白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間(葛原妙子) 

 アスファルトが溶けだしそうな暑さの中、街をあるいていたらふとこの歌を思いだす。別に夏の歌だというわけではないと思うのだけど、夏のあの大気がゆらめく中でもの皆白く輝いているような眩暈のするようなそんな一瞬に、すっと地上から伸びた階段。時間の流れを止めるような、あるいは時間を結晶化させるような不思議な力を持つ歌。

 偶然にすぎないのだけれどここ数ヶ月で『福家堂本舗』→『からん』→『宵山万華鏡』というように京都を舞台にした物語に連続的に触れている。

 森見の描く京都は本当に日常と異界がゆるやかにつながっているようで、夕暮れの路地裏からふっと世界の外側に連れだされるようなある種の恐さと喜びに満ちている。『宵山万華鏡』は題名どおり宵山の一日をめぐるお話しで、お祭りの前の日のあのどきどきするような非日常感を過不足無く描いた秀作であるのだけど、それ以上に、語り手が物語の外にいるようでそれは例えばバレエ教室にかよう姉妹をはじめから終わりまで淡々とその行動を見ているようなある視線が感じられ、その視線が時には本を読む私の視線と一体化しある時は自在に姉妹の中に入りこんだかと思うと次の瞬間にはカメラがすっと引かれるように大きく視点を移動させるその動きにどきどきする感じが読んでいてたまらない。二乗化される視線の運動の喜び。作中の人物の「これは世界の外側にある玉だそうです。今夜の我々はね、この玉で覗かれた世界の中にいるんです」という言葉を思い起こすと、万華鏡の中のきらきらと輝く硝子片や色紙の欠片がくるくるとまわり次々に世界を変えてゆくその動きがすでに物語のメタファーになっていて、こちらは万華鏡を覗きこむように物語の世界をのぞきこみ「同じ」登場人物たちが織り成す世界を陶然と見ていればよい。
 それにしても本当に名詞を使った仕掛けが上手くて、例えば大坊主と舞妓、といった固有性をほどかれた名前を梃子に物語を日常から異界へとシフトさせるその技量に感服。あとは地名(というか正確には通り名というのだろうか)。三条室町、衣棚町、三条高倉、室町通六角……といった地名によって、現実の「京都」という街を強く感じさせその「現実性」に保証されながら、物語空間を描く「宵山万華鏡」が軽々と日常を飛び越えてゆく。そういえば塚本邦雄も確かその文章の中で京都の地名(通り名だったかも)を列挙して、その物語性について語っていたように記憶しているのだけど、その中に確か「天使突抜町」という地名も入っていたように覚えている。天使突抜町。なんと素敵な地名だろう。そして天使突抜町といえば私は『天使突抜町一丁目』というすてきなエッセイ集を思いだす。著者の方は通崎睦美という京都出身、京都在住のマリンバ奏者で着物の収集家としても有名な方。この方の書かれた文章を読んでいるとなんだか体がじんわりと温かくなる。知るかぎりでこの方は二冊きりしかエッセイ集をだされていないのだけど、もっとこの方のことばに触れてみたい、と思わせられる書き手。ちなみにこの地名(というか土地というか)については鷲田清一『京都の平熱』でも言及されていた。

 『からん』は、あの木村紺がこんなにも重層的な物語をつくるとは想像だにしていなかったのでとても驚く。比嘉という少女が『神戸在住』での辰的なポジションにいるように見える。『神戸在住』でのやり方を思うと、学校と家庭以外に場所を持たない「普通」の少女である比嘉を視点にして、自分とは違う「特別」な人達について語り、そこに自ずと様々な物語が生み出てくる、というようなスタイルになるかと思っていたりした。
 高瀬という少女。学校、部活、京都、祇園とそれぞれにゆるやかな関係を持ちながら閉鎖している空間。その中で、高瀬の行動を保証する人々。部活空間を保障するものとしての大石。学校空間を保障するものとしてのおばちゃん。京都空間を保障するものとしての高瀬一族と、吉見という存在。祇園空間を保障するものとしての渡部という存在。そしてこの四つの空間をつなげる存在としての高瀬という少女。高瀬という少女が主人公であるが故にこのような物語が生まれたというより、それぞれの空間を物語性を持って結節させるために要請された存在が高瀬という少女であるように思える。物語の構造的にも、また物語内においても(それはなにかまだ明確にはわからないが)ある役割を押し付けられた高瀬と、祇園という街で(おそらくは)ある役割を押し付けられた九条が、あのように互いに強く結びついてゆくのは当然に思える。

「もう安心して 私がいる 誰一人理不尽な目には遭わせん この腕の中では」(p184)
15、6歳の少女がこのような言葉を発する異様さを思うと、木村紺がこの物語でなにをしようとしているのか、ということに思いが飛んでしまいぞくぞくしてくる。守られるものから守るものへとなること。成長と責任を引き受けること。
「わし 関係あれへん」(p179) という言葉に対する高瀬の過剰とも見える反応。この反応に私は二通りの意味を感じた。一つはその前に置かれた「しゃーけど チビの連れとった あの男 アレ カタギ ちゃうぞ」(p179)という、左近をカタギではないと見る大石の言葉に対して、文字通り「どうして そう思うん ですか?」(p179)(=どのような根拠で、左近をカタギではないと判じたのか)という純粋な疑問。 二つ目は何故「関係あれへん」と思うのか、という反問。柔道部の主将であり、先輩として、「守るべきもの」であるはずの後輩に対して、何故「関係あれへん」という言葉を吐けるのか、という怒りのまじった反応。この間のコマでの高瀬の表情を見ていると、おそらく、この二つの、つまり、何故左近をカタギでないと思うのか、という疑問と、大石の「無責任」とも取れる反応に対する困惑と僅かな怒りの入り混じったものとしての「どうして そう思うん ですか?」という言葉だとは思うのだけど、ここでp17での「出場登録だけ確保できたら用済みの部活動やけど ま ヒマつぶしにはなんな」と大石が独白する場面を思い出すと、大石のこの「身勝手さ」に対して、「守るもの」を志向する高瀬がいずれぶつかるのではないかと思い、そうすると、そのぶつかりを予期させるようなこの場面で、おそらく偶然にとはいえ「あっ」という台詞でこの二人のぶつかりあいを解消してしまった、比嘉という少女。ここに、対立に対する怯えというか、人と人がぶつかり合うことに対する過敏ともいえる感受性を見るのは、さすがに深読みだろうとは思うものの、病気を持ったもの(この場合は喘息。p131の強調の仕方もなんだか気になる)が、周りの人間の感情の流れに敏感になる、という物語上の定型を思い、さらには、小学校の頃、九条を「見ている」だけの存在だったことに対する悔恨を表す場面を見ると、この比嘉という少女が実は、非常に「見る」立場にいる人物なのではないか、とも思ってしまい、それが今後、どのように描かれるのか興味津々。


 最近読んだ中で思わず唸ってしまった「小説」論というか「小説」をめぐる言葉。

 そして、それは小説の概念にも再考を促すはずだ。作者は、当たり前のように、虚構の人物を仮構し、虚構の物語を仮構する。さらには虚構の告白が仮構される。それが「私」であるのか、そうでないのかは大きな問題ではない。しかし、そうした行為は、自らが無意識に生きている歴史を縮小再生産するものでしかないだろう。このような文学の型(タイプ)、近代という時代そのものを体現した文学の型はもはや有効ではない。
 事実を解釈し、その解釈から再構築された歴史。繊細で重層的な解釈の網の目から立ち上がってくる物語。それこそがフィクションの名にふさわしい。そこではもはや現実と想像、さらには批評と小説の間に区別をつけることなどできはしないであろう。書くという行為の根源にあるのは、そのようなフィクションへの意思、歴史への意思に他ならない。折口信夫が、釈迢空という名で、短歌、小説、詩というジャンルを横断しながら、実践してきたことである。

安藤礼二『霊獣「死者の書」完結篇』p166