飲み屋にたなびく「樽生名人のいる店!」という幟が「柳生名人のいる店!」と見えた冬の昼下がり。

何故なのかと彼の考えを聞いて全員が賛同する訳がないんだ
しかし 中には聞いておきながら自分が納得しないと怒ったり否定したりする愚者がいる
人に説明を求めて解答が常に得られると思っている蒙昧な者も多い
(中略)
知る事が全ての人に幸せをもたらすとは限らないのと同じで
全てを知る必要はないし明かす事もないヨ

石川雅之もやしもん7』(講談社)p185-186

もやしもん7』を読みながら、樹教授がクトゥルフの司祭だったらどうしようと考える。
 大きな嘘をつくときは小さな真実を混ぜる、というのは秘密を守るための常道なわけだけど、今回のもやしもんでは地下通路の(あるいはその先にある)秘密を守るため、この場所が日吉酒造の麹室と貯蔵室であった事が明らかにされる。これは嘘ではないけれど、問いに対する本当の答えではない。その先にさらなる秘密が隠されている。さて、それはなにか、と考えたとき、ふと、もし樹教授がクトゥルフの司祭であったらどうだろうかと考える。
 この地下道が設定上、戦中に何かの研究施設であったのは間違いないのだろうけど、実はクトゥルフを祀る祭儀場だったとすればどうなるか。とりあえず樹教授の「樹」は実は「斎」だとする。代々、闇の司祭を世襲する「斎」一族。
 話としては、及川が飲み会の最中、中座し、地下道を見つけてしまう。しばらく地下道を進むうちに奇妙な部屋にでる。荒く削られた壁面には及川の見たこともない文字が刻み込まれている。部屋の真ん中には円筒状の半透明なガラスのようなものが置かれている。筒の中ではなにか白い、巨大な蛆のようなものがぶよぶよと蠕動している。
「及川君」
 振り向くと真っ黒なローブを着た樹教授がいた。闇の中に光る眼。
「君はクトゥルフ神話という言葉を聞いた事はあるかね」
「クトゥ……何ですかそれ? 神話って、あの神話ですか?」
 で、ここで樹教授の長ゼリフでクトゥルフ神話の説明が入る。それだけでも楽しそうだ。
 及川はその説明を聞かず尋ねる。
「それより先生その服なんですか? いつもの白衣は? なんだかゴスっぽいですけど、蛍君の真似ですか。というかこの部屋はなんですか」
 樹教授が言う。
「君がここで見たものは忘れなければならない」
 樹教授の背後で蠢く触手状のなにか。暗転。とうぜん夢オチ。眼が醒めたら朝。飲み会後の惨状の中で眼を覚ます及川。昨夜のことは何も覚えていない。何時もと変わらない朝。で、「みんなおはよう」と樹教授があらわれる。珍しく白衣ではなく、シャツ姿。そして、最後に、何か(クトゥルフの司祭の徴とか。首の後ろあたりにあるとアングル的にも良い)がアップになり終わるというのが物語的には順当ではないだろうか、というようなことを友人にメールしたところ、現時点で53時間返信がこない。ちょっと寂しい。駄目だったか。


 普段いかない街に用事ができたので赴く。ついでに古本屋に寄る。二冊購入。ウィリアム・ギブスン『ヴァーチャル・ライト』(角川書店)とM・ミオー&J・ランジュ『娘たちの学校』(ペヨトル工房)。『ヴァーチャル・ライト』はギブスンの新刊がでる前に読んでみたかったので購入。『娘たちの学校』はいかにもペヨトル工房。登場するのはスザンヌとファンションという二人の少女。話はこの二人の対話体で進んでゆく。世知にたけたスザンヌが、ファンションに向かい「(即物的な意味での)愛の喜び」と「(即物的な意味での)閨の作法」を教えてゆく文字通りの「娘たちの学校」。慇懃で悠然とした手つきで綴られる文章が楽しい。フェイクの臭いがぷんぷんするあとがきもまた良い。

 エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』(ハヤカワ文庫)読了。

 自閉症の画期的な治療法が確立した近未来。幼児期であれば自閉症は完全に「治療」可能なものとなっていた。ルウはその「治療」を受けていない最後の世代だった。同じ「障害」を持つ仲間とともに製薬会社で働くルウは、ある日、上司から実験段階にある脳の手術を受けるようにいわれる。その手術を受ければ自閉症が「治療」され「ふつう」の人間になれるのだという。自閉症という「障害」が今の自分を今の自分としてあらしめている大きな要因であるならば、その「障害」が「治療」されたとしたら、そこに誕生する「私」とは「私」なのか? と、アイデンティティを巡る話として見ても面白く、あるいは彼に見える世界の姿を読むだけでも非常に面白い。

ふいにトムが話しかけてきた。「あなたは考えたことがありますか?」と彼は訊いた。「暗闇の速度はどのくらいか」
(中略)
「暗闇は光がないところのものです」とルウは言った。「光がまだそこに来ていませんから。暗闇はもっと速いかもしれない―いつも光より先にあるから」
「あるいは暗闇はまったく動きがないかもしれない、なぜならいつもその場にあるから」とトムは言った。「それはひとつの場で、動きではない」
「暗闇はものじゃないわ」とルシアが言った。「それは単なる抽象よ、光がないことを言いあらわす言葉にすぎないわ。動きがあるはずがないでしょ……」
「そこまで言うならだね」とトムが言った。「光は一種の抽象概念だ。そして今世紀のはじめまで、光は動きと粒子と波動においてのみ存在すると言われてきたが、その後その考えは捨てられた」
 ルシアが顔をしかめているのは、顔を見なくてもその声のとげとげしさで彼にはわかった。「光はじっさいに存在するもの。闇は光が欠如している場所」
(中略)
「隠喩的には」とトムが言った。「もし知識を光とし、無知を闇とするなら、闇は実際に存在するものだと思えるときがある―つまり無知は存在すると。無知は単に知識の欠如というよりもっと触感のある筋肉質のもの。無知に向かう一種の意思のようなもの。それはある種の政治家たちを言いあらわすことになるね」
エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』(ハヤカワ文庫)p156-157

 光と闇の比喩で「知」と「無知」の対立を語りながら、その奥に「健常者」と「障害者」という構図が浮かび上がる。
「健常者」は全き良きものであり、「障害者」は「治療」されるべき悪しきものであるとする図式。あるいはそのような図式それ自体が「闇」であり、「無知に向かう一種の意思」で、それは作中に登場する人物達のあるグループを体現する言葉としても読めてくる。
 作中でルウはフェンシングに才能を持つ人間として描かれる。運動のパターン認識に優れたルウは、フェンシングの対戦者の動きをあるパターンとして「見る」。相手の動きのパターンを分析し、それに沿った動きをすることで、相手に勝つ。その認識と動きが優れた術者の動きを連想させる。

そしてまた私は、光の中にある暗闇のなかで動く。暗闇はどれほど速いのか? 影は、それを投げかけるものより速くはないが、すべての闇が影というわけではない。
そうだろうか? こんどは音楽は聞こえないが、光と影のパターンが、闇を背景に光の弧や螺旋を描きながらくるくる回るのが見える。

同上p58

 と、同時に、フェンシングの最中、剣を交わす相手と自分が協力して一つの旋律を奏でているような感覚に襲われ、その音楽に陶然とするルウがいる。フェンシングをしているという意識が薄れそれどころか自分が消え、ただ動きと旋律があるという状態。そして同時に読んでいた鴻巣友季子『翻訳のココロ』(ポプラ社)にこんな文章を見つける。

 翻訳も「いかにも巧い」と思わせるようでは、まだまだ青い! 「いかにも労作」というのもいただけない。読む方が疲れてしまう。たぶん、本当にいい翻訳とは、読者が訳文の出来不出来などに思い至りもせず、「ああ、なんて面白い本なんだ」と息つく暇もなく読んでしまう翻訳なのだ。翻訳のことを忘れるような。翻訳が消えるような。少なくとも、読み手の意識から消えるような。

鴻巣友季子『翻訳のココロ』(ポプラ文庫)p54

さらに、こんな文章も湧きでてくる。

 面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として眺めているわけである。いかなる芸能でも、舞台に出れば観客に見られることが役者の宿命で、したがって役者はいつも、見られているという意識から離れられないものだけれども、その見られるという意識、更にそこに必然的に出てくる見せるという意識、それをいかになくすか。これは役者の大きな命題であり続けたことだ。舞台という虚構をいかに実存に変えてしまうか。そのためには先ず演者が、見せる意識を自分の中から取り除かねばならない。同時に観客を見るほうの意識も変えなければ駄目だ。役者は観客を舞台上から仔細に見ているものなのである。(中略)その見る意識も見せる意識も超越した境地。それは世阿弥の言う「離見の見」、「見所同心の見」を持つことであろうし、「無心」の境地にもつながるだろう。が、それを、能の役者は面によって得ようとする。面をかける、ということは能の役者にとって、これから一番の能を演ずる自分の、心の状態と位置とを決める鍵なのである。

観世寿夫『心より心に伝ふる花』(白水uブックス)103〜104


 動く存在が消え、動きそのものとなってしまうこと。あるいは意味するものが透明になり、意味されるものそれ自体が立ち上がってくるような錯覚を生じさせるということ。偶然にも両方「やく」をめぐる話になってしまった。記憶の入っている場所が同じだったのだろうか。
 それにしても、『くらやみの速さはどれくらい』。タイトルといい、光と影をめぐる記述といい、優れた技術と動きの描写といい、これはまるで新陰流の「陰」の意義の解説と実践のようではないか!と思ってしまったのが運の尽き。同時に読んでいた梅原猛『うつぼ舟1 翁と河勝』(角川学芸出版)がさらに妄想を加速させる。この本で梅原は世阿弥の『風姿花伝』から能楽の源流へさかのぼり、そこから秦氏の伝承を経由して、金春禅竹が記した『明宿集』に触れ、そこで語られている「宿神」について考えを進めてゆく。「宿神」とはなにか。経緯をざっくりと省き単純化して言えば*1柳田國男が「石神問答」で問題にした「シャグジ(ミシャグジ・シュグジ・シャクジンなど「サ音+ク音」の音を持つ存在)」と呼ばれる神(精霊)。中沢新一は『精霊の王』で『明宿集』をテキストに使い、芸能の根源神としての「翁」と「宿神」をつなぎ、「宿神」を、存在の運動をあらしめる場として描きだす。妄想は加速する(妄想の速さはどれくらい?)。能と剣術(主に新陰流)の関係を小説に持ちこんだ作品として、すぐに思いだすのは山田風太郎柳生十兵衛死す』。『柳生忍法帖』『魔界転生』に続く柳生十兵衛シリーズの最後を飾るこの作品で、風太郎は能を時空間を越える装置として機能させ、室町期の柳生十兵衛(陰流の剣士)とその子孫である江戸期の柳生十兵衛柳生新陰流)を立ち合わせる。能を時空間を変容させる芸術として見た山田風太郎の慧眼にはただただ恐れ入る。
 しかしながらさらにその先に、『明宿集』において能の根源神として語られる「翁」と、武芸を結びつけた優れた作品として私は隆慶一郎『夜叉神の翁』を思いだす。この作品で隆は金春七朗氏勝という人物を主人公とする。金春七郎氏勝とは『明宿集』を著した金春禅竹の子孫。新陰流の他、宝蔵院流槍術大坪流馬術、新当流長太刀を修めた天才的な武術者として知られる*2。物語は氏勝が夢の中で謎の「翁」の声を聞くところからはじまる(んじゃなかったかな……。いま読み返そうとしたらどうしても本が見つからない。なので記憶に頼って書いています。間違っている可能性大)。その声に導かれるように芸能の根源へと歩を進める氏勝。同時に、柳生一族との出会いにより武への才能も開花させる。武芸とは畢竟人を殺傷する技術である。武の道に激しくひきつけられながらも、人を殺す技術を身につけることに苦悩する氏勝。隆慶一郎は間違いなく『明宿集』を踏まえた上でこの作品を書いていた。芸能と武芸を結びつけ、さらには生命の根源にまで考察を進め得た予感に満ちるこの作品。歴史に残る傑作になったと思う。返す返すもその早い死が惜しまれる。ああ、この続きを誰か書いてくれんものか……。宇月原晴明とかさ……。

 さらに妄想は進み「坂の者」(あるいはシュクの者)と呼ばれた中世の被差別民。これと、丹生谷哲一が『検非違使 中世のけがれと権力』(平凡社)で描いた検非違使と「キヨメ」の集団の関係。さらには検非違使と後戸の神(=摩多羅神)の関係。後戸の官人検非違使。後戸猿楽。ここで猿楽(=能楽)と摩多羅神がつながる。摩多羅神といえば秦氏。連想ゲーム。検非違使といえば北面の武士。北面とは何に対しての北面か。天子(天皇)は南を向く。それに対しての北面? 天子(天皇)の背後にたって守るものとすれば後戸の神と一緒の機能を持つことにならないかと思うのだけど、それはさすがに妄想しすぎかとも思うも、さらに妄想は加速する。シャグジ(ミシャグジ)という名でよばれる神は諏訪地方と強いかかわりを持つ。先にも書いたとおり中沢新一はこの神を能の根源神である宿神と同体と考える。そこで私は思いだす。武田信玄が諏訪地方を治めていた頃、その旗下にいた金春流の流れをくむ能楽師を。その名を大蔵太夫十郎信安という。彼には息子が二人いた。兄を新之丞。弟を藤十郎(十兵衛)という。兄弟ともに武田家に使えるが、兄は長篠の戦いで討ち死に。戦人としてではなく行政官として使えていた藤十郎は生き残り、武田家滅亡の後、徳川家に使え内政の場で頭角をあらわすようになる。藤十郎改め、後の大久保長安である……。

 というようなことを妄想し幸せな気持ちになる。
 それはさておき、今年最後の読書はどうしようか。今のところの候補としては、買おう買おうと購入するタイミングをはかっていたけど中々買えず泡銭が入ったのでようやく購入できた『久生十蘭全集1』(国書刊行会)。楽しみ。

*1:先走りすぎた。シャグジと宿神をつなぐのはあくまでも中沢新一の考えであって、梅原はこの本の中でシャグジについて言及していない。梅原は『明宿集』を基に宿神と翁を同体として考え、さらに翁と摩多羅神を同体として見ている。

*2:こことか面白い。