誤植に爆笑。

 スーザン・ブラックモア 山形浩生/守岡桜 訳『「意識」を語る』(NTT出版)を読んでいる。「意識」とはなにか、という問題についてのインタビュー集。でてくる顔ぶれは、哲学者から数学者から精神科医がいるかと思えば生物学者もいるという多彩さ。で、いや、これ内容も無茶苦茶面白いのだけど、それとは別に物凄い誤植があって、電車で笑い死にしそうになる。
 まずはこれ。動物に「意識」はあるのか、という問題についてクリストフ・コッホとの会話。サルを例にとって、サルと人間は永い時間同じような進化過程を経て、似たような脳を持っているからには、サルにも意識はあるだろうというクリストフ・コッホのその発言。

さて、サルはわたしより少しばかり毛深くて外見もちょっと違うし言葉は話さないが、似たような脳を持ち、ここ一三〇〇年を除けば同じ進化過程をたどっている。もしサルに同じ視覚試験をやらせたなら、典型的な大学生被験者とよく似た行動をとる。サルの脳から小さな一ミリ四方の立方体をとったとしても、それをヒトの皮質の小片と区別できる人はこの星にほとんどいない。だから類推するとサルも恐らく意識があるだろう。

スーザン・ブラックモア 山形浩生/守岡桜 訳『「意識」をかたる』(NTT出版)pp183-184)

「一三〇〇年を除けば」!
 サルとヒトは進化の系統的につい1300年前にわかれたばかりなのか! 凄えよ! 大化の改新やったのもサルだよ! うきー!
 あとはこんなところ。巻末の用語集。現象学についての説明。

現象学(phenomenology)12世紀前半にドイツの哲学者フッサールが確立した哲学の一派。ハイデガーに受け継がれ、フランスの哲学者メルロ・ポンティ、サルトルらがこれに続いた」

同上 用語集p鄴

「12世紀前半」!
 現象学の歴史900年! スコラ哲学と同じような時期に現象学が生まれているよ! 凄えよ! というか12世紀ってドイツまだないじゃん!

 いや、笑った笑った。素晴らしい誤植だった。
 それはさておき、内容としては「意識」についての議論がこれほど百家争鳴というか、同じ「意識」という言葉でも使用する人によって意味があまりにも違いすぎて、よくわからないというか、結局「意識」って脳の機能なの? 外界からの情報を処理する過程で生まれるものなの? 「生まれる」って表現はおかしいの? それ以上還元不可能ななにかなの? というかなんで物理的な存在であり、その刺激-反応のプロセスが記述できる脳という物質が、「意識」なんていう主観的な経験を「生みだせる」の? いや、もうここまで「意識」の意味合いが多様にすぎると思わなかった。面白い。

 ところで、スティーブン・ラバージという人へのインタビューを読んでいたら記憶が刺激されて、昔読んだ文章を思いだす。このスティーブン・ラバージという人は明晰夢の研究者らしい。何が驚いたって明晰夢が研究されていること、研究の対象となっていることにまず驚いたのだけど、本人がいっていることは中々に面白く、ただ、やっぱり「意識」の研究の文脈で「ヨガ」とか「東洋の伝統」とか「悟り」とかいう言葉がでてくると、うーん、といきなり胡散臭げな匂いを嗅いでしまうのは如何ともし難く。

アイデンティティというのが、雪の結晶の違いのようなものだということを実感すること。われわれが個々の雪つぶで、個別の結晶形態を持っているとします。もちろん雪つぶごとに違いはあります。構造が違っていますから。そしてここで、その一粒が海に落ちようとしています。雪粒は何を恐れるでしょうか? 「自分は消滅しようとしている、自分は消滅する、消え去って、無になる」と思うかもしれない。でも実際に起きるのはひょっとしたら―そしてこれは、死や悟りのメタファーです―無限の拡張かもしれない。自分がただの凍った水の一粒ではなく、自分が水そのものであるということを思い出すのかもしれない。だからこの本質のメタファーは、別のレベルでは、形態と同時に存在しているんです。区別は消えるわけじゃない。ただそれは単なる形態でしかない。本質は統一性なんです。

同上pp198-199

というこの文章。スティーブン・ラバージは明晰夢が「悟り」の最高のメタファーだといっているのだけど、いや、あんた不立文字というか一回警策で打たれろ、と思うもここを読んでいて、こんな文章を思いだした。

第二の解脱が襲ったのはその瞬間だった。一瞬、存在するものが時間と空間を貫いて轟々と流れ行くその水面から跳ね飛ばされて、宙空に舞う一滴の雫となっていたのは僕自身だった。雪嵐の夜、僕を眺めていたあの存在もまた虚像だった。は、私よりも深い、導師が宇宙そのものである大いなる我(ソワ)と呼ぶところのものを予感したに過ぎなかったのだ。大我(ソワ)は、この谷川のように絶えることのない永遠の流れだった。小我(モワ)である私は、谷川の急流が一瞬宙空に撒き散らした無数の雫だった。私(モワ)は、一瞬の煌きの後、ふたたび果てしない流れのなかへと呑まれて行く。川は、轟々たる原子の流れに変貌していた。始原より終末へと流れ続ける原子の大河が、星々を生み、また滅ぼしていた。戦慄するほどにも壮大なこの光景のなかで、僕は老師の教えを初めて細胞の一粒一粒にまでわたって深々と体験したのだ。永劫回帰の教説の意味を……

笠井潔『サマー・アポカリプス』(創元推理文庫)p389

 この「一瞬、存在するものが時間と空間を貫いて轟々と流れ行くその水面から跳ね飛ばされて、宙空に舞う一滴の雫となっていたのは僕自身だった」という文章の捩れ具合はとても良いなと思う。ぐにゃっと。ぐにゃっと。主語と述語の対応関係の捩れが、極限的な認識状態を無理やりに言葉になおしている感じがしてここの文章にリアリティを与えているというか。良い言葉の壊れ方。

 明晰夢といえばこのあいだ、これは夢だと思い夢ならば自分の思い通りになるのでグレープフルーツが食べたいから出現させようとするのだけど思うだけでどうすればよいのかわからず、出ろー出ろーと、あの黄色い球体が目の前にあらわれるところを、手で形を作ったりもしながら必死でイメージするもいっかなあらわれず、してみるとこれは夢ではないのではないかと疑念がきざす、という夢を見たのだけれど、あれですね、こういう夢をみたあとに目覚めると現実感がぐらぐらしてちょっと恐い目覚め。眠るといえば、このあいだ、さあ寝ようかと眼をつむるも一向に眠気はおとずれず輾転すること小一時間、思えば明日は休みだしこんなに早く寝ることもないかと枕もとのスタンドのスイッチをさぐる。明かりをつけ、枕元に積んである本から手に触れたものを適当にひっぱりだす。中沢新一 夢枕獏 宮崎信也『ブッダの箱舟』(河出文庫)だった。夜具に腹這いになり一時間ほどで読み終わる。仏教を中心に、宗教、存在論、認識論、科学論などなど今は懐かしきニューアカデミズムの匂いをさせながら色々な話題を縦横無尽に話しまくるハイテンション対談(鼎談)集。とても楽しそうだ。すっかりと眼が覚めたので続いて一冊と枕元をまさぐると手に触れたのは中沢新一『リアルであること』(メタローグ)。中沢続きとは奇な事なりとこの偶然に驚くも、そういえばまだこの本、読んでいなかったなと読みだす。「一時間文庫」とあるように、確かに小一時間でさくさく読める、軽い評論っぽいものやエッセイが中心。で、読んでいるとこんな記述があった。

哲学者パスカルは、旅を好まなかった。それどころか、旅を軽蔑していたふしがある。彼は書いている「人間の精神の成熟とは、同じ部屋のなかでじっとしていて、そこで落ちついて、充実していられることをさす」。旅をして、見知らぬ土地に出かけていき、新奇な風景や風俗を見、かわった食べ物を食べ、未知の人々と出会う。それによって、心が元気になり、充実感を得る、という普通の意味での「旅の快楽」にたいして、パスカルはとても批判的だ。同じ場所にじっとしていると、退屈や不安を感じてしまい、心をリフレッシュするために、空間のなかの、別の場所に出かけていかなければ、楽しめない心などは、まだじゅうぶんに成熟してはいない、と彼は断言するのだ。

中沢新一『リアルであること』(メタローグ)pp118-119

 読んだ瞬間、「おや」と首を傾げる。これどこかで読んだ事がある。「パスカル」とあるからには『パンセ』で読んだのだろうか。いや、違う。つい最近、というか今しがた読んだような生々しい記憶がある。はて、と沈思黙考、やがて解悟。どこかで眼にした記憶があるのも道理、ついさっき読んだ『ブッダの箱舟』にあったのだ。

旅をするなんていうのは青年のやることであって、成熟した魂は同じ部屋の中でずうっといてもいい。それが最も充実した時間の中にいるわけで、知るということは青年で、成熟の魂というのは知る必要はない。

中沢新一 夢枕獏 宮崎信也『ブッダの箱舟』(河出文庫)p138

 ちなみにこれは中沢新一の発言。初出を見ると、1987年6月28日、高野山の南院においてだという。方や一方の『リアルであること』の方は1993年の1月から9月まで毎日新聞に寄せていた文章であるよう。6年の歳月を経て書かれた同じ内容の一節を、それを今、このタイミングで立て続けに読んでしまうという偶然に不思議な気持ちになると同時に、パスカル本当にこんなこと書いていたのかと気になる。少なくとも『パンセ』で見たような記憶はないのだが、通して読んだのもはるか昔なうえ、そもそも私の記憶なので全く信が置けないのでざっと読み返してみようにもどこにあるかわからないので、本棚を漁ったら奥からでてくる。愛い奴。で、ざっと読んでみたのだけど、パスカルが上記のようなことを書いている場所を見つけられなかった。その代わり、こんなところを見つける。

人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさえすれば、なにも海や、要塞の補遺線に出かけて行きはしないだろう。軍職をあんなに高い金を払って買うのも、町にじっとしているのがたまらないというだけのことからである。社交や賭事の気ばらしを求めるのも、自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことからである。

パスカル 前田陽一/油木康訳『パンセ』(中公文庫)p92

 ちょっと似ている? でもこの部分は「心の成熟」とは関係ない。単に人間の不幸は部屋の中で休んでいられないことに発する、といっているだけ。この後でパスカルは「人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、不幸なものである」(p97)と書いていて、気ばらしを求めて外へとでてゆくのが不幸の源となってはいるのだけど、そもそも人間は黙っていても倦怠に沈んでしまうような存在それ自体が不幸な存在だし気ばらしするのもしょうがないよねといっているように思えるのだけど、でもまあその後で「人間の心というものは、なんとうつろで、汚物に満ちていることだろう」と嘆き節でもって語っているので、そういう、「旅」もそのなかに含むような、気ばらしを求める人の心の運動を嫌悪していたみたいではある。それはそれとして、ここまでには「魂の成熟」について(私が見落としていないかぎり)書いてあるところは無かったと思う。あるいは『パンセ』以外の著作で書いているのだろうか。ちょっと気になる。それにしても久しぶりに読んでみて思ったことにはなんというかキリスト教が重過ぎる!