君には最大限の自由がある。ただし我々が認める範囲で。

 本屋の中をふらふら歩いていると面陳された本の表紙にふっとすいよせられる。はじめ思ったのはあの有名なパレンケの翡翠の仮面? いや違う、巨大な……これはなんだろう……赤ん坊の顔? と、妙に気になり鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』(羽鳥書房)を手にとる。
 ぱらぱらめくっていると、「シラ―谷の者 野の者(狼)」というタイトルと絵が目にとまる。見た瞬間、頭の芯がじんと痺れるような感覚。「シラ」ということばから自動的に浮かんでくるのは「白」の色彩。生と死の両義的な色。死と生が混交したゆたう場所。白山。花祭り。生まれ清まりの儀式。白比丘尼。白山比竎神。オシラ神。オシラサマ……といったことばと映像が一瞬のうちに到来し、興奮状態になる。絵を見ると、そこには群れ遠吠えをする狼の姿が力動的に描かれてある。しかしよく見るとそれはただの狼ではない。後ろ足から逞しい人間の足が這えている。人と動物が(想像の中で)未分化であり、連続していた時代。自由に変身することができた時代。そういった「神話的」な思考を感じてしまい見ているうちにまた強い興奮状態になる。静謐な月夜に群れつどう狼が人の姿に変わりまた狼の姿になり森の中を遊びまわる姿を観てしまい、陶然となる。

 こんな文章を見つける。全身の毛穴がひらくような感覚。強靭なことばにであったときに感じるあの身体が痺れるような感覚。

死者と遊ぶ人


ご飯を食べないで 生きてゆけるとは それは人ではない

見えないものを捕まえる あの瞬間 あの感触
あれを 捕まえたら 体が活力で満ち満ちてくる
己を超えた世界の扉を開くようで 他になにもいらなくなる
だからご飯も食べずに夢中になる


ご飯を食べないで 遊んでいられるのは それは人ではない
それは 死者のことだ


死者は 心臓の片隅にある 薄暗い小さな部屋で眠っていて
時々目覚めては 私と会話する


絵を描くとは 何だろうかと思う
思い そして
描く  ということは


鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』(羽鳥書房)

 目にした瞬間に尾崎翠の図書館の地下食堂で「ねぢパン」を食べる「こほろぎ嬢」のことを思ってしまう。なんの役に立たない考えをするにもやはりパンはいるのだとなげく「こほろぎ嬢」は逆説的に死者と触れ遊ぶものだったのではないかと思ったのだろうか私。
 いったいこの人はなにものなのだろうか、とページを繰るとどこかで目にした記憶のある絵があった。少年(少女?)だろうか、両性的な美しさを持った(どことなく獣の匂いのする)その顔のまわりを多くの短剣が舞っている。「己の前に立ちあらわれるすべての純潔、すべての無垢、すべての清楚を手あたり次第に踏みにじること」と題されたこの絵。どこで見たのかと思えば、川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』の装画だった!
 そして、また見ているといくつかの短い散文の中に「遊びとは魂を呼び還す技なり」という文章が目に入る。そこに「遊部」の字を目にした瞬間、もう、なんというか、もしかしてというか、もちいられていることばの感覚というか、描かれている絵の感覚から薄々感じてはいたのだけど、この人のつくるものがあまりにも私の好きなものすぎて驚愕する。まさかこんなところで「遊部」ということばに触れるとは!
 この「遊部」とは、詳しいことは不明ながら「幽顕の境を隔てて凶癘の魂を鎮むるの氏なり」(『令集解』釈記)」として、鎮魂、葬送儀礼にかかわった部民といわれる(生と死の間にかかわる一族!)。この一族については折口信夫中山太郎五来重谷川健一などが考察しており、小説では梓澤要『遊部』、マンガでは植芝理一ディスコミュニケーション 精霊編』『夢使い』などで扱われているが、管見の限りでは前田速夫『異界歴程』(晶文社)の中の「影の一族」が一番まとまっており、またその考察も非常にスリリングで読みごたえがある。そういえば柳田國男の「山宮考」に、直接はまったく関係ないのだけどどうにもこの一族を想起させる地名があり、ずっと気になっているのだけどいま確認しようとしたら、本がみつからない。どこにいったのだろう……。掃除せな……。

 それにしても、こういった一連の連想の中で見ると、「水を泳るために現れ何言かをいう」と題された絵。これはぶよぶよと不定形な、しかし人間の姿(女性)を思わせる塊が翁の面をかぶっているものなのだけど、その翁の面から自然と金春禅竹明宿集』の「翁」に連想が飛んでしまい、すると、ここに描かれた塊は母の胎内にいるこれから人になるもの(=胎児)なのかもしれないと思え、そこから、この鴻池朋子という人がやっているのは、「われわれがここにいる不思議」というか、植芝理一が『ディスコミュニケーション』の初期で描いていたことというか、つまりはおそらく世界中の宗教というか神秘主義が内包している、存在(ある)の根幹の存在(あるものをあらしめているある)にまつわる思考を形にすることなのではないかと思い、なんというか、ぼーっとたたずんでしまう。本屋の通路で。邪魔なことこの上ない。

 衝撃覚めやらぬままに本を繰ると展覧会記録がある。どんな展覧会やっていたんだろうと見ると、え、今やっている? しかもすぐそこ? というか明日まで?! と、その足で東京オペラシティアートギャラリー鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」を観にいく。すごかった。あと蜂飼耳と似た匂いを感じた。対談とかして欲しいなと思ったことであるよ。