私とかかわる人達の中にその数だけ「私」が存在するという恐怖

 後出しじゃんけんのような話でまことに恐縮ではあるのだが、中村明日美子ダブルミンツ』(茜新社)を読んでいて、これは名前をめぐる物語ではないのかと思っていたら、あとがきでそのようなことが書かれていて、普段は「いやいや物語と作者は別物ですよ。作者の言葉が物語の解釈に影響を及ぼすことはあってもそれが全てだなんて考えるなんて、いや、そんな」などと嘯いているくせに、いざこういうことがあると、「ひゃっほー当たり当たり」とか思うのはあれだな、何だか卑しいなと思って微妙に凹む。
 同じく買ったヤマシタトモコ『ジュテーム、カフェ・ノワール』(フロンティアワークス)は表題作の「ジュテーム、カフェ・ノワール」が特に良かった。2人の従業員と3組の客がいるカフェを舞台にしたショートストーリ。一組は男女の友人同士、一組はゲイとノンケの男、一組は待ち合わせの相手が来ず携帯で話している女。たまたま同じ場所に居合わせたこの3組の客と2人の従業員の物語に、私は青年団の舞台を連想してしまった。というかこれ青年団の方法で舞台でやって欲しいな。
 マンガはどうしてもコマとして焦点化されることによって中心ができてしまい(「現実」であればその焦点化された場所以外でもなにかが起こっている)、そこを見ることを(あるいは世界をそのように見ることを)「強制」されるわけで、当然それはこの「ジュテーム、カフェ・ノワール」でもそうではあるのだけど、微かに空間の膨らみを感じる(つまり、コマの外でも、同じ時空間の中でなにかが起こっているような気配がある)。もちろんそれは事後的に私の脳内で変換された錯覚でしかなく、紙面にはコマとしての絵しか存在しないわけだけど、それが読まれることによって、読んだ私の中で時間と空間の膨らみを持って物語が立ちあらわれてくるというこの不思議な快楽。読んでいてぞくぞくしてくる。
 私が青年団の舞台に奇妙に惹かれるのは、小説やマンガのような線状化された時間ではなく、広がりを持つ空間内での同時多発的な出来事、複数の旋律を(直接的に)感じることが出来るからなのではないかと思っているのだけど、それは日常でも別に良いわけで。というか日常を模倣したものが青年団の舞台だとしたら別に日常があれば青年団を見る必要はないのではないかと思うものの別にそういうものでもないようなのは、恐らく作為無くあるものをいかに作為によってつくるか、という緊張感というか美しさに惹かれているからなのではないか。あるいは私が決して存在しない世界に安らぎを覚えるからなのかもしれないと思うものの、仮にそうだとして、何故そのような世界に安らぎを覚えなければならないのだろうか、ねえ、どう思う、と友人にメールしたところ「早く寝ろ」との返事が来る。友人の答えはいつも正しい。

 複数の旋律といえば岡井隆『注解する者』(思潮社)を読んでいたら頭がクラクラしてくる。紙面から水に波紋が生じる音と色が浮きでてくるような、寝入りばなに見る夢のように耳に入る音と湧きでるイメージの奇妙なアマルガムが30字×15行の紙面に納まらぬ言葉として飛び跳ねている蠢いている。言葉が言葉を呼ぶ。呼ばれた言葉がまた違う言葉を呼び連れてくる。運動に巻き込まれ私は言葉を仲介する者となる。

 植芝理一謎の彼女X』(講談社)の5巻がでていたので小躍りして購入。喫茶店で読んでいたら途中何度も動悸と息切れが激しくなり、適宜休憩をはさみつつどうにか読み終える。とりあえず我々は『謎の彼女X』という作品がある今の世に生まれたことに感謝すべきだと思った。
 この作者にはちょっとした思いでがある。大学に入りたての頃、同じサークルに植芝理一の作品をとても好んでいる女の子がいた。後に友人になるその娘に植芝理一という名前を教えてもらい、勧められるままに『ディスコミュニケーション』という奇妙なタイトルの本を手に取り、そしてその日のうちに全巻買いに走っていた。物語前半のまだ流れが定まりきらない様子と、にもかかわらず(それだからこそ?)描かれる濃密な世界にどうしようもなく惹かれた事を昨日のように思いだせる。その後しばらくしてだったか、あるいはそれより前だったか、私に植芝理一の事を教えてくれたその娘が興奮した様子で言った。「植芝理一って今でもサークルの部室に普通に来るらしいよ!私会いにいってくる!」そういえば結局彼女は植芝理一に会えたのだろうか。そんな友人が今では漫画家(のタマゴ?)として頑張っている事を思うと過ぎた月日にくらくらと眩暈を覚えてしまう。思えば遠くに来たもんだ。