る夢のように耳に入る音と湧きでるイメージの奇妙なアマルガムが30字×15行の紙面に納まらぬ言葉として飛び跳ねている蠢いている。言葉が言葉を呼ぶ。呼ばれた言葉がまた違う言葉を呼び連れてくる。運動に巻き込まれ私は言葉を仲介する者となる。

 植芝理一謎の彼女X』(講談社)の5巻がでていたので小躍りして購入。喫茶店で読んでいたら途中何度も動悸と息切れが激しくなり、適宜休憩をはさみつつどうにか読み終える。とりあえず我々は『謎の彼女X』という作品がある今の世に生まれたことに感謝すべきだと思った。
 この作者にはちょっとした思いでがある。大学に入りたての頃、同じサークルに植芝理一の作品をとても好んでいる女の子がいた。後に友人になるその娘に植芝理一という名前を教えてもらい、勧められるままに『ディスコミュニケーション』という奇妙なタイトルの本を手に取り、そしてその日のうちに全巻買いに走っていた。物語前半のまだ流れが定まりきらない様子と、にもかかわらず(それだからこそ?)描かれる濃密な世界にどうしようもなく惹かれた事を昨日のように思いだせる。その後しばらくしてだったか、あるいはそれより前だったか、私に植芝理一の事を教えてくれたその娘が興奮した様子で言った。「植芝理一って今でもサークルの部室に普通に来るらしいよ!私会いにいってくる!」そういえば結局彼女は植芝理一に会えたのだろうか。そんな友人が今では漫画家(のタマゴ?)として頑張っている事を思うと過ぎた月日にくらくらと眩暈を覚えてしまう。思えば遠くに来たもんだ。

白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間(葛原妙子) 

 アスファルトが溶けだしそうな暑さの中、街をあるいていたらふとこの歌を思いだす。別に夏の歌だというわけではないと思うのだけど、夏のあの大気がゆらめく中でもの皆白く輝いているような眩暈のするようなそんな一瞬に、すっと地上から伸びた階段。時間の流れを止めるような、あるいは時間を結晶化させるような不思議な力を持つ歌。

 偶然にすぎないのだけれどここ数ヶ月で『福家堂本舗』→『からん』→『宵山万華鏡』というように京都を舞台にした物語に連続的に触れている。

 森見の描く京都は本当に日常と異界がゆるやかにつながっているようで、夕暮れの路地裏からふっと世界の外側に連れだされるようなある種の恐さと喜びに満ちている。『宵山万華鏡』は題名どおり宵山の一日をめぐるお話しで、お祭りの前の日のあのどきどきするような非日常感を過不足無く描いた秀作であるのだけど、それ以上に、語り手が物語の外にいるようでそれは例えばバレエ教室にかよう姉妹をはじめから終わりまで淡々とその行動を見ているようなある視線が感じられ、その視線が時には本を読む私の視線と一体化しある時は自在に姉妹の中に入りこんだかと思うと次の瞬間にはカメラがすっと引かれるように大きく視点を移動させるその動きにどきどきする感じが読んでいてたまらない。二乗化される視線の運動の喜び。作中の人物の「これは世界の外側にある玉だそうです。今夜の我々はね、この玉で覗かれた世界の中にいるんです」という言葉を思い起こすと、万華鏡の中のきらきらと輝く硝子片や色紙の欠片がくるくるとまわり次々に世界を変えてゆくその動きがすでに物語のメタファーになっていて、こちらは万華鏡を覗きこむように物語の世界をのぞきこみ「同じ」登場人物たちが織り成す世界を陶然と見ていればよい。
 それにしても本当に名詞を使った仕掛けが上手くて、例えば大坊主と舞妓、といった固有性をほどかれた名前を梃子に物語を日常から異界へとシフトさせるその技量に感服。あとは地名(というか正確には通り名というのだろうか)。三条室町、衣棚町、三条高倉、室町通六角……といった地名によって、現実の「京都」という街を強く感じさせその「現実性」に保証されながら、物語空間を描く「宵山万華鏡」が軽々と日常を飛び越えてゆく。そういえば塚本邦雄も確かその文章の中で京都の地名(通り名だったかも)を列挙して、その物語性について語っていたように記憶しているのだけど、その中に確か「天使突抜町」という地名も入っていたように覚えている。天使突抜町。なんと素敵な地名だろう。そして天使突抜町といえば私は『天使突抜町一丁目』というすてきなエッセイ集を思いだす。著者の方は通崎睦美という京都出身、京都在住のマリンバ奏者で着物の収集家としても有名な方。この方の書かれた文章を読んでいるとなんだか体がじんわりと温かくなる。知るかぎりでこの方は二冊きりしかエッセイ集をだされていないのだけど、もっとこの方のことばに触れてみたい、と思わせられる書き手。ちなみにこの地名(というか土地というか)については鷲田清一『京都の平熱』でも言及されていた。

 『からん』は、あの木村紺がこんなにも重層的な物語をつくるとは想像だにしていなかったのでとても驚く。比嘉という少女が『神戸在住』での辰的なポジションにいるように見える。『神戸在住』でのやり方を思うと、学校と家庭以外に場所を持たない「普通」の少女である比嘉を視点にして、自分とは違う「特別」な人達について語り、そこに自ずと様々な物語が生み出てくる、というようなスタイルになるかと思っていたりした。
 高瀬という少女。学校、部活、京都、祇園とそれぞれにゆるやかな関係を持ちながら閉鎖している空間。その中で、高瀬の行動を保証する人々。部活空間を保障するものとしての大石。学校空間を保障するものとしてのおばちゃん。京都空間を保障するものとしての高瀬一族と、吉見という存在。祇園空間を保障するものとしての渡部という存在。そしてこの四つの空間をつなげる存在としての高瀬という少女。高瀬という少女が主人公であるが故にこのような物語が生まれたというより、それぞれの空間を物語性を持って結節させるために要請された存在が高瀬という少女であるように思える。物語の構造的にも、また物語内においても(それはなにかまだ明確にはわからないが)ある役割を押し付けられた高瀬と、祇園という街で(おそらくは)ある役割を押し付けられた九条が、あのように互いに強く結びついてゆくのは当然に思える。

「もう安心して 私がいる 誰一人理不尽な目には遭わせん この腕の中では」(p184)
15、6歳の少女がこのような言葉を発する異様さを思うと、木村紺がこの物語でなにをしようとしているのか、ということに思いが飛んでしまいぞくぞくしてくる。守られるものから守るものへとなること。成長と責任を引き受けること。
「わし 関係あれへん」(p179) という言葉に対する高瀬の過剰とも見える反応。この反応に私は二通りの意味を感じた。一つはその前に置かれた「しゃーけど チビの連れとった あの男 アレ カタギ ちゃうぞ」(p179)という、左近をカタギではないと見る大石の言葉に対して、文字通り「どうして そう思うん ですか?」(p179)(=どのような根拠で、左近をカタギではないと判じたのか)という純粋な疑問。 二つ目は何故「関係あれへん」と思うのか、という反問。柔道部の主将であり、先輩として、「守るべきもの」であるはずの後輩に対して、何故「関係あれへん」という言葉を吐けるのか、という怒りのまじった反応。この間のコマでの高瀬の表情を見ていると、おそらく、この二つの、つまり、何故左近をカタギでないと思うのか、という疑問と、大石の「無責任」とも取れる反応に対する困惑と僅かな怒りの入り混じったものとしての「どうして そう思うん ですか?」という言葉だとは思うのだけど、ここでp17での「出場登録だけ確保できたら用済みの部活動やけど ま ヒマつぶしにはなんな」と大石が独白する場面を思い出すと、大石のこの「身勝手さ」に対して、「守るもの」を志向する高瀬がいずれぶつかるのではないかと思い、そうすると、そのぶつかりを予期させるようなこの場面で、おそらく偶然にとはいえ「あっ」という台詞でこの二人のぶつかりあいを解消してしまった、比嘉という少女。ここに、対立に対する怯えというか、人と人がぶつかり合うことに対する過敏ともいえる感受性を見るのは、さすがに深読みだろうとは思うものの、病気を持ったもの(この場合は喘息。p131の強調の仕方もなんだか気になる)が、周りの人間の感情の流れに敏感になる、という物語上の定型を思い、さらには、小学校の頃、九条を「見ている」だけの存在だったことに対する悔恨を表す場面を見ると、この比嘉という少女が実は、非常に「見る」立場にいる人物なのではないか、とも思ってしまい、それが今後、どのように描かれるのか興味津々。


 最近読んだ中で思わず唸ってしまった「小説」論というか「小説」をめぐる言葉。

 そして、それは小説の概念にも再考を促すはずだ。作者は、当たり前のように、虚構の人物を仮構し、虚構の物語を仮構する。さらには虚構の告白が仮構される。それが「私」であるのか、そうでないのかは大きな問題ではない。しかし、そうした行為は、自らが無意識に生きている歴史を縮小再生産するものでしかないだろう。このような文学の型(タイプ)、近代という時代そのものを体現した文学の型はもはや有効ではない。
 事実を解釈し、その解釈から再構築された歴史。繊細で重層的な解釈の網の目から立ち上がってくる物語。それこそがフィクションの名にふさわしい。そこではもはや現実と想像、さらには批評と小説の間に区別をつけることなどできはしないであろう。書くという行為の根源にあるのは、そのようなフィクションへの意思、歴史への意思に他ならない。折口信夫が、釈迢空という名で、短歌、小説、詩というジャンルを横断しながら、実践してきたことである。

安藤礼二『霊獣「死者の書」完結篇』p166

 

もう一生分のくるりは聴いた、と友人は言った。

 目的に優先順位をつけるとしたら、
1、京都で友人に会い、一緒に大覚寺五大明王展を見にいく
2、みやこめっせで春の古書市を見る
3、大阪で友人に会う
の順だった関西旅行。その全てを叶えられたので良い旅行だった。

 出発は4月30日の夜行バス。いつも夜行バスでは眠れないため、身体を疲れさせておけば少しは違うかと早起きし街を歩き回る。途中メールをチェックすると、京都の友人からメールが来ていた。なんでも誕生日を迎えたとのこと。ならばなにか土産でもと、ちょうど中野を歩いていたのでタコシェに寄る。詳しくは知らないが京都で友人になった人はサブカル寄りの人らしいので喜んでくれそうなものを選ぶ。ついでにまんだらけを見ていたら「ぱふ」の森脇真末味特集号があったので自分用に購入。
 新宿からバスに乗り京都に着いたのが翌日の6時30分。とりあえず7時まで時間を潰し京都タワーの下の銭湯にゆく。そういえばかなりの疲労具合で夜行バスにのったので、これは眠れるかもと期待したのだが結局眠れなかった。疲れ損。湯船の中でうたた寝し溺れそうになる。

 古書市まで時間があったので、街をぶらつく。路地を渡り歩きひたすら北上し、そういえば京都国際マンガミュージアムってこのへんじゃなかったっけと辺りを探すとやがて烏丸通沿いに見つける。場所を覚え、そろそろちょうどよいかと、東に向きを変え平安神宮を目指して進む。開場は10時。早く着きすぎてもあれなので意識的にゆっくり歩くも9時半くらいについてしまう。並んでいる人などおるまいとたかをくくっていたら、やたらに人が並んでいる。なんだこの熱気は。開場と同時に人が雪崩れ込む。
 広い会場には40店以上の古本屋が出店しているらしい。とりあえず端から見てまわる。棚に沿って歩いていると、横で本を見ている人と私の間にちょっとした隙間ができた。あいだを詰めようとすると、横合いから爺さんがその隙間に足先を入れるようにし、膝裏で私の膝を軽く押した。なんだこの爺さん横入りか、と押し返そうとした瞬間、肩口からすっと入りこんできたその動きに重心を崩される。たたらを踏む私に爺さんが、ぶるり、と身体を震わせた。爺さんの背中が胸に当たる。一瞬、息が詰まり弾き飛ばされそうになる。慌ててふんばると、その隙に爺さんはぬるりと入り込むようにして自分の場所を確保していた。悠然と本を探し始める爺さん。唖然とする私。なんだこの爺さん。その後も、少しでも隙間ができると爺さん達が強烈なプレスをかけてきて、何度か列から弾き飛ばされる。その入りこみの強さに、この人たちはなにか特殊な身体技法でも修めているのではないかといぶかしむ。最初の爺さん、あれ絶対崩しにきてたぞ。あとで京都の友人にその話をしたところ、あー、京都のお年寄りはんつよい人多いし遠慮とかせんでええですよ、といわれた。いや、遠慮とかそういう問題ではないような気がするのだが。京都の爺さんは凄いと思った。
 結局、全て見てまわるのに4時間強を要した。購入したのは以下のもの。

 朝来た道を西にひき返し京都国際マンガミュージアムに。小学校を改築したという建物は広い中庭に芝生がしかれ、日光を浴びながら思い思いのすがたでマンガを読む人たちがいる。とても気持ちよさそうだ。ここで念願の内田善美を四冊(『星くず色の船』『かすみ草にゆれる汽車』『空の色ににている』『ひぐらしの森』)見つけ読みふける。『空の色ににている』が一番完成度が高い気がした。館内の掲示を見ると、メビウスが来るらしい。大友克洋村田蓮爾との対談も予定されているらしい。なんと豪華な。それにしても良い場所。年間パスポートもあるみたいだけど、近くにあったら絶対に買っているなと思った。

 二日目。昼に大阪で友人と待ち合わせ。時間があったので出町ふたばにゆき、豆餅を購う。かなり並んでいたが、客捌きが良いのかすぐに私の番になる。以前食べたスタンダードなものを二個と、黒豆入りのものを一個。下鴨神社まで歩き、途中のベンチで食べる。ふくふくとした手触り。手に持ってしばし感触を楽しむ。口に含むとにちっとした歯ごたえのお餅に、鼻から豆の香りがふわっとぬける上品な甘さの餡。そこにちょっと塩味のきいた豆がアクセントになって、非常に美味しい。昨日からなにも食べていなかったのであっというまに喰らいつくす。食べ終わってから友人の分を買い忘れたことに気づく。酷い話だ。

 電車を乗りつぎ梅田へ。友人と合流し、昼を食べながら互いの近況報告。昼食後どちらからともなく書店に寄ろうということになる。文庫のコーナーに木地雅映子『マイナークラブハウスへようこそ!―minor club house(1)』が一段の四分の三くらいを使い面陳されていたので、おお!棚担当の人、力入れているな!と嬉しくなる。そういえばもうそろそろ二巻がでるな、と、さっき新宿のジュンク堂に行ったらもう発売していた!11日発売だと思っていた。解説は千野帽子! 次の解説、穂村弘書かないかな。物凄いぴったりだと思うのだけど。「存在自体が悪である」と呟く少女を穂村弘はどう読むのか、とか読みたい。自傷行為をする少女に向ける、登場人物の視線に「幼さ」からくる残酷さと「強さ」からくる傲慢さを感じるとともに、その潔癖さが恐くてぷるぷる震える。「女の子」は恐いよね、という相も変らぬ話をしながら、そのまま夜までふらふら歩き、友人の家の近くで美味しいモツ鍋を奢ってもらう。終電で京都にもどり二日目終了。

 三日目。10時に京都の友人と合流し、バスで大覚寺へ。嵐山を通過していると、京都在住の友人はものめずらしげに辺りをきょろきょろと見回している。聞くとこの辺りは殆ど来た事がないらしい。連休のはじまりとあって、人ごみが凄い。眼を丸くして、
「はー、すごい人。この人達なにしに来てはるんやろ」
とかいっている。いや、我々もその一部なのだが。

 寺内を見学し宝物殿に入る。ふと左側を見た瞬間、五大明王の姿が眼に入る。まさかあんなに大きいとは思わなかったのでとても驚く。大きいね。大きいですねと言いながら側に寄る。金剛夜叉明王の裾なびきすぎ!とか、小声できゃっきゃきゃっきゃ姦しく見てまわる。ついでだからと広隆寺も見にいく。初めてだという友人は弥勒菩薩半跏思惟像に「おお!教科書がおる!」と呟いていた。他に十二神将に見入ったり、正面の三体の仏像の巨大さ、とりわけ不空羂索観音像の姿に感じ入っていたようだった。

 街中に戻り、夕飯どうしましょうねと歩いていたら、昨日はなにを食べたのかと聞かれ、友人に美味しいモツ鍋を奢ってもらったと答えると、ちょうど目の前にモツ鍋屋があらわれた。そうそうあんな感じの店で、と言った瞬間、それが昨日大阪でいった店と同じ店だという事に気づく(と思ったら、後で調べたら別の店だった。似すぎ)。支店らしい。この偶然に驚く。面白かったので、モツ鍋食べます? と聞いたら、二日連続ですけどええんですか?と言われる。別にかまわないので夕飯決定。食べながら色々と話を聞く。友人はいま卒論の準備をしているらしく、中々に大変だとのこと。それは大変だ、と何の益も無いコメントをしながらがんがん飲む。聞いていると京都の学生生活は本当に楽しそうだ。色々なものの距離が近いような気がする。夜にきらきらした明かりのなか鴨川の川原で遊んでいる人達を見ると何がしかのファンタジーのように思えてくる。青春の密度が濃すぎるような気がする。あちらこちらに青春が充満しすぎていて息苦しくなりませんか?と聞くと、はあ、そういうものですか、と不思議そうに小首を傾げられた。


 夕飯後、近くの駅まで送って行き、さてとりあえずとコンビニでお金を降ろそうとしたら、祝日のせいなのか降ろせない。朝の6時半までお待ちくださいとの無情な表示。さて困った。手持ちは夏目さん二枚。とりあえず宿泊機関に泊まれない事は決定。始発で帰るつもりだったので、マックにでも入って時間を潰すかと考えるも、どうせ飽きるのは眼に見えているのでとりあえず歩く。歩いてばっかり。京都駅を振りだしに南下し東寺を一周。塀の外から見る真夜中の五重塔は恐かった。次いで北上しながら路地から路地にうろうろする。京都の夜は闇が深いような気がして首筋のあたりがぴりぴりする。三条まで行きそこから東進。木屋町にたどりつき今度はがんがん南下する。途中、夜が明けてきた。夜明け間際の木屋町はなんだか変な緊張感があって一人で歩いているのがちょっと恐かった。五条大橋で写真をとる。早朝の五条大橋から見る京都は静かでとても綺麗だった。

真っ直ぐな道すぎて寂しい午前11時。


 目覚めてしばしぼうっとする。窓の外の陽気に誘われ外出し、あまりにも暇なのでそのまま歩きだす。黙々と歩き続けること6時間。一応の目的地を定め歩いていたのだけど、小休止ついでに何気なく路面の市街図を見ると思っていた方向と90°ずれて歩いていた事に気がつく。東に向かって歩いていたつもりが、何時の間にか北に向かって歩いていたようだ。どこで道を間違えたのだろう。「なんだか道を間違えたようだ」と友人にメールしたところ「人生の話ですか?」との返信がくる。違うよ。

 いい加減疲れたので、どこかで電車に乗ろうと駅を探して歩いていると、道路をはさんだ向こう側に「古本」という字が見えた。おや、こんなところに古本屋が、とよくよく見ると「閉店」「全品半額」という文字がガラス窓に貼られている。なにかへんなものがざわざわと頭の中を流れるのを感じながら、ダッシュで道路を渡り、店に入る。横長の店。ところどころ棚がかたむき、床には整理されていない本が乱雑に置かれており、いかにも閉店直前という感じだけど、それでもまだまだ棚によってはぎっしりと詰っている。もう一度、「全品半額」という文字を確認し、隅から隅まで見てまわる。約一時間かけて選んだのがこれ。

 これで夏目さん4枚でお釣りがくる。狂喜したのが『世界幻想作家事典』。棚に見つけ値段を確認した瞬間、鼻血が吹きでそうになる。たぶん変な声でてた。初版からは30年、今回手に入れた改訂版の2刷からも20年近くたつ本だけど、載っている作家の豊富さもさりながら読み物としても抜群に面白い。本当に欲しかったので嬉しい。そういえばでるでるといわれている『増補・日本幻想作家名鑑』はどうなっているのだろうか。とても楽しみにしているのだけど。
 お会計をしているあいだ、ご主人と話す。「この辺にお住まいなんですか?」との問いに「いや、ちょっと離れたところなんですけど、たまたま歩いてまして」と答える。我ながらよくわからない答えだ。「たまたま歩いてまして」ってなんだろう。閉店されるとのことだけど、なんでも近くに場所を移して店を続けるとか。非常に好みの品揃えだったのでぜひまた来たいと思ったことであるよ。ちょっとアクセス面倒くさいけど。

 電車でサリー・シェイウィッツ『読み書き障害(ディスレクシア)のすべて』をぱらぱらと読んでいたらちょっと気になるところがあった。
 この本は「読み書き障害(ディスレクシア)」が何故起こるのか、また「読み書き障害(ディスレクシア)」を持った人間が社会で(ある一定の水準を保って)暮らすためにどのような訓練法があるのか、という事が書かれているのだけど、どうもその中に、たとえ「読み書き障害(ディスレクシア)」を持っていても、社会的に「成功できる」というところが繰り返し繰り返し強調されているようにみえて、なんというか、そんな「成功」という事を強調しなくともよいだろうに、と思ってしまう。読んでいると、「一般的に『読み書き障害(ディスレクシア)』があることで『成功』が妨げられると考えられていますが、そんな事はありませんよ。たとえ『障害』があっても、それは克服できるし、社会的に『成功』する事はできるのです!」という強いというか無邪気なメッセージ性?を感じてしまい。いや、「障害」を「克服」できるならそれにこしたことはないだろうし、別に社会的に「成功」することもそれ自体としては別に良いことでも悪いことでもないと思うのだけど、「障害の克服」と「成功への道」とが並べられ無造作につながれているのを見ると、違和感を禁じ得ない。それはそれぞれ別の問題だと思うのだけど、どうも、「成功」=良いこと、というのが前提になっているような感じをうけてしまい、この本がアメリカの「読み書き障害(ディスレクシア)」に関わる人に向けて書かれている事を思い合わせると、アメリカでの社会的な「成功」に対する信念というか信仰の強さというか、その強調の度合いがややもすると強迫的に感じられ、アメリカという国の何がしかの側面を見た思いがして、なるほどなぁと思ったことであるよ。
 あと副題の「頭はいいのに、本が読めない」というのもどうなんだろう。この場合の「頭がいい」という言葉の意味もよくわからないのだけど(内容を見るからには論理的な思考能力などが優れている、というくらいの意味だとは思うのだけど)、「頭のよさ」と「本が読める」ことを無造作につなぐ手つきがどうにも気になる。原題は『Overcoming Dyslexia』というようなので、直訳すれば『読み書き障害(ディスレクシア)を克服する』くらいの感じかと思うのだけど、別に「頭のよさ」ということばが入る余地はないだろうに(内容では触れているが)。見たところこの副題は元の英語版には無いようなので、そうするとこれを訳した日本の出版社がつけたものかと思われるのだけど、「頭のよさ」ということばをわざわざ副題に持ってくる感覚に、なるほど「頭のよさ」という言葉は訴求力がある(と考えている人たちがいる)のかと思うと同時に、このことばを副題に選んだ人達と、そこで購入層と想定されたであろう人達の事を思うと、日本という国の何がしかの側面を見た思いがして、なるほどなぁと思ったことであるよと思いっぱなし。というかそもそもここでしつこく「頭のよさ」ということばに拘る私が一番「日本人」ぽいな。

 電車に乗り街にでる。探していた本があったのでそのまま書店へ。ふらふらと文庫を見ていたら河出文庫の新刊に杉山二郎『遊民の系譜』を見つけ、驚嘆する。凄い!凄いよ!河出!この名作をよくぞ文庫にしてくれた。これは巫女、遊女、仙人、傀儡子 ジプシー、勧進聖といった「遊行」する人々の足跡をユーラシア大陸から中国、朝鮮、日本にわたって辿るもので、その博覧強記というか博引旁証というか膨大な資料の中に分け入る姿も凄いのだけど(私は南方熊楠とか幸田露伴を連想した)、資料を探し古本屋街を歩き、そこで探していたもの以上の本と出合ってしまうその偶然を描く姿が読んでいてとても楽しい。文章も品があり、晦渋な中にときおり混じるとぼけた味わいのあるユーモアに、にやりとしてしまう。
 宇月原晴明(とりわけ『黎明に叛くもの』)とか隆慶一郎(とりわけ『花と火の帝』)、司馬遼太郎ペルシャの幻術師』『大盗禅師』、南條範夫灯台鬼』とかが好きな人は必読。それ以外でも似た手触りの本として山口博『平安貴族のシルクロード』とか星野紘『芸能の古層ユーラシア』、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』とかとか好きな人はとても楽しく読めると思う。