駅前で「俺は歯の欠けた歯車なんだ!」と絶叫している若者がいた。なんだかわからないけど頑張れと思った。

 最近、古川日出男『聖家族』(集英社)、保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)、中井久夫アリアドネからの糸』(みすず書房)、アルベール・カミュカリギュラ*1(ハヤカワ演劇文庫)を併読していたら何がなにやらことばが色々と入り混じりえらいことになる。コミックでは吉田秋生海街diary 2』と今市子『僕の優しいお兄さん2』がでていて嬉しいことこの上なく。前者は本格的に『ラヴァーズ・キス』とのリンクを見せ始めたし、後者は今市子の得意技ともいえる錯綜した人間関係がさらに入り組み始めたしで、次の巻が待ち遠しい。あとは小玉ユキ坂道のアポロン2』がよかった。友人に勧めたら「この表紙の悪そうな兄ちゃんと裏のメガネがくっつくんですか」と言われた。違う。
 私は普段雑誌は買わないのだけど、「FEEL YOUNG」の表紙にヤマシタトモコの名を見つけてしまい思わず購入。働いている女性三人が食事をしながら日常であった事の話しをする、という話。理想の男子像を頭に描き、最後に「なんてな いねーーーーよ」(p216)という台詞と、そこに至る描き方が良かった。この中で「オリーブって自家受粉できない」という事が書かれていた。はじめて知ったので、ほうほうと感心していたら、併読していた『アリアドネからの糸』に「清明寮に小豆島からオリーヴの木が来た」という文章があり、そこにも同じ事が書いてあり、一日に二度オリーブについての文章を読むという珍しい経験をしてしまった。そして同じ日に読んでいた『小説、世界の奏でる音楽』の中に中井久夫の本がでてきて、なんというか、不意打ちをうけたというか、よくわからないダメージをうけてしまった。死角からガツンと首筋を打たれたような衝撃。そう、『小説、世界の奏でる音楽』は引用したいところがとてもあるのだけれど、しようとすると「忘れがたい言葉」の最後の方にでてくる『モロイ』のくだり、

読者はそういういろいろなことを読みながら、「ここだ」と言って、線を引いたり、ページの端を折ったりして、そういうところを元にして『モロイ』について語ろうとする。しかし大事なことはいろんなことが何もかも全部詰め込まれていることで、ベケットはそういう空間を作り上げた。簡単に線を引いたりできるようなところには、その小説の本当のところはない。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)p115


という文章が頭をよぎり、引用するのが躊躇われてしまう(という事を示すため引用してしまうという、これはなんなのでしょうか)。奇しくも同じタイミングで読んでいた友人とメールでやりとりする。友人の「これは一種の信仰の書ですね」という一文に、深く納得する。

「私は分数の割り算ができなかった。」「『分数の割り算ができないのも私の個性です』という様な、「〜ができなかった私」という形で、自分がなにかできなかった事をそれがまるで何か自分の大切な特性であるかのように語る話法を、保坂は何度も批判する。これは非常に耳が痛い言葉で、我々(我々?)は少しでも意識が緩んでしまうと、「私は〜ができない」という否定形で自分を語ろうとし、その語る中で「それを語れる自分」を誇るような、どこか湿った卑しい表情がでてくる。その卑しさを保坂は「それを言った人の気持ちが何かこちらに向かってべたっと貼りついてくるようなところが何より共通している。どれも固有の経験を装った了解可能なフィクションじみた経験であり、本当の固有の経験だったらもっとわかりにくいはずだ」(p200)と書いている(ように私には見える)。それにしても何故ここまで何度も「分数の割り算」がでてくるのかと、なんだか面白くなってしまう。そういえば確かこれと同じことが『季節の記憶』に書かれていた筈だと思い、いま本を繰っているのだけど見つからない。いやでも確かあったはず。そもそも私が保坂和志という作家を知ったのはこの「分数の割り算」話法を批判(というほどには強くはない調子で、なんというのだろう、文句をいっている?揶揄している?)する文章を目にしたからだったのだけど、あれはどこで目にしたのだろうか。そこで保坂和志という作家を知ったという事は、それまで(忘れていない限り)保坂の本を読んでいなかったという事で、読んでいなかった本の事を知るという事は、何かで引用されているのを見たのだろうか、あ、あった。

一つ特別いいのは感傷的でないことで、たとえば彼女は間違っても、「あたし小学生のとき、どうしても”十二割る四分の三”の計算が納得できなかったの……」というようなことを言わない。(略)自分が子どものころにできなかったことを自分のとても大切な特性だと感じて、そういう部分がいまの自分をどこかで規定しているんだと考えたがるようなところがない

保坂和志『季節の記憶』(中公文庫)p140

 今これを書き写していて、「自分の」「大切な特性」という言葉を、上の文章で気づかず使っていたということに気づいてちょっと驚いている。数年前に読んで、読み直していない文章なのに私の中に残っていたのか。偶然か?
 あとenterbrainが新しく創刊した「fellows!」という雑誌も購入。これは帯の森薫入江亜季雁須磨子の名前を認めたからなのだけど、あれ、入江亜季の連載、次号から!? 森薫乙嫁語り」。舞台は19世紀の中央アジア。遊牧の民(なのかな?ちょっと今回を読んだだけではよくわからない)に嫁いだ女性アミル・ハルガルを主人公にした話。さすがは森薫で衣装がすばらしい。あとは表情の描き方。表情の微細な描き分けでコマをつなげるそのやり方(例えばp19とかp41)。あとは躍動感のある場面の描き方(例えばp25〜p29までのアミルが兎を取る場面。この躍動感は鳥肌もの)。これは傑作になる予感。


 もう二週間ほど前の話になってしまうのだけど、古川日出男岸本佐知子トークショーを観にいく。はじめて見たけれど、友人がいっていたとおり岸本佐知子は綺麗な人だった。古川がケリー・リンクを意識していると言っていて驚く。そうかあの想像力というか物語は古川を刺激するものがあるのか。「東北弁」の中に明治時代につくられた「翻訳語」を入れるとおかしくなる、という古川の言葉は非常に面白かった。「東北弁」だけでは、ある「知的」な言説になりえない。だけど「東北弁」を使うことで「知的」なもの以前のなにか(それを古川は「けもの」という言葉で表していた。けもの、ケモノ、獣、化物)を顕現できるのではと言う。その上で古川は、この作品の中で「東北弁」を捏造しているという事に非常に自覚的だった(「標準東北弁」とでもいえる言葉の捏造)。
 書かれたもの、書くという行為、書記体系、あるいは文字そのものが仮に暴力性を帯びた「権力的」なものだとすれば(それは様々な差異を一つにするという意味において。無数の音を一つの音韻体系に縛り付ける。しかしその暴力がなければ我々はおそらく言葉を持たなかった。原初にあった暴力)、それに対置される「語る」という行為が示すもの。それは中央集権的な権力性を解体(解毒?)し拡散させるものだといってしまいたいところだけど、しかしながらここにあるものは小説なのだな。語られているかのように書かれたことば。語りを模倣する行為。予め敗北を宿命付けられた行為。
 ところで『聖家族』は「体系化された暴力」=「武術」についての記述に溢れている(これも一つの釣り餌なのかもしれず、そして私は釣られる)。武術。流派。古川が『ベルカ、吠えないのか?』で犬の系譜を描くことで書いたこと、『ロックンロール七部作』でロックの歴史を語ることで書いたこと、そして今回の『聖家族』で東北に流れる(東北が腹蔵する?)武術を描くことで書いたこと。これらには何かとても近いものを感じてしまう。それが何かはわからないのだけど直感的には(畸形的に)分列しながらどこまでも増殖してゆくものの謂。つまり生命? そういう意味でトークショーで古川が「ライバルはサグラダ・ファミリア」「生命の肯定に向かいたい」という発言をしていたのに通ずるように思える。そして「言語」。言語は音の差異を隠蔽する装置として機能する(しかし忘れてはならないのはここで差異として認識されるものは言語の発生と同時に生まれているということ。発生と隠蔽。物事が生まれるとき、常に起きている転倒)。会話時に個々人の発話における音の高低、声質、音量が異なるにも関わらず、同一言語内ではそれらは差異として感じられず、ことばとして流通する。文字においてもそれは同じで、どのような道具、素材を用いて書いたとしても、それが「同じ」字であるならば「同じ」字として機能する。「大」と「犬」の違いは右上に「ヽ」が打たれているかどうかの違いでしかない。「大」を紙に書こうが、こうして画面上に書こうが、鉛筆で書こうが、筆で書こうが、子供が書こうが、大人が書こうが、それが「大」であるならば「大」として機能する。非関与的な差異と関与的な差異。そして武術もまた個々の人間の動きの差異を隠蔽する装置として機能する。動きに流派としての意味を与え、同時に個々人の一回性の動きの意味を剥奪する。そのシステムを流派では「型」というのではないか。

 今これを書いていて、ふと、宮沢章夫トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー〔新装版〕』の解説に寄せていた文章を思いだした。

ひたすら走るロードランナーの姿にはきわめて機能的な美しさがある。醒めた笑いがある。感傷などと無縁なその走りの姿には、「ぼくらが真に生きている、深層の、いっそう共有されている次元の人生にあって……」を見つめるのに必要な鋭利な視線が存在する。なぜなら、「本物」を見いだすピンチョンの目がとらえるのは、ロードランナーにも似た、速度の内側から見た世界像だからだ。ぼんやり植物のように立っている私には見えない。『V.』や『重力の虹』をはじめとする長編作品を難解だと感じるとしてもしょうがない。なにしろそれは、速度の内側から見た世界だ。

「速度の内側から見た世界」(トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー〔新装版〕』(ちくま文庫)所収 p317)

 「速度の内側から見た世界」

 記録された「歴史」という時間の流れを外側から描くのではなく(いや一部ではその方法を使っているのだけど。記録を利用した文章と、語りによる文章の鬩ぎあいもこの小説の魅力だと思う。トークショーで古川は前者を「この小説をわかりやすくするため」といっていたように記憶している。気のせいかもしれない)、「歴史」を反復的に(あるいは強迫的に)語るそのつど、語る人物が語られるその「歴史」を生きなおしているように見えるこのことばの連なりは、宮沢章夫の言葉を借りれば「歴史の内側から見た世界」を描いているのでは、とも思ってしまう。
そしてこの小説の照射する範囲は恐ろしく広いと思う。単純に「日本」を相対化するというところだけから見ても赤坂憲雄の提唱する「東北学」との親和性。技法的な、語りの話法だけで見ても、もしかすると古川は新しい文体を創っているのかもしれない。語り方といえば「聖兄弟・2」は山形、という連想だけから阿部和重シンセミア』を思いだしてしまったのだけど、「聖兄弟・2」の最後で描かれるまるでそれは粉塵爆発のように連鎖する視点人物の目まぐるしい移り変わりは「山形」とかなんかそういうのを抜きにしても『シンセミア』を彷彿させる。した。

 トークショーが終わったあと、古川のサイン会になる。暫くして私の番になる。サインをもらいながら気になっていた事を聞いてみる。それは取材で東北を廻っている時、ある流名を耳にしなかったかという事。

 私は15歳の頃から上京するまでの数年間、地元に伝わる古い武術を習っていた。流名を諸賞流和*2*3という。この流派は柔術諸流が基本的に投げや関節技などを表看板にしているのに対し、当身(打撃)で知られる珍しい流派だった。ちなみに東北にはもう一つ打撃で知られる、柳生心眼流という流派がある。これは『聖家族』にもちらりと名が見える。
 諸賞流は流派の中興の祖として坂上田村麻呂の名をあげる。坂上田村麻呂征夷大将軍。私はこの流派を習っていた頃、いや、この流派のことを知ったときから奇妙な感じがしていた。征夷大将軍とは名の通り蝦夷を打ち殺したものの大将。そしてその蝦夷とはかつてこの地に暮らしていた人々。恐らく私の抱いていた違和感とは、蝦夷にとっては不倶戴天の敵ともいえる人間を祖に抱く流派が、かつて蝦夷が暮らしていた場所で延々と続いているというその事実、この奇妙なねじれにだったのだと思う。東北と武。蝦夷に対する暴力。鹿島・香取の神。防人。鹿島の太刀。蝦夷の暴力。鉄。舞草刀。馬。連想はどこまでも続く(そういえばいわゆる「蝦夷」と「日本人(大和人?)」はどのようにして会話を成立させたのだろうか。同じ言葉を用いていたのだろうか。違う言葉を用いていたとしたら通訳がいたのだろうか。俘囚はどのようにして管理されていたのだろうか。佐伯部。武力集団。「中央」に点々と存在するノイズ。東北に隠された武の技術の発見。「6」という聖数。頭・胴体・両腕・両足の数。108という急所。6の倍数。兄弟は隠された技術を見つけるため東北6県を彷徨う)。
 サインを貰いながら、そういう流派が東北に残っていて、というような話をしたところ、古川は取材中、裏の技として打撃を含む柔術(剣術だったかもしれない)の流派の話しを聞いたとか、(確か)青森の方で坂上田村麻呂の名前に関係する流派の名前を聞いたような気がする、というような事を教えてくれた。他に私は隠し念仏の話もふりたかったのだけど、さすがに時間がなくて断念。残念。

 そしてしみじみ思ったことには『聖家族』は『修羅の刻』に接続したくなる誘惑に溢れているなぁという事。誰か語ってくれんものか。トークショー終了後、興奮冷めやらぬまま穴八幡で行われていた古本市に立ち寄り探していた本を何冊か見つける。そういえば穴八幡の古本市、大学に入った時から毎年来ているのなと思い、計算してみたらもう10年連続で来ている!とわかり軽くショックを受ける。その後、友人を呼びだしお酒を飲みながら上のような事を言おうとしたらうまく言えずもがもがしていると「とりあえず君が興奮していることはよくわかった」と言われた。伝わった。

*1:本当にどうでもいいのだけれど、この「カリギュラ」ということば。「DANZEN! ふたりはプリキュア」の最初の「プリキュアプリキュア」のところに入れて呟くと耳にこびりつく。カッリギュラ、カッリギュラ……

*2:遠祖を藤原鎌足、流祖を坂上田村麻呂としている。名前も狐伝流、夢想観世流とそれぞれ変わり諸賞流となったのは夢想観世流27代毛利宇平太国友からだという。それぞれの名前の由来として狐伝流とは大化の改新直前に藤原鎌足が夢中で狐より一振りの鎌を授けられそれを用いて蘇我を打ち倒した事に由来するという。その後しばらくこの流派は絶え、平安時代に入り坂上田村麻呂蝦夷征伐において清水観世音菩薩に祈願し夢想のうちに伝えられた和の術を夢想観世流と称したという。鎌倉時代に入り、源頼朝が幕府を開いたとき、朝廷の勅旨を饗応するために角力(相撲)会を催した。各地から強者を集め、諸侯達は自慢の郎党を出場させたのだけど、その中を、城太郎という者が進めた法師相撲が勝ち進んだ。それに対し周防前司の郎党である毛利宇平太国友が小兵ながら観世流の技を持ってこれに勝ち、それを見た頼朝や諸侯が賞賛したため、これ以後、諸(侯が)賞(賛した)流派として諸賞流和と名乗るようになったという。その後、岡武兵衛庸重が47代を継承し寛文年間に盛岡(南部藩)に伝えた。岡には三人の高弟がいて後にそれぞれ一派を立てる。つまり南部藩には三つの諸賞流が存在していたことになる。このうち、第一の高弟である熊谷治右エ門、及び第三の高弟永田進の流儀は明治中頃に途絶え、現在伝承されているのは第二の高弟である中館判之亟の流れを汲む。諸賞流では中位の位までを『諸賞流』、免許の位までを『夢想観世流』、印可の位までを『狐伝流』、そして印可皆伝の位を『観世的真諸賞要眼狐伝流』と呼ぶ。技法の特徴としては、現存する柔術の中では珍しい当身(打撃)中心の流派である事と、一つの型が五段階に変化するという事があげられる。諸賞流では座して行う型を『小具足』、立って行う型を『立合』と呼び、その型の中で主に肘と足を用いた当身や、指を用いた(といっても貫手―いわゆる指を目に付き入れるもの―ではなく手首のスナップを効かせ、裏拳の要領で指を用い目を狙う)目潰しなどを稽古する。この『小具足』『立合』の基本的な型を『表』と呼び、一般的な当身や逆手を用いた捕手を教える。その後『表』の型を受身その他を用いて逃れ反撃する型として『解(ほぐれ)』、打撃を中心とした型である『裏』を学び、さらにその上に『変手(へんて)』と呼ばれる関節技を用い一瞬で相手を極める型、そして急所への打撃その他で一瞬で相手を倒す『手詰(てづまり)』という型を稽古する。つまり『表』→『解』→『裏』→『変手』→『手詰』と、同じ型が五段階に変化していくというシステムを形成している。それに加え空転受身を行う『投げの型』や、鎧を着て行う『組討』の型などの他、現在は無辺流棒・薙刀術、及び諸賞流別伝縄術を併せ伝承している。ちなみに、現存する諸賞流は岩手県盛岡市に伝わるものと同県の山田町に伝わるものがあるけれど、昭和初期(?)に各地の道場を尋ね回っていたという人の話によれば、山口県の下関でも諸賞流が行われていたという。しかし、この諸賞流は昭和の中頃までには途絶えてしまったようである(「諸賞流は盛岡藩外不出としてあつたが、此れは盛岡にばかりあつたものでは勿論ない、岡庸重が石田定政から免状された様に、この系統が他にあつた筈だ。三十年ばかり前に、鳥取県の岡田某と言う人が各地の道場を尋ねて廻つておるとて、当地に来たことがあつたが、其の時の話では、下ノ関に諸賞流があると話して行つたが、今は既に絶滅してしまつた様だ。」米内包方『盛岡藩改訂増補古武道史』p197〜198)。

*3:ちなみに源頼朝云々の話、諸賞流免許伝巻物では「今日於幕府相撲上覧其中有法師相撲城太郎所進也此相手周防前司召進宇平太也何方可勝哉由有御恩召及晩相撲十七番雌雄被決件之法師負男訖諸将感嘆爾後改観世流称諸賞流旨申渡宇平太国友拝授而謹候」(米内包方『盛岡藩改訂増補古武道史』p193)とあり、大意は前述の通りなのだけど、個人的には流儀の発生を説明するための説話かと思っていたら『吾妻鏡脱漏(東鏡脱漏)』を見ていたら嘉録3年(1227)3月のところに「廿七日丙子鋤X 大進僧都寛基陸奥國葛岡郡小林新熊野社拝領之間殊興行社務者是御祈祷賞云云今日於幕府相撲御覧其中有法師相撲一人城太郎所進也此相手周防前司召進男字平太也而相構可令勝於男之由將軍竊被仰合籐内左衛門尉定員陰陽師散位鋤X賢雅樂助鋤X貞散位重宗散位道継等被召之一男二法師何方可勝哉之由有御占各以午刻占申以一可勝之由鋤X賢申之鋤X貞一可勝云云重申可爲持云云道継二可勝之由申之及晩相撲十七番雌雄被决之件法師負于男訖」(3月27日 丙子 鋤X 大進僧都寛基陸奥の國葛岡郡小林新熊野社を拝領する之間、殊に社務を興行する者は是御祈祷の賞と。今日、幕府に於いて相撲を御覧。其の中に法師相撲一人有り。城太郎が進むる所也。此の相手は周防前司が召し進むる男あざなは平太也。而るに相構えて男に於勝たしむべきの由、将軍ひそかに籐内左衛門尉定員に仰せ合せ、陰陽師散位鋤X賢、雅樂助鋤X貞、散位重宗、散位道継らがこれを召被る。一は男、二は法師、何方勝つべしやのよし御占い有り。それぞれ午刻を以て占い申す。一勝つべしの由を以て鋤X賢これを申す。鋤X貞、一勝つべしと云う。重宗、持ちたるべしと申す。道継、二勝つべしの由を申す。晩に及びて、相撲十七番雌雄之を决せ被る。件の法師ここに男に負けをわんぬ)という文章があり、若干の違いはあるけれど(例えば伝承で「毛利宇平太国友」としているところを『吾妻鏡』では「字平太」として「平太」という名前だとしているところなど)、これを基にして話を作ったのかなと。いや、歴史というか伝承を換骨奪胎して狐伝流、観世流、諸賞流それぞれの縁起をうまく作ったんだなと驚いた。