誤植に爆笑。

 スーザン・ブラックモア 山形浩生/守岡桜 訳『「意識」を語る』(NTT出版)を読んでいる。「意識」とはなにか、という問題についてのインタビュー集。でてくる顔ぶれは、哲学者から数学者から精神科医がいるかと思えば生物学者もいるという多彩さ。で、いや、これ内容も無茶苦茶面白いのだけど、それとは別に物凄い誤植があって、電車で笑い死にしそうになる。
 まずはこれ。動物に「意識」はあるのか、という問題についてクリストフ・コッホとの会話。サルを例にとって、サルと人間は永い時間同じような進化過程を経て、似たような脳を持っているからには、サルにも意識はあるだろうというクリストフ・コッホのその発言。

さて、サルはわたしより少しばかり毛深くて外見もちょっと違うし言葉は話さないが、似たような脳を持ち、ここ一三〇〇年を除けば同じ進化過程をたどっている。もしサルに同じ視覚試験をやらせたなら、典型的な大学生被験者とよく似た行動をとる。サルの脳から小さな一ミリ四方の立方体をとったとしても、それをヒトの皮質の小片と区別できる人はこの星にほとんどいない。だから類推するとサルも恐らく意識があるだろう。

スーザン・ブラックモア 山形浩生/守岡桜 訳『「意識」をかたる』(NTT出版)pp183-184)

「一三〇〇年を除けば」!
 サルとヒトは進化の系統的につい1300年前にわかれたばかりなのか! 凄えよ! 大化の改新やったのもサルだよ! うきー!
 あとはこんなところ。巻末の用語集。現象学についての説明。

現象学(phenomenology)12世紀前半にドイツの哲学者フッサールが確立した哲学の一派。ハイデガーに受け継がれ、フランスの哲学者メルロ・ポンティ、サルトルらがこれに続いた」

同上 用語集p鄴

「12世紀前半」!
 現象学の歴史900年! スコラ哲学と同じような時期に現象学が生まれているよ! 凄えよ! というか12世紀ってドイツまだないじゃん!

 いや、笑った笑った。素晴らしい誤植だった。
 それはさておき、内容としては「意識」についての議論がこれほど百家争鳴というか、同じ「意識」という言葉でも使用する人によって意味があまりにも違いすぎて、よくわからないというか、結局「意識」って脳の機能なの? 外界からの情報を処理する過程で生まれるものなの? 「生まれる」って表現はおかしいの? それ以上還元不可能ななにかなの? というかなんで物理的な存在であり、その刺激-反応のプロセスが記述できる脳という物質が、「意識」なんていう主観的な経験を「生みだせる」の? いや、もうここまで「意識」の意味合いが多様にすぎると思わなかった。面白い。

 ところで、スティーブン・ラバージという人へのインタビューを読んでいたら記憶が刺激されて、昔読んだ文章を思いだす。このスティーブン・ラバージという人は明晰夢の研究者らしい。何が驚いたって明晰夢が研究されていること、研究の対象となっていることにまず驚いたのだけど、本人がいっていることは中々に面白く、ただ、やっぱり「意識」の研究の文脈で「ヨガ」とか「東洋の伝統」とか「悟り」とかいう言葉がでてくると、うーん、といきなり胡散臭げな匂いを嗅いでしまうのは如何ともし難く。

アイデンティティというのが、雪の結晶の違いのようなものだということを実感すること。われわれが個々の雪つぶで、個別の結晶形態を持っているとします。もちろん雪つぶごとに違いはあります。構造が違っていますから。そしてここで、その一粒が海に落ちようとしています。雪粒は何を恐れるでしょうか? 「自分は消滅しようとしている、自分は消滅する、消え去って、無になる」と思うかもしれない。でも実際に起きるのはひょっとしたら―そしてこれは、死や悟りのメタファーです―無限の拡張かもしれない。自分がただの凍った水の一粒ではなく、自分が水そのものであるということを思い出すのかもしれない。だからこの本質のメタファーは、別のレベルでは、形態と同時に存在しているんです。区別は消えるわけじゃない。ただそれは単なる形態でしかない。本質は統一性なんです。

同上pp198-199

というこの文章。スティーブン・ラバージは明晰夢が「悟り」の最高のメタファーだといっているのだけど、いや、あんた不立文字というか一回警策で打たれろ、と思うもここを読んでいて、こんな文章を思いだした。

第二の解脱が襲ったのはその瞬間だった。一瞬、存在するものが時間と空間を貫いて轟々と流れ行くその水面から跳ね飛ばされて、宙空に舞う一滴の雫となっていたのは僕自身だった。雪嵐の夜、僕を眺めていたあの存在もまた虚像だった。は、私よりも深い、導師が宇宙そのものである大いなる我(ソワ)と呼ぶところのものを予感したに過ぎなかったのだ。大我(ソワ)は、この谷川のように絶えることのない永遠の流れだった。小我(モワ)である私は、谷川の急流が一瞬宙空に撒き散らした無数の雫だった。私(モワ)は、一瞬の煌きの後、ふたたび果てしない流れのなかへと呑まれて行く。川は、轟々たる原子の流れに変貌していた。始原より終末へと流れ続ける原子の大河が、星々を生み、また滅ぼしていた。戦慄するほどにも壮大なこの光景のなかで、僕は老師の教えを初めて細胞の一粒一粒にまでわたって深々と体験したのだ。永劫回帰の教説の意味を……

笠井潔『サマー・アポカリプス』(創元推理文庫)p389

 この「一瞬、存在するものが時間と空間を貫いて轟々と流れ行くその水面から跳ね飛ばされて、宙空に舞う一滴の雫となっていたのは僕自身だった」という文章の捩れ具合はとても良いなと思う。ぐにゃっと。ぐにゃっと。主語と述語の対応関係の捩れが、極限的な認識状態を無理やりに言葉になおしている感じがしてここの文章にリアリティを与えているというか。良い言葉の壊れ方。

 明晰夢といえばこのあいだ、これは夢だと思い夢ならば自分の思い通りになるのでグレープフルーツが食べたいから出現させようとするのだけど思うだけでどうすればよいのかわからず、出ろー出ろーと、あの黄色い球体が目の前にあらわれるところを、手で形を作ったりもしながら必死でイメージするもいっかなあらわれず、してみるとこれは夢ではないのではないかと疑念がきざす、という夢を見たのだけれど、あれですね、こういう夢をみたあとに目覚めると現実感がぐらぐらしてちょっと恐い目覚め。眠るといえば、このあいだ、さあ寝ようかと眼をつむるも一向に眠気はおとずれず輾転すること小一時間、思えば明日は休みだしこんなに早く寝ることもないかと枕もとのスタンドのスイッチをさぐる。明かりをつけ、枕元に積んである本から手に触れたものを適当にひっぱりだす。中沢新一 夢枕獏 宮崎信也『ブッダの箱舟』(河出文庫)だった。夜具に腹這いになり一時間ほどで読み終わる。仏教を中心に、宗教、存在論、認識論、科学論などなど今は懐かしきニューアカデミズムの匂いをさせながら色々な話題を縦横無尽に話しまくるハイテンション対談(鼎談)集。とても楽しそうだ。すっかりと眼が覚めたので続いて一冊と枕元をまさぐると手に触れたのは中沢新一『リアルであること』(メタローグ)。中沢続きとは奇な事なりとこの偶然に驚くも、そういえばまだこの本、読んでいなかったなと読みだす。「一時間文庫」とあるように、確かに小一時間でさくさく読める、軽い評論っぽいものやエッセイが中心。で、読んでいるとこんな記述があった。

哲学者パスカルは、旅を好まなかった。それどころか、旅を軽蔑していたふしがある。彼は書いている「人間の精神の成熟とは、同じ部屋のなかでじっとしていて、そこで落ちついて、充実していられることをさす」。旅をして、見知らぬ土地に出かけていき、新奇な風景や風俗を見、かわった食べ物を食べ、未知の人々と出会う。それによって、心が元気になり、充実感を得る、という普通の意味での「旅の快楽」にたいして、パスカルはとても批判的だ。同じ場所にじっとしていると、退屈や不安を感じてしまい、心をリフレッシュするために、空間のなかの、別の場所に出かけていかなければ、楽しめない心などは、まだじゅうぶんに成熟してはいない、と彼は断言するのだ。

中沢新一『リアルであること』(メタローグ)pp118-119

 読んだ瞬間、「おや」と首を傾げる。これどこかで読んだ事がある。「パスカル」とあるからには『パンセ』で読んだのだろうか。いや、違う。つい最近、というか今しがた読んだような生々しい記憶がある。はて、と沈思黙考、やがて解悟。どこかで眼にした記憶があるのも道理、ついさっき読んだ『ブッダの箱舟』にあったのだ。

旅をするなんていうのは青年のやることであって、成熟した魂は同じ部屋の中でずうっといてもいい。それが最も充実した時間の中にいるわけで、知るということは青年で、成熟の魂というのは知る必要はない。

中沢新一 夢枕獏 宮崎信也『ブッダの箱舟』(河出文庫)p138

 ちなみにこれは中沢新一の発言。初出を見ると、1987年6月28日、高野山の南院においてだという。方や一方の『リアルであること』の方は1993年の1月から9月まで毎日新聞に寄せていた文章であるよう。6年の歳月を経て書かれた同じ内容の一節を、それを今、このタイミングで立て続けに読んでしまうという偶然に不思議な気持ちになると同時に、パスカル本当にこんなこと書いていたのかと気になる。少なくとも『パンセ』で見たような記憶はないのだが、通して読んだのもはるか昔なうえ、そもそも私の記憶なので全く信が置けないのでざっと読み返してみようにもどこにあるかわからないので、本棚を漁ったら奥からでてくる。愛い奴。で、ざっと読んでみたのだけど、パスカルが上記のようなことを書いている場所を見つけられなかった。その代わり、こんなところを見つける。

人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさえすれば、なにも海や、要塞の補遺線に出かけて行きはしないだろう。軍職をあんなに高い金を払って買うのも、町にじっとしているのがたまらないというだけのことからである。社交や賭事の気ばらしを求めるのも、自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことからである。

パスカル 前田陽一/油木康訳『パンセ』(中公文庫)p92

 ちょっと似ている? でもこの部分は「心の成熟」とは関係ない。単に人間の不幸は部屋の中で休んでいられないことに発する、といっているだけ。この後でパスカルは「人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、不幸なものである」(p97)と書いていて、気ばらしを求めて外へとでてゆくのが不幸の源となってはいるのだけど、そもそも人間は黙っていても倦怠に沈んでしまうような存在それ自体が不幸な存在だし気ばらしするのもしょうがないよねといっているように思えるのだけど、でもまあその後で「人間の心というものは、なんとうつろで、汚物に満ちていることだろう」と嘆き節でもって語っているので、そういう、「旅」もそのなかに含むような、気ばらしを求める人の心の運動を嫌悪していたみたいではある。それはそれとして、ここまでには「魂の成熟」について(私が見落としていないかぎり)書いてあるところは無かったと思う。あるいは『パンセ』以外の著作で書いているのだろうか。ちょっと気になる。それにしても久しぶりに読んでみて思ったことにはなんというかキリスト教が重過ぎる!

森鴎外に説教されるという夢をみる。私はいったいなにをしたのだ?

 恩田陸の作品を読んで、これは予告編ですか、本編はまだですかと思うというのは別に今にはじまった事ではないので別によいし、いま読んでいるものをあとにつづくより大きな物語の予告編として読ませてしまうところはこの作者の持ち味だとも思うのでそれもよいのだけだけれど、なんかこう不完全燃焼というか本を読んだなという感触が得られないというのはなんだかなと思いながら『ブラザー・サン シスター・ムーン』を読み終わる。
 恩田陸といえばホラー、SF、ミステリといった枠組みを上手く使って小説をつくってきた人という印象が強いのだけど、今回は「空から蛇が落ちてきたあの夏の日」をめぐる記憶(あるいは我々が共有している「学校」という場所の記憶)を推進力として物語をすすめる(記憶の技法)のだけど、既存のジャンルの枠組みを使わないぶん、読んでいる最中どうしても私小説の匂いがただようような気がすると同時に、ふと、これまで目にした恩田陸の個人史が頭にうかび、これはまるで恩田陸のまわりに「実際に」あった出来事のようではないか、いやいやあくまでも小説小説物語上の「私」と作者を混同したり、書かれてある事が「実際に」あったこと(あるもの)だなんて思ったりなんかしませんよと嘯きながらも、第一部を読み終えたときには、「大学から駅まで続く古本屋の店頭の百円均一の文庫本の灼けた背表紙」や「がらんとしたラウンジの不思議な静けさ」という風景に見覚えがあったり、「うちのサークルも含め関東の大学は、どちらかといえば評論寄りで、同人誌もほとんどが評論かエッセイ」という言葉を耳にした覚えがあったり、あまつさえ「ミステリやSF好きには有名なサークルで、伝統もあり、OBには編集者や評論家がたくさん出ているサークル。こちらは、他の大学から来てる人も多いし、大所帯で、とにかく本の話をいっぱいしてればいい、年に数回、同人誌を出せばいいというサークル」に実際に入っていたりした(とりわけ田舎から東京にでてきた)人がもしこの本を読んだら発狂しそうなむずがゆさに襲われるのではないかと思ったことであるよ。


 ただの人がいて、生活があって、それぞれの視点があって、その視点で世界を切り取ったスナップショットのような言葉だけで小説がなりたつのであれば別にそれはそれで良いしそういう小説は嫌いではないのだけど、実際問題そういうのは大変だと思う。書くのも読むのも。恩田陸はそういうのがやりたいのかもしれないと思うところは多々あって、そういえば第三部で語り手がこんなことを思っていた。

 ピクニックにも行った。
 ピクニックといっても、学校の裏に広がる田圃道をずーっと歩いていって、沼だか湿地だかを半日うろうろしてただけなんだけどさ。
 おお、あのピクニックの記憶、どれも見事にシネスコサイズだ。
 なるほど、日本の田圃って、シネスコサイズにぴったりなんだな。三人でたらたら畦道歩いたり、お地蔵さんの前掃除してみたり、屋敷林のところで石垣に座って綾音が作ってきたサンドイッチ食べたり。
 不思議だ。
 こういうのって、決して特別なシーンじゃないんだね。
 他愛のない、ほんのワンショット。夕暮れ時の、小さな小川に架けられた石橋が、真っ赤な水面に黒い影を落としてる。
 淡いオレンジ色の光が、ぼそぼそうつむき加減に話している綾音と戸崎と僕の髪の毛を照らしている。

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』(河出書房新社)pp181-182

 こういう「特別なシーン」ではないもの。それだけを「再現」させる小説。それだけを文字で書きつつなお読むに足るものをつくるのは本当に大変なのだろうなと思う。

 そういえば第三章を読んでいてどうも座りが悪いのでなんでかと考えてみる。第三章では「僕」=箱崎がライターに取材をうけるというかたちで物語が進んでゆく。一人称による「僕」の独白と、インタビューしているライターを三人称で描写するパラグラフが交互に置かれる。はじめこの二人だけがこの場面にいるのだと思っていたらどうも違う。どうやらライターを見ている、一人称としての「私」がいるようなのだ。「老舗の映画雑誌」の編集者のようなのだけど、まるでライターを視点人物として使い、自分は話者になっているみたいで変な感じ。完全に姿を消しているのではなく、姿がそこにあるのに存在がなく、見えない話者になっているように見えるのがその変な感じのよってくるところなのだろうか。読んでいるとかたちのうえでは一人称と三人称が一つの章の中で同居しているのに、読んでいると、一人称と一人称が同居しているように見えてくる。で、三人称の語りだと思っていたら、語り手が徐々にその姿をあらわし、最後にいきなり横からひょいっとでてくるような場面があり、ちょっと楽しかった。

 吉野朔実『period 3』も読む。
 この作品でしみじみ凄いのは、「外見が美しくない少女」を「外見が美しくない少女」としてしっかりと描いているところだと思う。えてしてマンガでは「外見が美しくない少女」は周辺に属す場合は記号的に処理されるし、主要人物になった時は、美しくはないが愛嬌ある人物として描かれる。それがこの作品では主要人物にある「外見が美しくない少女」を絵のレベルでしっかりと「美しくない少女」として描きだしている。そしてその少女がいう台詞。

「キレイな顔は音楽みたいに、一瞬で人に愛される*1
 この台詞を見た瞬間、「醜い娘は、髪の毛が賞められる」という一文を思いだす。これは野上弥生子の『森』にでてくる(もともとはチェーホフのなにかにでてくるらしい)。つまりなんというか、認識に優れた人は生きていくのが大変なのだろうなと思ったことであるよ。

 この「外見が美しくない少女」鏡島まいらが、学園でも美人と噂される小栗恭子と後姿で間違われる場面がある。間違えた男子達は口々に「げっ!!」「おまえ誰!?」「あーびっくりしたすげーブス!!」「後姿そっくりなんだもん」「ありゃサギだよなあ」という。それを聞きながら表情を変えることなく歩いていると、後ろから「まいら」と自分の名前を呼ぶ声がする。「キレイな顔」をした、いとこのハルだった。後姿でも自分を見分けるハル。重い荷物を持とうとするハル。ここまでハルの顔は輪郭だけで、その目鼻は描かれない。まいらがハルの横顔を見る。そこでページが変わり、ハルのその「一瞬で人に愛されるキレイな顔」が描かれ、それを見るまいらの顔のアップになり、場面が切り替わる。ここでのまいらの一連の心の流れを思うだけで、なんというか胸がふさがれそうになる。同時にまいらの言う「一瞬で人に愛されるキレイな顔」である兄弟が、前巻までの閉ざされた社会でどのような扱いをうけてきたかを思いだすと、つまり優れてキレイなものも優れて醜いものもどちらも敵/味方という二分法で世界と関わらざるを得ないのかもしれない、という非常に凡庸な事に思いが着地してしまい、そういう思いというのはこの優れた作品を貶めることになるのではないかと友人にいったところ、中庸が一番だよね、という返事がくる。いや、それなんかちがくないか? 答えとして。

 マンガといえば、そういえばやはり最近 大塚英志森美夏『八雲百怪』を読む。いや、もうのっけから会津八一、甲賀三郎、そして「キクリ」という固有名詞に爆笑してしまう。腹つるかと思った。そのうち大下宇陀児とかでてきたらどうしよう。キクリは菊理媛でしょうか。なにか決定的な一言をいうのでしょうか。あの人形姿は括り→糸→傀儡子ということでしょうか。可愛いです。一話目の「救われない一族を救う話」を読んだ瞬間、諸星大二郎の「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」が脳裏をものすごい勢いでかけめぐり、電車で笑い死にそうになった。いや、だってあの森美夏の美麗な絵と、諸星のおどろおどろしい絵が入り混じってしまえばそりゃえらいことに。

*1:本当は読点のところに一瞬間が入る。しかしマンガの台詞を引用していていつも思うのだけど、マンガの台詞は引用が難しい。絵とコマと台詞のバランスでなりたっているものから台詞だけをとりだして示すのは本当は片手落ちなのだろうと思う。

友人が「大枚をはたく」を「玳瑁をはたく」だと思っていた事が明らかになった。「だって玳瑁って貴重じゃない」といわれた。常識のエアポケット。

 電車にゆられていると、となりの人がかばんから文庫本をとりだした。こういうとき、何を読んでいるのかとのぞき見てしまうのはどうにも品がよくないと思うものの、気になるものはしょうがない。ついつい横目でちらちらと見てしまう。カバーがかかっていてタイトルはわからないけど、紙の感じ、字組みの感じ、なにより栞紐があるところから新潮文庫だとわかる。新潮文庫は左のページの上には節が、右のページの上には本の題名が書いてあるのだけど、あいにく私のところからは左のページしか見えない。そこに目をやると「Web 2.0」とある。本文は、と見るとなんだかカタカナが並んでいる。なんだコンピュータ関係の実用書か、読んでいる人SEっぽいし(偏見)業界向けの読み物でも読んでいるのか、と興味がなくなり自分の読書にもどる。数分後、奇妙なことに気づく。SEっぽい人の肩が小刻みに上下しているのだ。となりの席にいるので、こちらに震動がつたわってくる。なんだと思い見てみると、SEっぽい人は肩を震わせて笑いをおさえるのに必死なようだった。ときどき「ごふ」とか「ぐふ」というようなくぐもった音がきこえる。そんなに面白いことが書かれているのかと、また見てみると、本の左上には「ブログを考える」とあった。なんだやっぱりコンピューター関係の本か、でもそれにしてはやたらこの人うけてるな何か内輪向けのネタでもツボに入ったのかしらんと、思ったのだが、よくよく見てみると、どうも実用書というわけではないようだ。ぱっと見えた本文にこうあった。

 ただ、「ブログの女王」のようなものに私はなりたくない。なぜなら、私は男だからだ。だったら私は次のようなものになりたいと考えている。
「ブログの大将」
 こうなるともう、「裸の大将」のようなものである。裸で素振りだ。汗が飛ぶのだ。それがあの膨大な日記である。

 なんだこれは。
 ほかの場所は、と目をやると、やはり変な文章がならんでいる。こんな単語が目に入る。「プロゴルファー猿」「旅行から旅行の、よく旅行する人」「自転車」「よく盗まれる」「あまり盗まれない」。これだけではなんのことかよくわからないだろう。私もよくわからなかった。それでも文の面白さは伝わってくる。まるで宮沢章夫のような屈託のある文章だ。これはどう見てもコンピュータ関係の実用書ではない。思わずとなりから覗きこむように見てしまう。よく見えない。首をのばして後ろからのぞきこもうとする。前に立っていたおねえさんが変な顔をする。SEっぽい人は私の不審な動きには気づかず夢中で本を読んでいる。たまに頬がひくひくするのは笑いをおさえているせいだろう。そんなに面白いのかいや確かにこの文章は面白い、とタイトルを知りたくなる。あの失礼ですがなに読まれているのですか面白そうですね、と声をかけてみるかと思うもさすがにそれもどうかと逡巡しているうちに私の降りる駅が近づいてきた。立ち上がると、一瞬、本の右上に「アップルの人」という文字が見えた。ということはこれが本の題名なのだろう。気になったので、電車を降りてからネットで調べてみる。キーワードは「新潮文庫」「アップルの人」。一発目でヒットする。そこにはこうあった。

 宮沢章夫『アップルの人』新潮文庫

 そういうものだ。
 本屋に行くと新刊のコーナーに置いてあった。購入し帰りの電車で読む。家に着くまで私の頬はひくひくとしっぱなしだった。



木地雅映子『マイナークラブハウスへようこそ!―minor club house〈1〉』(ピュアフル文庫)を読む。

「死んじまうんだったら、もう、なんもかも終わりじゃんか……。どんなにイヤな親だっ
たにしても、母親だろ? 産みの親だろ? そこまで、徹底的に拒絶する必要なんて」
「あるわ。」
 囁くような小さな、硬質な声。一瞬誰の声だかわからなかった。
(中略)
「誰でも死ぬわ。それだけで全てが許されるほど、生きている間に為した行為は軽くない。
この世界は、あの人たちのゴミ捨て場じゃないのよ。」
 がさりと音がして、女の子が、木の下に飛び降りる。
「あたしたちだって、ゴミじゃないわ」


木地雅映子『マイナークラブハウスへようこそ!―minor club house〈1〉』(ピュアフル文庫)pp237-238

 母と娘、兄と妹をめぐる物語として読んだとき私はこの作品を吉野朔実の作品、とりわけ『ジュリエットの卵』に接続する誘惑にかられてしまう。例えばこんな文章を読んだとき。兄のことが好きだったというぴりかに、まわりは、子供のころによくある兄弟への無邪気な愛情だと話を落ち着けようとする場面。

「そーくんとせっくすして、そーくんのこどもをうむんだとばっかしおもってたよ。」
 がたがたーっと全員椅子ごと後ずさる。
「……それが、宇宙の完成だと思ってた。そーくんと、ぴりかが結びついて、それが、ひとつの物語の完成。そいで、その後の時間は、もうないの。でも、そうなる前に、そーくん死んじゃった。」


同上p218

 だけど悲しいかな役者不足。うまく接続できない。残念。

 聞きながら、頭がさらに混乱して来る。口の中が、苦い汁で、いっぱいになるような感じがする。
 この喋り方には、覚えがある。
「ご病気ですか」
 と、少年がまた尋ねる。かおりが再び、ボンネットに片手をついて、気を失いそうな様子になったためだ。
「何かお手伝いすることはありますか?」
 なにかおてつだいすることはありますか? ……ああ、やめて。そんな風に、わざとらしい言い方はしないで。いやみな口の利き方はやめて頂戴。どうしてもっと普通に喋れないの。いったいなにが不満で、ママにそんな他人行儀な態度を取るの?


同上p279

 ぴりかの母親が奏と晴一郎を朦朧とした意識の中で混同する場面。物語的にこのとき二人は象徴的に同一化されている。その上で、ぴりかと奏の関係をそのまま滝と晴一郎の関係にスライドさせると、ぴりかと滝もまた象徴的に同一化される。そうすると、滝がぴりかにであった瞬間、何故、直感的に「面倒見てやんなくちゃ……と」思ったかがわかる。それは滝にとってぴりかが自分の分身に他ならないからではないか。そう考えると、同時に、滝が何故、晴一郎に惹かれるのかもわかる。物語の内容レベルでの意味づけはどのようにでもできる(精一郎の、その「病気」に由来する態度が彼女にはちょっと不器用だけど誠実で好ましいものに見えるとか、まわりの男とは違って「本当の自分」の姿を見てくれるように思えるとか。それは何でもよい)のだけど、物語的には、滝と精一郎の関係はそのまま、奏とぴりかの関係を再現しようとしているのではないか。するとその先にあるのは、すでに起こった事であるところの悲劇ではないのか、と思ってしまいちょっと暗い気持ちになる。なんにせよ2巻が楽しみ。

飲み屋にたなびく「樽生名人のいる店!」という幟が「柳生名人のいる店!」と見えた冬の昼下がり。

何故なのかと彼の考えを聞いて全員が賛同する訳がないんだ
しかし 中には聞いておきながら自分が納得しないと怒ったり否定したりする愚者がいる
人に説明を求めて解答が常に得られると思っている蒙昧な者も多い
(中略)
知る事が全ての人に幸せをもたらすとは限らないのと同じで
全てを知る必要はないし明かす事もないヨ

石川雅之もやしもん7』(講談社)p185-186

もやしもん7』を読みながら、樹教授がクトゥルフの司祭だったらどうしようと考える。
 大きな嘘をつくときは小さな真実を混ぜる、というのは秘密を守るための常道なわけだけど、今回のもやしもんでは地下通路の(あるいはその先にある)秘密を守るため、この場所が日吉酒造の麹室と貯蔵室であった事が明らかにされる。これは嘘ではないけれど、問いに対する本当の答えではない。その先にさらなる秘密が隠されている。さて、それはなにか、と考えたとき、ふと、もし樹教授がクトゥルフの司祭であったらどうだろうかと考える。
 この地下道が設定上、戦中に何かの研究施設であったのは間違いないのだろうけど、実はクトゥルフを祀る祭儀場だったとすればどうなるか。とりあえず樹教授の「樹」は実は「斎」だとする。代々、闇の司祭を世襲する「斎」一族。
 話としては、及川が飲み会の最中、中座し、地下道を見つけてしまう。しばらく地下道を進むうちに奇妙な部屋にでる。荒く削られた壁面には及川の見たこともない文字が刻み込まれている。部屋の真ん中には円筒状の半透明なガラスのようなものが置かれている。筒の中ではなにか白い、巨大な蛆のようなものがぶよぶよと蠕動している。
「及川君」
 振り向くと真っ黒なローブを着た樹教授がいた。闇の中に光る眼。
「君はクトゥルフ神話という言葉を聞いた事はあるかね」
「クトゥ……何ですかそれ? 神話って、あの神話ですか?」
 で、ここで樹教授の長ゼリフでクトゥルフ神話の説明が入る。それだけでも楽しそうだ。
 及川はその説明を聞かず尋ねる。
「それより先生その服なんですか? いつもの白衣は? なんだかゴスっぽいですけど、蛍君の真似ですか。というかこの部屋はなんですか」
 樹教授が言う。
「君がここで見たものは忘れなければならない」
 樹教授の背後で蠢く触手状のなにか。暗転。とうぜん夢オチ。眼が醒めたら朝。飲み会後の惨状の中で眼を覚ます及川。昨夜のことは何も覚えていない。何時もと変わらない朝。で、「みんなおはよう」と樹教授があらわれる。珍しく白衣ではなく、シャツ姿。そして、最後に、何か(クトゥルフの司祭の徴とか。首の後ろあたりにあるとアングル的にも良い)がアップになり終わるというのが物語的には順当ではないだろうか、というようなことを友人にメールしたところ、現時点で53時間返信がこない。ちょっと寂しい。駄目だったか。


 普段いかない街に用事ができたので赴く。ついでに古本屋に寄る。二冊購入。ウィリアム・ギブスン『ヴァーチャル・ライト』(角川書店)とM・ミオー&J・ランジュ『娘たちの学校』(ペヨトル工房)。『ヴァーチャル・ライト』はギブスンの新刊がでる前に読んでみたかったので購入。『娘たちの学校』はいかにもペヨトル工房。登場するのはスザンヌとファンションという二人の少女。話はこの二人の対話体で進んでゆく。世知にたけたスザンヌが、ファンションに向かい「(即物的な意味での)愛の喜び」と「(即物的な意味での)閨の作法」を教えてゆく文字通りの「娘たちの学校」。慇懃で悠然とした手つきで綴られる文章が楽しい。フェイクの臭いがぷんぷんするあとがきもまた良い。

 エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』(ハヤカワ文庫)読了。

 自閉症の画期的な治療法が確立した近未来。幼児期であれば自閉症は完全に「治療」可能なものとなっていた。ルウはその「治療」を受けていない最後の世代だった。同じ「障害」を持つ仲間とともに製薬会社で働くルウは、ある日、上司から実験段階にある脳の手術を受けるようにいわれる。その手術を受ければ自閉症が「治療」され「ふつう」の人間になれるのだという。自閉症という「障害」が今の自分を今の自分としてあらしめている大きな要因であるならば、その「障害」が「治療」されたとしたら、そこに誕生する「私」とは「私」なのか? と、アイデンティティを巡る話として見ても面白く、あるいは彼に見える世界の姿を読むだけでも非常に面白い。

ふいにトムが話しかけてきた。「あなたは考えたことがありますか?」と彼は訊いた。「暗闇の速度はどのくらいか」
(中略)
「暗闇は光がないところのものです」とルウは言った。「光がまだそこに来ていませんから。暗闇はもっと速いかもしれない―いつも光より先にあるから」
「あるいは暗闇はまったく動きがないかもしれない、なぜならいつもその場にあるから」とトムは言った。「それはひとつの場で、動きではない」
「暗闇はものじゃないわ」とルシアが言った。「それは単なる抽象よ、光がないことを言いあらわす言葉にすぎないわ。動きがあるはずがないでしょ……」
「そこまで言うならだね」とトムが言った。「光は一種の抽象概念だ。そして今世紀のはじめまで、光は動きと粒子と波動においてのみ存在すると言われてきたが、その後その考えは捨てられた」
 ルシアが顔をしかめているのは、顔を見なくてもその声のとげとげしさで彼にはわかった。「光はじっさいに存在するもの。闇は光が欠如している場所」
(中略)
「隠喩的には」とトムが言った。「もし知識を光とし、無知を闇とするなら、闇は実際に存在するものだと思えるときがある―つまり無知は存在すると。無知は単に知識の欠如というよりもっと触感のある筋肉質のもの。無知に向かう一種の意思のようなもの。それはある種の政治家たちを言いあらわすことになるね」
エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』(ハヤカワ文庫)p156-157

 光と闇の比喩で「知」と「無知」の対立を語りながら、その奥に「健常者」と「障害者」という構図が浮かび上がる。
「健常者」は全き良きものであり、「障害者」は「治療」されるべき悪しきものであるとする図式。あるいはそのような図式それ自体が「闇」であり、「無知に向かう一種の意思」で、それは作中に登場する人物達のあるグループを体現する言葉としても読めてくる。
 作中でルウはフェンシングに才能を持つ人間として描かれる。運動のパターン認識に優れたルウは、フェンシングの対戦者の動きをあるパターンとして「見る」。相手の動きのパターンを分析し、それに沿った動きをすることで、相手に勝つ。その認識と動きが優れた術者の動きを連想させる。

そしてまた私は、光の中にある暗闇のなかで動く。暗闇はどれほど速いのか? 影は、それを投げかけるものより速くはないが、すべての闇が影というわけではない。
そうだろうか? こんどは音楽は聞こえないが、光と影のパターンが、闇を背景に光の弧や螺旋を描きながらくるくる回るのが見える。

同上p58

 と、同時に、フェンシングの最中、剣を交わす相手と自分が協力して一つの旋律を奏でているような感覚に襲われ、その音楽に陶然とするルウがいる。フェンシングをしているという意識が薄れそれどころか自分が消え、ただ動きと旋律があるという状態。そして同時に読んでいた鴻巣友季子『翻訳のココロ』(ポプラ社)にこんな文章を見つける。

 翻訳も「いかにも巧い」と思わせるようでは、まだまだ青い! 「いかにも労作」というのもいただけない。読む方が疲れてしまう。たぶん、本当にいい翻訳とは、読者が訳文の出来不出来などに思い至りもせず、「ああ、なんて面白い本なんだ」と息つく暇もなく読んでしまう翻訳なのだ。翻訳のことを忘れるような。翻訳が消えるような。少なくとも、読み手の意識から消えるような。

鴻巣友季子『翻訳のココロ』(ポプラ文庫)p54

さらに、こんな文章も湧きでてくる。

 面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として眺めているわけである。いかなる芸能でも、舞台に出れば観客に見られることが役者の宿命で、したがって役者はいつも、見られているという意識から離れられないものだけれども、その見られるという意識、更にそこに必然的に出てくる見せるという意識、それをいかになくすか。これは役者の大きな命題であり続けたことだ。舞台という虚構をいかに実存に変えてしまうか。そのためには先ず演者が、見せる意識を自分の中から取り除かねばならない。同時に観客を見るほうの意識も変えなければ駄目だ。役者は観客を舞台上から仔細に見ているものなのである。(中略)その見る意識も見せる意識も超越した境地。それは世阿弥の言う「離見の見」、「見所同心の見」を持つことであろうし、「無心」の境地にもつながるだろう。が、それを、能の役者は面によって得ようとする。面をかける、ということは能の役者にとって、これから一番の能を演ずる自分の、心の状態と位置とを決める鍵なのである。

観世寿夫『心より心に伝ふる花』(白水uブックス)103〜104


 動く存在が消え、動きそのものとなってしまうこと。あるいは意味するものが透明になり、意味されるものそれ自体が立ち上がってくるような錯覚を生じさせるということ。偶然にも両方「やく」をめぐる話になってしまった。記憶の入っている場所が同じだったのだろうか。
 それにしても、『くらやみの速さはどれくらい』。タイトルといい、光と影をめぐる記述といい、優れた技術と動きの描写といい、これはまるで新陰流の「陰」の意義の解説と実践のようではないか!と思ってしまったのが運の尽き。同時に読んでいた梅原猛『うつぼ舟1 翁と河勝』(角川学芸出版)がさらに妄想を加速させる。この本で梅原は世阿弥の『風姿花伝』から能楽の源流へさかのぼり、そこから秦氏の伝承を経由して、金春禅竹が記した『明宿集』に触れ、そこで語られている「宿神」について考えを進めてゆく。「宿神」とはなにか。経緯をざっくりと省き単純化して言えば*1柳田國男が「石神問答」で問題にした「シャグジ(ミシャグジ・シュグジ・シャクジンなど「サ音+ク音」の音を持つ存在)」と呼ばれる神(精霊)。中沢新一は『精霊の王』で『明宿集』をテキストに使い、芸能の根源神としての「翁」と「宿神」をつなぎ、「宿神」を、存在の運動をあらしめる場として描きだす。妄想は加速する(妄想の速さはどれくらい?)。能と剣術(主に新陰流)の関係を小説に持ちこんだ作品として、すぐに思いだすのは山田風太郎柳生十兵衛死す』。『柳生忍法帖』『魔界転生』に続く柳生十兵衛シリーズの最後を飾るこの作品で、風太郎は能を時空間を越える装置として機能させ、室町期の柳生十兵衛(陰流の剣士)とその子孫である江戸期の柳生十兵衛柳生新陰流)を立ち合わせる。能を時空間を変容させる芸術として見た山田風太郎の慧眼にはただただ恐れ入る。
 しかしながらさらにその先に、『明宿集』において能の根源神として語られる「翁」と、武芸を結びつけた優れた作品として私は隆慶一郎『夜叉神の翁』を思いだす。この作品で隆は金春七朗氏勝という人物を主人公とする。金春七郎氏勝とは『明宿集』を著した金春禅竹の子孫。新陰流の他、宝蔵院流槍術大坪流馬術、新当流長太刀を修めた天才的な武術者として知られる*2。物語は氏勝が夢の中で謎の「翁」の声を聞くところからはじまる(んじゃなかったかな……。いま読み返そうとしたらどうしても本が見つからない。なので記憶に頼って書いています。間違っている可能性大)。その声に導かれるように芸能の根源へと歩を進める氏勝。同時に、柳生一族との出会いにより武への才能も開花させる。武芸とは畢竟人を殺傷する技術である。武の道に激しくひきつけられながらも、人を殺す技術を身につけることに苦悩する氏勝。隆慶一郎は間違いなく『明宿集』を踏まえた上でこの作品を書いていた。芸能と武芸を結びつけ、さらには生命の根源にまで考察を進め得た予感に満ちるこの作品。歴史に残る傑作になったと思う。返す返すもその早い死が惜しまれる。ああ、この続きを誰か書いてくれんものか……。宇月原晴明とかさ……。

 さらに妄想は進み「坂の者」(あるいはシュクの者)と呼ばれた中世の被差別民。これと、丹生谷哲一が『検非違使 中世のけがれと権力』(平凡社)で描いた検非違使と「キヨメ」の集団の関係。さらには検非違使と後戸の神(=摩多羅神)の関係。後戸の官人検非違使。後戸猿楽。ここで猿楽(=能楽)と摩多羅神がつながる。摩多羅神といえば秦氏。連想ゲーム。検非違使といえば北面の武士。北面とは何に対しての北面か。天子(天皇)は南を向く。それに対しての北面? 天子(天皇)の背後にたって守るものとすれば後戸の神と一緒の機能を持つことにならないかと思うのだけど、それはさすがに妄想しすぎかとも思うも、さらに妄想は加速する。シャグジ(ミシャグジ)という名でよばれる神は諏訪地方と強いかかわりを持つ。先にも書いたとおり中沢新一はこの神を能の根源神である宿神と同体と考える。そこで私は思いだす。武田信玄が諏訪地方を治めていた頃、その旗下にいた金春流の流れをくむ能楽師を。その名を大蔵太夫十郎信安という。彼には息子が二人いた。兄を新之丞。弟を藤十郎(十兵衛)という。兄弟ともに武田家に使えるが、兄は長篠の戦いで討ち死に。戦人としてではなく行政官として使えていた藤十郎は生き残り、武田家滅亡の後、徳川家に使え内政の場で頭角をあらわすようになる。藤十郎改め、後の大久保長安である……。

 というようなことを妄想し幸せな気持ちになる。
 それはさておき、今年最後の読書はどうしようか。今のところの候補としては、買おう買おうと購入するタイミングをはかっていたけど中々買えず泡銭が入ったのでようやく購入できた『久生十蘭全集1』(国書刊行会)。楽しみ。

*1:先走りすぎた。シャグジと宿神をつなぐのはあくまでも中沢新一の考えであって、梅原はこの本の中でシャグジについて言及していない。梅原は『明宿集』を基に宿神と翁を同体として考え、さらに翁と摩多羅神を同体として見ている。

*2:こことか面白い。

やたらと腹回りがゆるく感じられ、穿いたパンツがずり落ちてくるのを、あらわたし痩せたのかしらと思いきやベルトをつけ忘れていただけだったと気づいた瞬間の悲しみを何に喩えよう。

 最近はなんだか日付の感覚がおかしくなり、月日の流れがやたらに早く感じると思ったら実際には2、3日しかたっていなかったり、そうかと思えばあっという間に一週間ならばともかく一月近くも経っていたりしていてこれは何ぞと驚いたりと、これはあれか、何かの異常か主に精神のと思うもそんなこともないようで、ただたんにぼんやりと生きているだけだからのようだ。

 そういえば書店の店頭で蜂飼耳の新刊『秘密のおこない』を見つけて狂喜して買ったのは、京都は百万遍知恩寺の古本市にいった前だったか後だったかも覚えていないのだけど『秘密のおこない』は素晴らしかった。一行目を読んだだけで陶然とする。「日が落ちて訪れた闇に、闇そのものがまだ慣れずにいるような時刻」(「闇の結晶」)とか。ああ、いい。彼女の文章を読んでいると身体の奥深いところをそっと撫でられているような、もうそれは本当に身体的な快楽を覚えてしまう。句読点の打ち方一つとっても、そのリズム、屈折、あるいは視覚面での、字の配列(タイポグラフィ)のレベルで、そこで何が語られているかではなく、物質的な語の配列を眼でおっているだけで陶然としてしまう。白い紙の上に何か黒くうねうねとしたものがある。その上を眼が這う。その手触りというか、読んでいるのに手触りとはこれ如何に、とも思うのだけど、私は本当に好きな文字群に出会うと、その一文字一文字に、はっきりとした手触りを感じてしまうので、その一文字一文字の輪郭を撫でるように眼で追ってゆく。ただ、それは今のところ何故か、彼女に限って言えば、エッセイ(あるいは随筆)と呼ばれる形式の文章に限られるようで、彼女の詩、あるいは小説を読んでいても、なんというか、入り込む、あるいは文字がこちらに飛び込んでくることはあっても、身体の深いところを優しく撫でられているような、あるいは手でその文字を撫でるような、あの陶然とする身体的な快楽は得られないのだ。不思議だ。おそらく、物語や強い意味がある文字群だと、その手触りを感じる前に、そこで語られていることが現前化してしまう事によるのだろうけど。いや、もちろん内容レベルでも心地良く。作者は学生時代、神話(「古事記」)を専攻されていたということで、度々、そういう話がでてくる。この作品だと「案山子は何でも知っている」とか「崩れる島々」とか。「紅水晶の遠近法」では「学生時代に神話(古事記)を専攻していた私にとって、近代以降の意味での〈小説〉における人間の顕れ方というものは、どこか異様なものだった」(p206)という一文に出会い、どきどきする。『空を引き寄せる石』だと「玄関のない家」に胞衣の話がでてくるし、『孔雀の羽の目がみている』だと「橋の名は」に「播磨国風土記」がでてきてなんだかどきどきした。どきどきしっぱなし。

 あとは「港の観覧車」は詩集『隠す葉』の「太陽を持ち上げる観覧車」のプロトタイプの物語のようで、なんだか良いものを見た気になる(発表された順としては「太陽を持ち上げる観覧車」の方が早い)。それにしても私は蜂飼耳のエッセイを読むと、何故か三浦しをんの文章を思いだしてしまう。何故だろう。ぜんぜん違うだろうと友人にも不思議がられる。不思議だ。三浦しをんのエッセイの中にそこはかとなく見えるような気がする親父さんの影響みたいなもの(島根に行ったときの話しとか)とか、二人の年代とか、の所為かとも思うも、いやまさか。

 
 知恩寺の古本市は境内にみっしりと古本屋が軒を連ねていた。お参りをし、お店をぶらぶらと。あまり欲しいものはなかったのだけど、一冊だけ懐かしい本に再会したので購う。『両翼の騎士―笠井潔の研究読本』。昔、後輩に貸して帰ってこなかった本。懐かしい。笠井潔小松和彦の対談とか読めて、中々楽しい本なのだ。

 古本市を見終え、同行してくれた方と、嶽本野ばら『カフェー小品集』に「制服が可愛い」と書かれていた喫茶店を探して木屋町の辺りを彷徨う。路地に入り込みさんざんに探しみつからず次第に迷子の様相を呈してきたので警察にかけこみ道を問うと、苦笑しながら入り口から指をだして「そこ」と言われる。本当にすぐそこだった。どうやら目的地の周りをひたすらぐるぐるしていたらしい。お店に入り喫茶。確かに制服は可愛かった。それ以上に、入り口にいた店主らしいおばちゃんが格好良かった。

 同行してくれていた方が、用事があるからと言うので鴨川の上で別れる。さて、どうしたものか。こちらは古本市以外のことはなにも考えていなかったので、足の赴くまま盲滅法に歩き回り気づくと八坂神社の境内にたどりついていた。石段に腰かけ日が暮れてゆくのを見ながら、さてこれからどうしようと途方に暮れる。途方に暮れていてもしょうがないので、とりあえず境内をぬけて清水寺の方に向かって歩きだすも周りにはカップルしかいやしない。夜の7時過ぎにだ、何で君らはだ、こんなにも暗い道を歩いているのだ。いや、私もなのだが。横では「暗すぎて恐いな」「なんだか夢の中みたい」という甘い睦言が聞こえてくるというか、嫌でも耳に飛び込んできて、そのまま夢の世界へいってくれと真剣に願う。

 携帯が振動したので何ぞと思えば友人から飲みのお誘い。残念ながら500kmばかりはなれていたので飲めない。道の小脇にベンチがあったので返信しようと腰かける。照明灯のぼんやりとした緑色の明かりのなかで背中を丸めメールを打つ私の姿は、おそらくはたから見たらそうとうに不気味だったと思う。返信を終え、また一人、清水寺の方を目指して歩く。なんだかやたらに起伏のある道をもういい加減ついてもよいだろうと思うくらい歩いていると、いきなり道が開けなにやら三門のようなものが見える。すわ、着いたか、と思いきや、何故にか知恩院にでてしまっていた。知恩院って、清水寺とは逆方向ではなかったかと脳内の京都市街図を呼びだすも、ところどころ穴があいていて使い物にならない。しょうがないので知恩院の三門の辺りをぷらぷらすると、闇の中、ぼんやりと光るものが。自販機だった。喉が渇いていたので一服と、何があるかと見てみたら、お茶しかない。しかも一種類。その名も「知恩院のお茶」。爆笑。あまりの面白さに写真を取る。


 茶を喫しながら、人気のない真っ暗な道を適当に歩き続けることしばし、賑やかな通りにでる。いや、やっと人里に降りられたと一息ついて、見るとそこには朱塗りの楼門が。さっき私が出発したはずの八坂神社の裏門だった。この一時間は何だったのだろうかと呆然とする。どうやらぐるぐると回っていただけだったらしい。狐か狸にでも化かされたのだろうか。それともこれが噂に聞く奇門遁申の陣というやつか。さすが京都だ。翌日は蚕の社広隆寺と、名付けて「秦氏の夢の跡」コースを歩く。そのままてくてくと西へ歩をすすめ、化野念仏寺とか祇王寺とか嵐山周辺を散策し二日目を終える。久しぶりに行ったけど夕暮れの祇王寺は人気がなくて良かった。苔をみてしばしぼーっとする。



 最後の日は、昼のバスを利用して帰るつもりだったので、少し空いた時間で、行きたかった古本屋に行く。開店と同時にお店に入る。非常にガチな人文書の充実したところで、くらくらしながら棚を見てまわる。あまりにもガチすぎて、欲しい本はなかったのだけど凶区の特集をしていた「現代詩手帳」と岡井隆の特集をしていた「アルカディア」を購入。それと、京都の大学の学生の方達がつくった同人誌があった。聞くとフリーだというのでいただいて帰る。若さが滾っている感じで良い本でした。


 書店に行くと水村美苗日本語が亡びるとき』と『倉橋由美子 夢幻の毒想 KAWADE道の手帖』が並んでいたので、ひゃっほー、と小躍りして購入。『本格小説』以来の水村美苗。しかも小説ではなく評論のよう。好きな作家の小説論(=小説をどう読むか)を読むのが好きなので非常に楽しみ。一方の『倉橋由美子』は、その執筆人の豪華なこと。巻頭を飾るは川上弘美桜庭一樹の対談に、松浦寿輝と古屋美登里の対談はあるは、鹿島田真希のオマージュがあるは、エッセイの執筆人がまた良くて、穂村弘、蜂飼耳、齋藤愼爾、と大好きな書き手に加え、論考には千野帽子栗原裕一郎といま注目(私的に)の書き手まで! おまけに『人物書誌大系38 倉橋由美子』というすばらしい仕事をされた、川島みどり、田中絵美利のお二人になる全作品の解題まで付されていて、いや、もう、たまらないです。

 とりあえず千野帽子

前期の、『貝のなか』『蛇』『囚人』『どこにもない場所』『人間のない神』『輪廻』『死刑執行人』『結婚』『共棲』『スミヤキストQの冒険』といった架空世界の話が、好きすぎて苦しい。それに次いで『暗い旅』『夢のなかの街』『妖女のように』など、作者ゆかりの土地を書き換えてしまう小説も胸に迫る。これらについてならいくらでも書ける気もするが、書きながら自分の思春期のことまで吐露してしまう危険がある。もっと客観視できるまで、もう少し時間をください。

文学少女殺し。倉橋由美子と『小説』」(『倉橋由美子 夢幻の毒想 KAWADE道の手帖』河出書房新社 p104)

という文章。まるで穂村弘みたいだと一瞬思うも、いやいや、こちらとしては客観視なんていわず、対象となる作品の内側に入り込むような、距離を無くしてしまったような、くんずほぐれつ行間からその書き手が透けて見えるようなずるずるべったりな文章も読んでみたいのですよ千野帽子の、といったところ友人に、それは単に覗き趣味なだけでは、と言われる。そのとおりです。

 で、水村美苗日本語が亡びるとき』。アイオワに留学していた日々をつづる文章はとても心地良く、読んでいて陶然としたのだけど、何だか後半になるに連れて「である」体になり文書が乾燥してくる。うーむ、どうも真面目な論調になってきたなと思い読み進める。なんでも言葉には「普遍語」「国語」「現地語」という三つのカテゴリがあるらしく、「普遍語」とは場所や時間や空間を越えて読まれるべき言葉の連鎖をつくりだすような「共通の言葉」。「国語」は「普遍語」の影響の下に誕生した、国民国家の中で共通性を持って事実上流通している言葉。「現地語」はある社会の中で実際に使用されている言葉、らしい。で、どうやら英語が「国語」としてのあり方を超えて世界を覆いつくす「普遍語」になる一方で、「国語」としての日本語はどんどん「読まれるべき言葉」から外れ幼稚な「現地語」になりつつあるらしい。そうすると心ある人たちはさっさと幼稚な「現地語」である日本語に見切りをつけ、「普遍語」である英語にアクセスをするようになる。そうすると「国語」としての日本語は何の(美学的に)魅力のない「現地語」に成り果てますよ、それって日本語が亡びるってことですよ、という話らしい。

 ほえー、そりゃ大変だと読んでいたら、ちょっと気になる一文に出会う。
 もしかしたらもう鬼の首でも取ったかのように言っている人がいるかもしれないけど、いや、でもこれは気になるでしょ。
カンボジアクメール・ルージュにいたっては読書人をすべからく虐殺した」(p303)


「すべからく虐殺した」


「すべからく」という言葉は漢文の訓読で「須」を「すべからく〜べし」と読むところからでてきたもので、後半に「べき」を補い、「当然〜すべきである」というような意味で使われるものだと思っていたのだけど違うのだろうか。私にはこの文章は、前後の文脈から見ても、「カンボジアクメール・ルージュは、全ての読書人を虐殺した」という意味にしか読めないのだけど。まさか、「すべからく」を「すべて」の意味で使われているのだろうか。いや、まさか。「国語」としての日本語の先行きを憂う著者がこのような間違いをおかすわけがない。そうか、もしかしたら、これまで著者が読まれてきた日本語では、「すべからく」に違う用例があったのかもしれない。しかしそうすると私にはこの一文の意味が判読できない。残念。さすが日本近代文学の「読まれるべき言葉」を読まれて育った方は違う。色々な用法をご存知だ。
 もし、仮に、そんなわけはないけど、万が一、そうではないとしたら、つまり著者が「すべからく」を「すべて」の意で使われているのだとしたら、そこにはどのような企みがあるのだろうか。そうか、もしかしたら、そうやって、身を持ってリアルタイムで日本語が亡びる様を示して下されているのかもしれない。このまま進むと、日本語は「現地語」に成り下がってしまい、このような「書き言葉」としての日本語が途絶え、滅茶苦茶な、それこそ「すべからく」が「すべて」の意で使われるような文章が蔓延ると。あなたたちはそれで良いのかと問いかけられているのかもしれない。そうだとしたら、我々「現地語」の民としては、彼女のような憂国の文学者があえて、その身を挺して、日本語が亡びる様を見せてくれるその姿勢にすべからく感謝するべきであろう。いや、非常にありがたいことであります。なむなむ。呉智英。なむなむ。

 あと、こんな文章がひっかかる。

だが、これから先、日本語が〈現地語〉になり下がってしまうこと―それは、人類にとってどうでもいいことではない。たとえ、世界の人がどうでもいいと思っていても、それは、遺憾ながら、かれらが、日本語がかくもおもしろい言語であること、その日本語がかくも高みに達した言葉であることを知らないからである。世界の人がそれを知ったら、そのような非西洋の〈国語〉が、その可能性を生かしきれない言語―〈叡智を求める人〉が読み書きしなくなる言葉になり下がってしまうのを嘆くはずである。〈普遍語〉と同じ知的、倫理的、美的な重荷を負いながら〈普遍語〉では見えてこない〈現実〉を提示する言葉がこの世から消えてしまうのを嘆くはずである。

水村美苗日本語が亡びるとき筑摩書房 p322

 これって、「珍しい芸をする猿がいるから保護しましょうね。いなくなったらもうその芸見られないし」と言われているようにしか聞こえないのは、「現地語」しか使えないこちらの僻みなのだろうか、とも思うも、どうなんだろう。僻むからには、著者のいうところの「普遍語」に対する劣等感がなければいけないと思うのだけど、意識レベルでは別にどうでも良いしなー。いや、確かに、「普遍語」になりつつあるという英語は全然皆目全く駄目だけど。意識下については責任が取れないのでなんともいえず、そりゃもしかしたら物凄い劣等感があって、それに過剰に反応している可能性はあるのだけど(そうするとこの文章はある種の症例か)、でも本当に、「叡智を求める人」なんざ、知るかいな、気持ちさえよければいいんだよ、と思ってしまうのは如何ともし難く。いや、でも、おそらくは私のこの身体レベルでの快楽を誘発する言葉の群れも「普遍語」の関係の中からつくりだされた「国語」によって可能になっているからには、そういう事は言ってはいけないんだろうな。でも今後、仮に数十年後に日本語が著者のいう意味で「亡び」たって、これまで書かれた本が残っていれば私が死ぬまでは何とかそこから快楽を引きだして楽しめるだろうしなぁ、とか思ってしまうというこれは、反動なんだろうな。読み終わった後、そういえば倉橋由美子も「アイオワの青い空の下で〈自分たちの言葉〉で書く人々」の一人だったのだという事に気づき、なんというか、この偶然に楽しくなる。

駅前で「俺は歯の欠けた歯車なんだ!」と絶叫している若者がいた。なんだかわからないけど頑張れと思った。

 最近、古川日出男『聖家族』(集英社)、保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)、中井久夫アリアドネからの糸』(みすず書房)、アルベール・カミュカリギュラ*1(ハヤカワ演劇文庫)を併読していたら何がなにやらことばが色々と入り混じりえらいことになる。コミックでは吉田秋生海街diary 2』と今市子『僕の優しいお兄さん2』がでていて嬉しいことこの上なく。前者は本格的に『ラヴァーズ・キス』とのリンクを見せ始めたし、後者は今市子の得意技ともいえる錯綜した人間関係がさらに入り組み始めたしで、次の巻が待ち遠しい。あとは小玉ユキ坂道のアポロン2』がよかった。友人に勧めたら「この表紙の悪そうな兄ちゃんと裏のメガネがくっつくんですか」と言われた。違う。
 私は普段雑誌は買わないのだけど、「FEEL YOUNG」の表紙にヤマシタトモコの名を見つけてしまい思わず購入。働いている女性三人が食事をしながら日常であった事の話しをする、という話。理想の男子像を頭に描き、最後に「なんてな いねーーーーよ」(p216)という台詞と、そこに至る描き方が良かった。この中で「オリーブって自家受粉できない」という事が書かれていた。はじめて知ったので、ほうほうと感心していたら、併読していた『アリアドネからの糸』に「清明寮に小豆島からオリーヴの木が来た」という文章があり、そこにも同じ事が書いてあり、一日に二度オリーブについての文章を読むという珍しい経験をしてしまった。そして同じ日に読んでいた『小説、世界の奏でる音楽』の中に中井久夫の本がでてきて、なんというか、不意打ちをうけたというか、よくわからないダメージをうけてしまった。死角からガツンと首筋を打たれたような衝撃。そう、『小説、世界の奏でる音楽』は引用したいところがとてもあるのだけれど、しようとすると「忘れがたい言葉」の最後の方にでてくる『モロイ』のくだり、

読者はそういういろいろなことを読みながら、「ここだ」と言って、線を引いたり、ページの端を折ったりして、そういうところを元にして『モロイ』について語ろうとする。しかし大事なことはいろんなことが何もかも全部詰め込まれていることで、ベケットはそういう空間を作り上げた。簡単に線を引いたりできるようなところには、その小説の本当のところはない。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)p115


という文章が頭をよぎり、引用するのが躊躇われてしまう(という事を示すため引用してしまうという、これはなんなのでしょうか)。奇しくも同じタイミングで読んでいた友人とメールでやりとりする。友人の「これは一種の信仰の書ですね」という一文に、深く納得する。

「私は分数の割り算ができなかった。」「『分数の割り算ができないのも私の個性です』という様な、「〜ができなかった私」という形で、自分がなにかできなかった事をそれがまるで何か自分の大切な特性であるかのように語る話法を、保坂は何度も批判する。これは非常に耳が痛い言葉で、我々(我々?)は少しでも意識が緩んでしまうと、「私は〜ができない」という否定形で自分を語ろうとし、その語る中で「それを語れる自分」を誇るような、どこか湿った卑しい表情がでてくる。その卑しさを保坂は「それを言った人の気持ちが何かこちらに向かってべたっと貼りついてくるようなところが何より共通している。どれも固有の経験を装った了解可能なフィクションじみた経験であり、本当の固有の経験だったらもっとわかりにくいはずだ」(p200)と書いている(ように私には見える)。それにしても何故ここまで何度も「分数の割り算」がでてくるのかと、なんだか面白くなってしまう。そういえば確かこれと同じことが『季節の記憶』に書かれていた筈だと思い、いま本を繰っているのだけど見つからない。いやでも確かあったはず。そもそも私が保坂和志という作家を知ったのはこの「分数の割り算」話法を批判(というほどには強くはない調子で、なんというのだろう、文句をいっている?揶揄している?)する文章を目にしたからだったのだけど、あれはどこで目にしたのだろうか。そこで保坂和志という作家を知ったという事は、それまで(忘れていない限り)保坂の本を読んでいなかったという事で、読んでいなかった本の事を知るという事は、何かで引用されているのを見たのだろうか、あ、あった。

一つ特別いいのは感傷的でないことで、たとえば彼女は間違っても、「あたし小学生のとき、どうしても”十二割る四分の三”の計算が納得できなかったの……」というようなことを言わない。(略)自分が子どものころにできなかったことを自分のとても大切な特性だと感じて、そういう部分がいまの自分をどこかで規定しているんだと考えたがるようなところがない

保坂和志『季節の記憶』(中公文庫)p140

 今これを書き写していて、「自分の」「大切な特性」という言葉を、上の文章で気づかず使っていたということに気づいてちょっと驚いている。数年前に読んで、読み直していない文章なのに私の中に残っていたのか。偶然か?
 あとenterbrainが新しく創刊した「fellows!」という雑誌も購入。これは帯の森薫入江亜季雁須磨子の名前を認めたからなのだけど、あれ、入江亜季の連載、次号から!? 森薫乙嫁語り」。舞台は19世紀の中央アジア。遊牧の民(なのかな?ちょっと今回を読んだだけではよくわからない)に嫁いだ女性アミル・ハルガルを主人公にした話。さすがは森薫で衣装がすばらしい。あとは表情の描き方。表情の微細な描き分けでコマをつなげるそのやり方(例えばp19とかp41)。あとは躍動感のある場面の描き方(例えばp25〜p29までのアミルが兎を取る場面。この躍動感は鳥肌もの)。これは傑作になる予感。


 もう二週間ほど前の話になってしまうのだけど、古川日出男岸本佐知子トークショーを観にいく。はじめて見たけれど、友人がいっていたとおり岸本佐知子は綺麗な人だった。古川がケリー・リンクを意識していると言っていて驚く。そうかあの想像力というか物語は古川を刺激するものがあるのか。「東北弁」の中に明治時代につくられた「翻訳語」を入れるとおかしくなる、という古川の言葉は非常に面白かった。「東北弁」だけでは、ある「知的」な言説になりえない。だけど「東北弁」を使うことで「知的」なもの以前のなにか(それを古川は「けもの」という言葉で表していた。けもの、ケモノ、獣、化物)を顕現できるのではと言う。その上で古川は、この作品の中で「東北弁」を捏造しているという事に非常に自覚的だった(「標準東北弁」とでもいえる言葉の捏造)。
 書かれたもの、書くという行為、書記体系、あるいは文字そのものが仮に暴力性を帯びた「権力的」なものだとすれば(それは様々な差異を一つにするという意味において。無数の音を一つの音韻体系に縛り付ける。しかしその暴力がなければ我々はおそらく言葉を持たなかった。原初にあった暴力)、それに対置される「語る」という行為が示すもの。それは中央集権的な権力性を解体(解毒?)し拡散させるものだといってしまいたいところだけど、しかしながらここにあるものは小説なのだな。語られているかのように書かれたことば。語りを模倣する行為。予め敗北を宿命付けられた行為。
 ところで『聖家族』は「体系化された暴力」=「武術」についての記述に溢れている(これも一つの釣り餌なのかもしれず、そして私は釣られる)。武術。流派。古川が『ベルカ、吠えないのか?』で犬の系譜を描くことで書いたこと、『ロックンロール七部作』でロックの歴史を語ることで書いたこと、そして今回の『聖家族』で東北に流れる(東北が腹蔵する?)武術を描くことで書いたこと。これらには何かとても近いものを感じてしまう。それが何かはわからないのだけど直感的には(畸形的に)分列しながらどこまでも増殖してゆくものの謂。つまり生命? そういう意味でトークショーで古川が「ライバルはサグラダ・ファミリア」「生命の肯定に向かいたい」という発言をしていたのに通ずるように思える。そして「言語」。言語は音の差異を隠蔽する装置として機能する(しかし忘れてはならないのはここで差異として認識されるものは言語の発生と同時に生まれているということ。発生と隠蔽。物事が生まれるとき、常に起きている転倒)。会話時に個々人の発話における音の高低、声質、音量が異なるにも関わらず、同一言語内ではそれらは差異として感じられず、ことばとして流通する。文字においてもそれは同じで、どのような道具、素材を用いて書いたとしても、それが「同じ」字であるならば「同じ」字として機能する。「大」と「犬」の違いは右上に「ヽ」が打たれているかどうかの違いでしかない。「大」を紙に書こうが、こうして画面上に書こうが、鉛筆で書こうが、筆で書こうが、子供が書こうが、大人が書こうが、それが「大」であるならば「大」として機能する。非関与的な差異と関与的な差異。そして武術もまた個々の人間の動きの差異を隠蔽する装置として機能する。動きに流派としての意味を与え、同時に個々人の一回性の動きの意味を剥奪する。そのシステムを流派では「型」というのではないか。

 今これを書いていて、ふと、宮沢章夫トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー〔新装版〕』の解説に寄せていた文章を思いだした。

ひたすら走るロードランナーの姿にはきわめて機能的な美しさがある。醒めた笑いがある。感傷などと無縁なその走りの姿には、「ぼくらが真に生きている、深層の、いっそう共有されている次元の人生にあって……」を見つめるのに必要な鋭利な視線が存在する。なぜなら、「本物」を見いだすピンチョンの目がとらえるのは、ロードランナーにも似た、速度の内側から見た世界像だからだ。ぼんやり植物のように立っている私には見えない。『V.』や『重力の虹』をはじめとする長編作品を難解だと感じるとしてもしょうがない。なにしろそれは、速度の内側から見た世界だ。

「速度の内側から見た世界」(トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー〔新装版〕』(ちくま文庫)所収 p317)

 「速度の内側から見た世界」

 記録された「歴史」という時間の流れを外側から描くのではなく(いや一部ではその方法を使っているのだけど。記録を利用した文章と、語りによる文章の鬩ぎあいもこの小説の魅力だと思う。トークショーで古川は前者を「この小説をわかりやすくするため」といっていたように記憶している。気のせいかもしれない)、「歴史」を反復的に(あるいは強迫的に)語るそのつど、語る人物が語られるその「歴史」を生きなおしているように見えるこのことばの連なりは、宮沢章夫の言葉を借りれば「歴史の内側から見た世界」を描いているのでは、とも思ってしまう。
そしてこの小説の照射する範囲は恐ろしく広いと思う。単純に「日本」を相対化するというところだけから見ても赤坂憲雄の提唱する「東北学」との親和性。技法的な、語りの話法だけで見ても、もしかすると古川は新しい文体を創っているのかもしれない。語り方といえば「聖兄弟・2」は山形、という連想だけから阿部和重シンセミア』を思いだしてしまったのだけど、「聖兄弟・2」の最後で描かれるまるでそれは粉塵爆発のように連鎖する視点人物の目まぐるしい移り変わりは「山形」とかなんかそういうのを抜きにしても『シンセミア』を彷彿させる。した。

 トークショーが終わったあと、古川のサイン会になる。暫くして私の番になる。サインをもらいながら気になっていた事を聞いてみる。それは取材で東北を廻っている時、ある流名を耳にしなかったかという事。

 私は15歳の頃から上京するまでの数年間、地元に伝わる古い武術を習っていた。流名を諸賞流和*2*3という。この流派は柔術諸流が基本的に投げや関節技などを表看板にしているのに対し、当身(打撃)で知られる珍しい流派だった。ちなみに東北にはもう一つ打撃で知られる、柳生心眼流という流派がある。これは『聖家族』にもちらりと名が見える。
 諸賞流は流派の中興の祖として坂上田村麻呂の名をあげる。坂上田村麻呂征夷大将軍。私はこの流派を習っていた頃、いや、この流派のことを知ったときから奇妙な感じがしていた。征夷大将軍とは名の通り蝦夷を打ち殺したものの大将。そしてその蝦夷とはかつてこの地に暮らしていた人々。恐らく私の抱いていた違和感とは、蝦夷にとっては不倶戴天の敵ともいえる人間を祖に抱く流派が、かつて蝦夷が暮らしていた場所で延々と続いているというその事実、この奇妙なねじれにだったのだと思う。東北と武。蝦夷に対する暴力。鹿島・香取の神。防人。鹿島の太刀。蝦夷の暴力。鉄。舞草刀。馬。連想はどこまでも続く(そういえばいわゆる「蝦夷」と「日本人(大和人?)」はどのようにして会話を成立させたのだろうか。同じ言葉を用いていたのだろうか。違う言葉を用いていたとしたら通訳がいたのだろうか。俘囚はどのようにして管理されていたのだろうか。佐伯部。武力集団。「中央」に点々と存在するノイズ。東北に隠された武の技術の発見。「6」という聖数。頭・胴体・両腕・両足の数。108という急所。6の倍数。兄弟は隠された技術を見つけるため東北6県を彷徨う)。
 サインを貰いながら、そういう流派が東北に残っていて、というような話をしたところ、古川は取材中、裏の技として打撃を含む柔術(剣術だったかもしれない)の流派の話しを聞いたとか、(確か)青森の方で坂上田村麻呂の名前に関係する流派の名前を聞いたような気がする、というような事を教えてくれた。他に私は隠し念仏の話もふりたかったのだけど、さすがに時間がなくて断念。残念。

 そしてしみじみ思ったことには『聖家族』は『修羅の刻』に接続したくなる誘惑に溢れているなぁという事。誰か語ってくれんものか。トークショー終了後、興奮冷めやらぬまま穴八幡で行われていた古本市に立ち寄り探していた本を何冊か見つける。そういえば穴八幡の古本市、大学に入った時から毎年来ているのなと思い、計算してみたらもう10年連続で来ている!とわかり軽くショックを受ける。その後、友人を呼びだしお酒を飲みながら上のような事を言おうとしたらうまく言えずもがもがしていると「とりあえず君が興奮していることはよくわかった」と言われた。伝わった。

*1:本当にどうでもいいのだけれど、この「カリギュラ」ということば。「DANZEN! ふたりはプリキュア」の最初の「プリキュアプリキュア」のところに入れて呟くと耳にこびりつく。カッリギュラ、カッリギュラ……

*2:遠祖を藤原鎌足、流祖を坂上田村麻呂としている。名前も狐伝流、夢想観世流とそれぞれ変わり諸賞流となったのは夢想観世流27代毛利宇平太国友からだという。それぞれの名前の由来として狐伝流とは大化の改新直前に藤原鎌足が夢中で狐より一振りの鎌を授けられそれを用いて蘇我を打ち倒した事に由来するという。その後しばらくこの流派は絶え、平安時代に入り坂上田村麻呂蝦夷征伐において清水観世音菩薩に祈願し夢想のうちに伝えられた和の術を夢想観世流と称したという。鎌倉時代に入り、源頼朝が幕府を開いたとき、朝廷の勅旨を饗応するために角力(相撲)会を催した。各地から強者を集め、諸侯達は自慢の郎党を出場させたのだけど、その中を、城太郎という者が進めた法師相撲が勝ち進んだ。それに対し周防前司の郎党である毛利宇平太国友が小兵ながら観世流の技を持ってこれに勝ち、それを見た頼朝や諸侯が賞賛したため、これ以後、諸(侯が)賞(賛した)流派として諸賞流和と名乗るようになったという。その後、岡武兵衛庸重が47代を継承し寛文年間に盛岡(南部藩)に伝えた。岡には三人の高弟がいて後にそれぞれ一派を立てる。つまり南部藩には三つの諸賞流が存在していたことになる。このうち、第一の高弟である熊谷治右エ門、及び第三の高弟永田進の流儀は明治中頃に途絶え、現在伝承されているのは第二の高弟である中館判之亟の流れを汲む。諸賞流では中位の位までを『諸賞流』、免許の位までを『夢想観世流』、印可の位までを『狐伝流』、そして印可皆伝の位を『観世的真諸賞要眼狐伝流』と呼ぶ。技法の特徴としては、現存する柔術の中では珍しい当身(打撃)中心の流派である事と、一つの型が五段階に変化するという事があげられる。諸賞流では座して行う型を『小具足』、立って行う型を『立合』と呼び、その型の中で主に肘と足を用いた当身や、指を用いた(といっても貫手―いわゆる指を目に付き入れるもの―ではなく手首のスナップを効かせ、裏拳の要領で指を用い目を狙う)目潰しなどを稽古する。この『小具足』『立合』の基本的な型を『表』と呼び、一般的な当身や逆手を用いた捕手を教える。その後『表』の型を受身その他を用いて逃れ反撃する型として『解(ほぐれ)』、打撃を中心とした型である『裏』を学び、さらにその上に『変手(へんて)』と呼ばれる関節技を用い一瞬で相手を極める型、そして急所への打撃その他で一瞬で相手を倒す『手詰(てづまり)』という型を稽古する。つまり『表』→『解』→『裏』→『変手』→『手詰』と、同じ型が五段階に変化していくというシステムを形成している。それに加え空転受身を行う『投げの型』や、鎧を着て行う『組討』の型などの他、現在は無辺流棒・薙刀術、及び諸賞流別伝縄術を併せ伝承している。ちなみに、現存する諸賞流は岩手県盛岡市に伝わるものと同県の山田町に伝わるものがあるけれど、昭和初期(?)に各地の道場を尋ね回っていたという人の話によれば、山口県の下関でも諸賞流が行われていたという。しかし、この諸賞流は昭和の中頃までには途絶えてしまったようである(「諸賞流は盛岡藩外不出としてあつたが、此れは盛岡にばかりあつたものでは勿論ない、岡庸重が石田定政から免状された様に、この系統が他にあつた筈だ。三十年ばかり前に、鳥取県の岡田某と言う人が各地の道場を尋ねて廻つておるとて、当地に来たことがあつたが、其の時の話では、下ノ関に諸賞流があると話して行つたが、今は既に絶滅してしまつた様だ。」米内包方『盛岡藩改訂増補古武道史』p197〜198)。

*3:ちなみに源頼朝云々の話、諸賞流免許伝巻物では「今日於幕府相撲上覧其中有法師相撲城太郎所進也此相手周防前司召進宇平太也何方可勝哉由有御恩召及晩相撲十七番雌雄被決件之法師負男訖諸将感嘆爾後改観世流称諸賞流旨申渡宇平太国友拝授而謹候」(米内包方『盛岡藩改訂増補古武道史』p193)とあり、大意は前述の通りなのだけど、個人的には流儀の発生を説明するための説話かと思っていたら『吾妻鏡脱漏(東鏡脱漏)』を見ていたら嘉録3年(1227)3月のところに「廿七日丙子鋤X 大進僧都寛基陸奥國葛岡郡小林新熊野社拝領之間殊興行社務者是御祈祷賞云云今日於幕府相撲御覧其中有法師相撲一人城太郎所進也此相手周防前司召進男字平太也而相構可令勝於男之由將軍竊被仰合籐内左衛門尉定員陰陽師散位鋤X賢雅樂助鋤X貞散位重宗散位道継等被召之一男二法師何方可勝哉之由有御占各以午刻占申以一可勝之由鋤X賢申之鋤X貞一可勝云云重申可爲持云云道継二可勝之由申之及晩相撲十七番雌雄被决之件法師負于男訖」(3月27日 丙子 鋤X 大進僧都寛基陸奥の國葛岡郡小林新熊野社を拝領する之間、殊に社務を興行する者は是御祈祷の賞と。今日、幕府に於いて相撲を御覧。其の中に法師相撲一人有り。城太郎が進むる所也。此の相手は周防前司が召し進むる男あざなは平太也。而るに相構えて男に於勝たしむべきの由、将軍ひそかに籐内左衛門尉定員に仰せ合せ、陰陽師散位鋤X賢、雅樂助鋤X貞、散位重宗、散位道継らがこれを召被る。一は男、二は法師、何方勝つべしやのよし御占い有り。それぞれ午刻を以て占い申す。一勝つべしの由を以て鋤X賢これを申す。鋤X貞、一勝つべしと云う。重宗、持ちたるべしと申す。道継、二勝つべしの由を申す。晩に及びて、相撲十七番雌雄之を决せ被る。件の法師ここに男に負けをわんぬ)という文章があり、若干の違いはあるけれど(例えば伝承で「毛利宇平太国友」としているところを『吾妻鏡』では「字平太」として「平太」という名前だとしているところなど)、これを基にして話を作ったのかなと。いや、歴史というか伝承を換骨奪胎して狐伝流、観世流、諸賞流それぞれの縁起をうまく作ったんだなと驚いた。

一般に旬は秋だといわれるが冬に喰ってもカボチャはうまい

 『リバーズ・エッジ』の終盤に「この街は悪疫のときにあって」ではじまる、とても、とても素敵な詩がある。作者はウィリアム・ギブスン。そうあのサイバーでパンクなSF作家のウィリアム・ギブスン。『リバーズ・エッジ』を読むまで、彼が詩を書いていたと知らず、いやそもそもそこに引用された詩とギブスンという名前が、あのギブスンと繋がらず、友人に教えられて驚いたことを覚えている。その後、ネット上にあった(ある)「八本脚の蝶」で、この詩には三つのパートがあるということ、詩集があるわけではなくロバート・ロンゴという人の写真集に収録されているということ、その本は京都書院という版元からでていたということ、などを知り、読んでみたいとは思ったものの、版元は倒産し、現在は手に入らない、というようなことが書かれていた。ただ幸いなことに「八本脚の蝶」に三つのパートすべての和訳が引用されていて*1、それを読み満足していた。さて、それから幾数年。京都書院のサイトで在庫がある商品を販売している、ということを知ったのだけど、なんとなく、この写真集はもうないものだと思っていた。それがつい最近、別な調べものをしていて、何気なく、本当に何気なく、そういえばロバート・ロンゴの写真集、ネットの古本屋さんででも売ってないかなー、と色々検索してみたら、まだ京都書院のサイトで扱っている、というような情報を見た。まさかいやでももしかしたらと、半信半疑で京都書院のサイトをのぞいたところ、目録の「ArT RANDOM」というシリーズの一つに「71 Robert Longo」としてちゃんとのっている。いやでも、のっているだけかもと(なんでこう疑りぶかいのか)、おそるおそる在庫照会のメールをだしたところ、「在庫あり」との返事が来る。たまげた。おまけに、数日して到着した写真集には月岡芳年の素敵な絵はがきまでついていた。
 あまりにも素敵なので、全文引用します*2。ちなみに原文では最初のパートは見開きのページの左側に英文、右側に和訳。二つ目のパートは見開きの左側だけに英文と和訳が、三つ目のパートは見開きの右側だけに英文と和訳がのっている。

I.

UNDER THE LIGHTS 明かりの下

MACHINE DREAMS マシーンが夢見る

I REMEMBER 覚えている

THE CROWD 雑踏を

SHIBUYA 渋谷
TIMESQUARE タイムスクェア
PICADILLY ピカデリー

I REMEMBER 憶えている

A PARKED CAR 駐車場の自転車
AN ARENA OF GRASS 草の競技場
A FOUNTAIN STAINED WITH EARTH 土に汚れた噴水

IN THE SLOW FALL TO DAWN 夜明けへとゆるやかに落ちていく中

IN THE ARMS OF THE BELOVED 愛する人の腕の中

REMEMBERED 想い出される

ALONGSIDE NIGHT 夜に沿って
IN THE HYATT CAVES ハイアットの洞穴の中
IN THE HALF-LIFE OF AIRPORTS 空港の半減期の中
IN THE HOUR OF THE HALOGEN ハロゲン狼の
WOLVES 刻の中

THE HOUR REMEMBERED 想い出される刻

IN RADIO SILENCE ラジオの沈黙の中

RADIO SILENCE ラジオの沈黙
RADIO SILENCE ラジオの沈黙
RADIO SILENCE ラジオの沈黙

II.

IT'S ONLY THE HISTORY OF THE たかがミステリの歴史
MYSTERY たかが人間がどう迷うか、
IT'S ONLY HOW PEOPLE GO LOST, だろうが
ISN'T IT? ただ、どうしても迷うのさ、
ONLY THEY DO GO LOST, ACTUALLY 現に
IN ANY CITY AT ALL どこの街だろうと、

IT'S ONLY THE FLOW OF THINGS たかが物事の流れ
ONLY THE CROWD AT THE ただの
INTERESCTION 交差点の雑踏
ONLY THE RAIN ON THE PAVEMENT ただの歩道に落ちる雨
THAT'S ONLY THE HISTORY OF IT それが歴史というにすぎない
REALLY 実際

MY FATHER WENT LOST THAT WAY 父はそうして迷った
MY MOTHER TOO 母も同じ
MOTEHRS DO REALLY, IN THE WAY 母というのは
OF THINGS 実際そういうもの、
IN THE WAY OF THE MYSTERY I 物事のありかたとして
MEAN ミステリのありかたとして、
BUT GIRLS GO LOST IN THE DARK ということ 
PARK でも狼たちも暗い公園で迷う
BOYS TOO 坊やたちも同じ
THAT'S ANOTHER WAY これは別のありかた

DOWN ALL THESE DAYS 近頃の落ちかた

III.

THIS CITY この街は
IN PLAGUE-TIME 悪疫のときにあって
KNEW OUR BRIEF ETERNITY 僕らの短い永遠を知っていた

OUR BRIEF ETERNITY 僕らの短い永遠

OUR LOVE 僕らの愛

OUR LOVE KNEW 僕らの愛は知っていた
THE BLANK WALLS AT STREET 街場レヴェルの
LEVEL のっぺりした壁を

OUR LOVE KNEW 僕らの愛は知っていた
THE FREQUENCY OF SILENCE 沈黙の周波数を

OUR LOVE KNEW 僕らの愛は知っていた
THE FLAT FIELD 平坦な戦場を

WE BECAME FIELD OPERATORS 僕らは現場担当者になった
WE SOUGHT TO DECODE THE 格子を
LATTICES 解読しようとした

TO PHASE-SHIFT TO NEW 相転移して新たな
ALIGNMENTS 配置になるために

TO PATROL THE DEEP FAULTS 深い亀裂をパトロールするために

TO MAP THE FLOW 流れをマップするために

LOOK AT THE LEAVES 落ち葉をみるがいい
HOW THEY CIRCLE 枯れた噴水を
IN THE DRY FOUNTAIN めぐること

HOW WE SURVIVE 平坦な戦場で
IN THE FLAT FIELD 僕らが生き延びること


THE BELOVED (VOICES FOR THREE HEADS) 愛する人(みっつの頭のための声)
BY WILLIAM GIBSON ウイリアム・ギブスン 黒丸尚 訳

ROBERT RONGO: KYOTO SHOIN, 1991

 『リバーズ・エッジ』で引用されているのは三つ目の和訳。こうして英文の方を見てみると、やはり韻の踏み方が心地良いなぁ。「IN THE HYATT CAVES」「IN THE HALF-LIFE OF AIRPORTS」「IN THE HOUR OF THE HALOGEN WOLVES」の、H音の繰り返し、「CAVES」から「WOLVES」への音の移り方とか、「IT'S ONLY THE HISTORY OF THE MYSTERY」のO音の連なりと、口ずさんだときの丸くころころ転がる感じとか、あ、「THAT'S ANOTHER WAY」「DOWN ALL THESE DAYS」の対句を「これは別のありかた」「近頃の落ちかた」と訳したのはカッコいいなー。口ずさんでみると「これは別のありかた」で一拍置いて、すっと、「近頃の落ちかた」と終わるその感じがとても良い。この二つの句の間の沈黙が心地良い。「RADIO SILENCE」のくり返しが、視覚的に「IN THE SLOW FALL TO DAWN」のゆるやかに落ちてゆく感じに対応していているようで見ていて気持ちよいなー。あとは「OUR LOVE KNEW」の繰り返しを口ずさんでみると、「I LOVE YOU」と聞こえてきて、なんか、こう、恥ずかしくなったり。

 この三つの詩を通して、「夢」を見ているのは、最初にでてくる「マシーン」なのだろうか。いやそもそも、この三つの詩が一繋がりの夢なのかどうかもわからないのだけど、全てが終わってしまったところから、みているような、それは朽ち錆びたマシーンが一瞬の間に見ている夢なのではないか、とも読めて楽しい。楽しいのでそう読むとしたら、最初の詩の視点になっているのは、夢を見ているマシーンなのだろうか。夢見るマシーンがI=eyeになる? というか私ははじめこれを読んだ時、人間の記憶をもったマシーンの物語として読んでしまった。人間であった時の記憶をかすかに持つマシーンが雨ざらしになり壊れてゆく中で最後に見ている夢として。薄皮がむけるように次から次へと記憶が噴きだしてくる感じ。なんというか、「平坦な戦場」からぬけだしてしまった末期というか。イメージとしてはマルドゥック・ヴェロシティのボイルド(マシーンちゃうけど似たようなもんだし)。

 抽象化された街。
 「僕ら」は現場=「平坦な戦場(THE FLAT FIELD)」に降りたつ。生き延びるために注意深くなる。「深い亀裂をパトロール」し、「流れをマップ」する。日常の範囲を定め意識的にその中で生きようとする。
 始め読んだとき私は「相転移して新たな配置になるために」を「平坦な戦場」から抜けだすために、という風に読み替えてしまった。で、そうすると「平坦な戦場」には外側があるということになってしまうのだけど、それはどのような世界なのだろう。何か「本当の」「いきいきした」「あるべき」世界なのだろうか。でも、そもそものはじまりとして「平坦な戦場」とは、そういった何か「本当の世界」がある、という事の断念なり諦念、から生まれた意識なのではないかと思うのだけど。で、こっからは物凄い飛躍になるのだけど、私は上で書いたように、一読した時、これを人間であった時の記憶をかすかに持つマシーンが壊れてゆく中で見ている夢、として読んでしまったのだけど、そのマシーンとは「平坦な戦場」(それはつまり日常の謂いだ)を生きることに耐えらず、そこから抜けだしてしまった結果なってしまったものであり、そのようなものが最後に見る夢、として詩全体を味わってしまったというか。

 「永遠」とは、本来超時間的、というか、時間という概念を超えたところにでてくるものだろうと思うので、すると「短い」という言葉で限定された「永遠」とはそれ自体、ありえないものとなるかと思うのだけど、にもかかわらず、何というか、この言葉には、暴力的なまでのリアリティを感じてしまう。そう「短い永遠」なのだ。ある一瞬が「永遠」につづくように感じるときがある。それは例えば「夜明けへとゆるやかに落ちていく中」=「愛する人の腕の中」にいるとき。人はその一瞬が「永遠に」つづくような感覚に襲われる。だけど同時に「僕らの愛」は知っている。この、「永遠」にも感じられる瞬間が、一瞬でしかないことを。すぐに砕けることを。そして、その一瞬に留まりながら夢見るマシーンは壊れてゆくのではないか、「平坦な戦場」にとどまり、そこで「生き延びる」方法を考えるべきだった、という悔恨を抱えながら……という風には、読めないかなぁ。そうすると、「流れをマップするために」までは夢の中での過去の回想で、「落ち葉をみるがいい」からはリアルタイムでの夢の進行の中での意識(って変な言い方か?)で、何というか、僕らは日常が平坦な戦場だっていうことを知っていて、そこから脱けだそうと色々やってどうにか脱けだしたけど、あれだな、もうちょっとその日常でふんばってみてもよかったかもな、というような感じで夢をみているように読め……ないかなぁと思ったのだけど、冷静に読んでみるに読めないな。
 普通に読めば、主体的に日常を選びその中で生きようとした、という話になる。残念。「相転移して新たな配置になるため」の手段として「深い亀裂をパトロール」したり「流れをマップ」したりしていれば無理な解釈もできなくはないのだけど、文法的にこれらは同格だしなぁ。だから本来的な意味は私の最初の読みとは逆で、日常から非日常への脱出を試み失敗したという物語ではなく、日常を選び取りそこで主体的に生きていく諦念みたいな物語になるわけなのだな、多分。
 ああ、でも、落ちてゆく中で落ちる自分をみて、さらにその中で落ちる自分をみて、さらにその中で落ちる自分をみて……というのは一種の永遠か。無限退行。素敵だ。

 それはそれとして、実際問題、平坦な戦場でサヴァイブするためにはどうしたらよいものだろうか。あるかもしれない外側を志向するのでもなく、安易な決断主義に走るのでもなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、ならばいっそと開き直って限られたパイを貪ろうとするのでもなく、それぞれの場所で、ただ「生き延びる」ためには、いや、本当にどうしたらよいものなのだろうか。

 そういえば気になっていた事を思いだした。「BUT GIRLS GO LOST IN THE DARK PARK」の「GIRLS」がどうして「狼」と訳されているのか、よくわからん。私の英語力が拙いのはもうどうしようもないので、黙殺するとして、それにしても、何故「GIRLS」が「狼」になるのだろう? 普通に「娘」とかじゃ駄目だったのだろうか? 「BOYS」を「坊や」と訳している対比で考えて、ただの「娘」ではなく、「坊や」を誘惑して、「暗い公園」に誘いだすような奸智に長けた「女」という意味を与えたかったのだろうか? 女が男を誘惑して無明の中に誘い込むことが、「母」と「父」の迷いかたとは違う、「近頃の落ちかた」だとか? うーん、無理やりにすぎるよなー。最初見た瞬間、これって部首間違えただけじゃないのか、というか誤植?と思ったのだけど、それもまさかだしなー。ううむ。わからん。英語って難しい。


 ちなみに、日々の雑感 (tach雑記帳はてな版) さんがこの日の文章で「HOW THEY CIRCLE IN THE DRY FOUNTAIN」と「HOW WE SURVIVE IN THE FLAT FIELD」の対句から『「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「干上がった噴水の中で風に吹かれた落ち葉が渦を巻くこと」と同じことなんですね』と喝破していて、なるほど!と思わず膝を打ってしまった。

*1:八本脚の蝶 2002年4月8日(月)

*2:うーむ。きれいに字組みができない……。