森鴎外に説教されるという夢をみる。私はいったいなにをしたのだ?

 恩田陸の作品を読んで、これは予告編ですか、本編はまだですかと思うというのは別に今にはじまった事ではないので別によいし、いま読んでいるものをあとにつづくより大きな物語の予告編として読ませてしまうところはこの作者の持ち味だとも思うのでそれもよいのだけだけれど、なんかこう不完全燃焼というか本を読んだなという感触が得られないというのはなんだかなと思いながら『ブラザー・サン シスター・ムーン』を読み終わる。
 恩田陸といえばホラー、SF、ミステリといった枠組みを上手く使って小説をつくってきた人という印象が強いのだけど、今回は「空から蛇が落ちてきたあの夏の日」をめぐる記憶(あるいは我々が共有している「学校」という場所の記憶)を推進力として物語をすすめる(記憶の技法)のだけど、既存のジャンルの枠組みを使わないぶん、読んでいる最中どうしても私小説の匂いがただようような気がすると同時に、ふと、これまで目にした恩田陸の個人史が頭にうかび、これはまるで恩田陸のまわりに「実際に」あった出来事のようではないか、いやいやあくまでも小説小説物語上の「私」と作者を混同したり、書かれてある事が「実際に」あったこと(あるもの)だなんて思ったりなんかしませんよと嘯きながらも、第一部を読み終えたときには、「大学から駅まで続く古本屋の店頭の百円均一の文庫本の灼けた背表紙」や「がらんとしたラウンジの不思議な静けさ」という風景に見覚えがあったり、「うちのサークルも含め関東の大学は、どちらかといえば評論寄りで、同人誌もほとんどが評論かエッセイ」という言葉を耳にした覚えがあったり、あまつさえ「ミステリやSF好きには有名なサークルで、伝統もあり、OBには編集者や評論家がたくさん出ているサークル。こちらは、他の大学から来てる人も多いし、大所帯で、とにかく本の話をいっぱいしてればいい、年に数回、同人誌を出せばいいというサークル」に実際に入っていたりした(とりわけ田舎から東京にでてきた)人がもしこの本を読んだら発狂しそうなむずがゆさに襲われるのではないかと思ったことであるよ。


 ただの人がいて、生活があって、それぞれの視点があって、その視点で世界を切り取ったスナップショットのような言葉だけで小説がなりたつのであれば別にそれはそれで良いしそういう小説は嫌いではないのだけど、実際問題そういうのは大変だと思う。書くのも読むのも。恩田陸はそういうのがやりたいのかもしれないと思うところは多々あって、そういえば第三部で語り手がこんなことを思っていた。

 ピクニックにも行った。
 ピクニックといっても、学校の裏に広がる田圃道をずーっと歩いていって、沼だか湿地だかを半日うろうろしてただけなんだけどさ。
 おお、あのピクニックの記憶、どれも見事にシネスコサイズだ。
 なるほど、日本の田圃って、シネスコサイズにぴったりなんだな。三人でたらたら畦道歩いたり、お地蔵さんの前掃除してみたり、屋敷林のところで石垣に座って綾音が作ってきたサンドイッチ食べたり。
 不思議だ。
 こういうのって、決して特別なシーンじゃないんだね。
 他愛のない、ほんのワンショット。夕暮れ時の、小さな小川に架けられた石橋が、真っ赤な水面に黒い影を落としてる。
 淡いオレンジ色の光が、ぼそぼそうつむき加減に話している綾音と戸崎と僕の髪の毛を照らしている。

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』(河出書房新社)pp181-182

 こういう「特別なシーン」ではないもの。それだけを「再現」させる小説。それだけを文字で書きつつなお読むに足るものをつくるのは本当に大変なのだろうなと思う。

 そういえば第三章を読んでいてどうも座りが悪いのでなんでかと考えてみる。第三章では「僕」=箱崎がライターに取材をうけるというかたちで物語が進んでゆく。一人称による「僕」の独白と、インタビューしているライターを三人称で描写するパラグラフが交互に置かれる。はじめこの二人だけがこの場面にいるのだと思っていたらどうも違う。どうやらライターを見ている、一人称としての「私」がいるようなのだ。「老舗の映画雑誌」の編集者のようなのだけど、まるでライターを視点人物として使い、自分は話者になっているみたいで変な感じ。完全に姿を消しているのではなく、姿がそこにあるのに存在がなく、見えない話者になっているように見えるのがその変な感じのよってくるところなのだろうか。読んでいるとかたちのうえでは一人称と三人称が一つの章の中で同居しているのに、読んでいると、一人称と一人称が同居しているように見えてくる。で、三人称の語りだと思っていたら、語り手が徐々にその姿をあらわし、最後にいきなり横からひょいっとでてくるような場面があり、ちょっと楽しかった。

 吉野朔実『period 3』も読む。
 この作品でしみじみ凄いのは、「外見が美しくない少女」を「外見が美しくない少女」としてしっかりと描いているところだと思う。えてしてマンガでは「外見が美しくない少女」は周辺に属す場合は記号的に処理されるし、主要人物になった時は、美しくはないが愛嬌ある人物として描かれる。それがこの作品では主要人物にある「外見が美しくない少女」を絵のレベルでしっかりと「美しくない少女」として描きだしている。そしてその少女がいう台詞。

「キレイな顔は音楽みたいに、一瞬で人に愛される*1
 この台詞を見た瞬間、「醜い娘は、髪の毛が賞められる」という一文を思いだす。これは野上弥生子の『森』にでてくる(もともとはチェーホフのなにかにでてくるらしい)。つまりなんというか、認識に優れた人は生きていくのが大変なのだろうなと思ったことであるよ。

 この「外見が美しくない少女」鏡島まいらが、学園でも美人と噂される小栗恭子と後姿で間違われる場面がある。間違えた男子達は口々に「げっ!!」「おまえ誰!?」「あーびっくりしたすげーブス!!」「後姿そっくりなんだもん」「ありゃサギだよなあ」という。それを聞きながら表情を変えることなく歩いていると、後ろから「まいら」と自分の名前を呼ぶ声がする。「キレイな顔」をした、いとこのハルだった。後姿でも自分を見分けるハル。重い荷物を持とうとするハル。ここまでハルの顔は輪郭だけで、その目鼻は描かれない。まいらがハルの横顔を見る。そこでページが変わり、ハルのその「一瞬で人に愛されるキレイな顔」が描かれ、それを見るまいらの顔のアップになり、場面が切り替わる。ここでのまいらの一連の心の流れを思うだけで、なんというか胸がふさがれそうになる。同時にまいらの言う「一瞬で人に愛されるキレイな顔」である兄弟が、前巻までの閉ざされた社会でどのような扱いをうけてきたかを思いだすと、つまり優れてキレイなものも優れて醜いものもどちらも敵/味方という二分法で世界と関わらざるを得ないのかもしれない、という非常に凡庸な事に思いが着地してしまい、そういう思いというのはこの優れた作品を貶めることになるのではないかと友人にいったところ、中庸が一番だよね、という返事がくる。いや、それなんかちがくないか? 答えとして。

 マンガといえば、そういえばやはり最近 大塚英志森美夏『八雲百怪』を読む。いや、もうのっけから会津八一、甲賀三郎、そして「キクリ」という固有名詞に爆笑してしまう。腹つるかと思った。そのうち大下宇陀児とかでてきたらどうしよう。キクリは菊理媛でしょうか。なにか決定的な一言をいうのでしょうか。あの人形姿は括り→糸→傀儡子ということでしょうか。可愛いです。一話目の「救われない一族を救う話」を読んだ瞬間、諸星大二郎の「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」が脳裏をものすごい勢いでかけめぐり、電車で笑い死にそうになった。いや、だってあの森美夏の美麗な絵と、諸星のおどろおどろしい絵が入り混じってしまえばそりゃえらいことに。

*1:本当は読点のところに一瞬間が入る。しかしマンガの台詞を引用していていつも思うのだけど、マンガの台詞は引用が難しい。絵とコマと台詞のバランスでなりたっているものから台詞だけをとりだして示すのは本当は片手落ちなのだろうと思う。