友人が「大枚をはたく」を「玳瑁をはたく」だと思っていた事が明らかになった。「だって玳瑁って貴重じゃない」といわれた。常識のエアポケット。

 電車にゆられていると、となりの人がかばんから文庫本をとりだした。こういうとき、何を読んでいるのかとのぞき見てしまうのはどうにも品がよくないと思うものの、気になるものはしょうがない。ついつい横目でちらちらと見てしまう。カバーがかかっていてタイトルはわからないけど、紙の感じ、字組みの感じ、なにより栞紐があるところから新潮文庫だとわかる。新潮文庫は左のページの上には節が、右のページの上には本の題名が書いてあるのだけど、あいにく私のところからは左のページしか見えない。そこに目をやると「Web 2.0」とある。本文は、と見るとなんだかカタカナが並んでいる。なんだコンピュータ関係の実用書か、読んでいる人SEっぽいし(偏見)業界向けの読み物でも読んでいるのか、と興味がなくなり自分の読書にもどる。数分後、奇妙なことに気づく。SEっぽい人の肩が小刻みに上下しているのだ。となりの席にいるので、こちらに震動がつたわってくる。なんだと思い見てみると、SEっぽい人は肩を震わせて笑いをおさえるのに必死なようだった。ときどき「ごふ」とか「ぐふ」というようなくぐもった音がきこえる。そんなに面白いことが書かれているのかと、また見てみると、本の左上には「ブログを考える」とあった。なんだやっぱりコンピューター関係の本か、でもそれにしてはやたらこの人うけてるな何か内輪向けのネタでもツボに入ったのかしらんと、思ったのだが、よくよく見てみると、どうも実用書というわけではないようだ。ぱっと見えた本文にこうあった。

 ただ、「ブログの女王」のようなものに私はなりたくない。なぜなら、私は男だからだ。だったら私は次のようなものになりたいと考えている。
「ブログの大将」
 こうなるともう、「裸の大将」のようなものである。裸で素振りだ。汗が飛ぶのだ。それがあの膨大な日記である。

 なんだこれは。
 ほかの場所は、と目をやると、やはり変な文章がならんでいる。こんな単語が目に入る。「プロゴルファー猿」「旅行から旅行の、よく旅行する人」「自転車」「よく盗まれる」「あまり盗まれない」。これだけではなんのことかよくわからないだろう。私もよくわからなかった。それでも文の面白さは伝わってくる。まるで宮沢章夫のような屈託のある文章だ。これはどう見てもコンピュータ関係の実用書ではない。思わずとなりから覗きこむように見てしまう。よく見えない。首をのばして後ろからのぞきこもうとする。前に立っていたおねえさんが変な顔をする。SEっぽい人は私の不審な動きには気づかず夢中で本を読んでいる。たまに頬がひくひくするのは笑いをおさえているせいだろう。そんなに面白いのかいや確かにこの文章は面白い、とタイトルを知りたくなる。あの失礼ですがなに読まれているのですか面白そうですね、と声をかけてみるかと思うもさすがにそれもどうかと逡巡しているうちに私の降りる駅が近づいてきた。立ち上がると、一瞬、本の右上に「アップルの人」という文字が見えた。ということはこれが本の題名なのだろう。気になったので、電車を降りてからネットで調べてみる。キーワードは「新潮文庫」「アップルの人」。一発目でヒットする。そこにはこうあった。

 宮沢章夫『アップルの人』新潮文庫

 そういうものだ。
 本屋に行くと新刊のコーナーに置いてあった。購入し帰りの電車で読む。家に着くまで私の頬はひくひくとしっぱなしだった。



木地雅映子『マイナークラブハウスへようこそ!―minor club house〈1〉』(ピュアフル文庫)を読む。

「死んじまうんだったら、もう、なんもかも終わりじゃんか……。どんなにイヤな親だっ
たにしても、母親だろ? 産みの親だろ? そこまで、徹底的に拒絶する必要なんて」
「あるわ。」
 囁くような小さな、硬質な声。一瞬誰の声だかわからなかった。
(中略)
「誰でも死ぬわ。それだけで全てが許されるほど、生きている間に為した行為は軽くない。
この世界は、あの人たちのゴミ捨て場じゃないのよ。」
 がさりと音がして、女の子が、木の下に飛び降りる。
「あたしたちだって、ゴミじゃないわ」


木地雅映子『マイナークラブハウスへようこそ!―minor club house〈1〉』(ピュアフル文庫)pp237-238

 母と娘、兄と妹をめぐる物語として読んだとき私はこの作品を吉野朔実の作品、とりわけ『ジュリエットの卵』に接続する誘惑にかられてしまう。例えばこんな文章を読んだとき。兄のことが好きだったというぴりかに、まわりは、子供のころによくある兄弟への無邪気な愛情だと話を落ち着けようとする場面。

「そーくんとせっくすして、そーくんのこどもをうむんだとばっかしおもってたよ。」
 がたがたーっと全員椅子ごと後ずさる。
「……それが、宇宙の完成だと思ってた。そーくんと、ぴりかが結びついて、それが、ひとつの物語の完成。そいで、その後の時間は、もうないの。でも、そうなる前に、そーくん死んじゃった。」


同上p218

 だけど悲しいかな役者不足。うまく接続できない。残念。

 聞きながら、頭がさらに混乱して来る。口の中が、苦い汁で、いっぱいになるような感じがする。
 この喋り方には、覚えがある。
「ご病気ですか」
 と、少年がまた尋ねる。かおりが再び、ボンネットに片手をついて、気を失いそうな様子になったためだ。
「何かお手伝いすることはありますか?」
 なにかおてつだいすることはありますか? ……ああ、やめて。そんな風に、わざとらしい言い方はしないで。いやみな口の利き方はやめて頂戴。どうしてもっと普通に喋れないの。いったいなにが不満で、ママにそんな他人行儀な態度を取るの?


同上p279

 ぴりかの母親が奏と晴一郎を朦朧とした意識の中で混同する場面。物語的にこのとき二人は象徴的に同一化されている。その上で、ぴりかと奏の関係をそのまま滝と晴一郎の関係にスライドさせると、ぴりかと滝もまた象徴的に同一化される。そうすると、滝がぴりかにであった瞬間、何故、直感的に「面倒見てやんなくちゃ……と」思ったかがわかる。それは滝にとってぴりかが自分の分身に他ならないからではないか。そう考えると、同時に、滝が何故、晴一郎に惹かれるのかもわかる。物語の内容レベルでの意味づけはどのようにでもできる(精一郎の、その「病気」に由来する態度が彼女にはちょっと不器用だけど誠実で好ましいものに見えるとか、まわりの男とは違って「本当の自分」の姿を見てくれるように思えるとか。それは何でもよい)のだけど、物語的には、滝と精一郎の関係はそのまま、奏とぴりかの関係を再現しようとしているのではないか。するとその先にあるのは、すでに起こった事であるところの悲劇ではないのか、と思ってしまいちょっと暗い気持ちになる。なんにせよ2巻が楽しみ。