昔書いた文書が大量に見つかりびっくりする。やはり整理は必要か。しかしもう他人が書いた文書みたいだ。

 J=F・リオタールはその著書の中でモダンとポストモダンの文化を特徴づけるために、大きな物語/小さな物語という用語を提出している。
 大きな物語とは、歴史主義の議論ではマスター・ナラティブとも呼ばれるが、その典型的な例はキリスト教の終末論や、生産様式の変遷によって社会主義革命に至ると考えるマルクス主義唯物史観に見る事ができる。

 リオタールは、啓蒙時代以降のモダンと呼ばれる時代に創造された、理性、自由、進歩などの価値観を、普遍的な価値を有する物語として正当化する言説を「大きな物語」と名付けたが、このような、歴史全体を統括するような理念に先導された思考はいまや完全に破綻しているといえるだろう。

 人間の生の差異を同一性へと還元する力を持つ大きな物語に対して、「小さな物語」はポストモダンの文化において多様に拡散し、分裂した局所的な物語として個々人の生を支えている。いわばそれは寄せ集めのテクストとして、個々人の中で「生の意味」というものを作り出している。精神史的な意味での20世紀はここから始まっているといえる。

 芸術におけるモダニズム運動はキュビズム以降の絵画や、プルーストジョイスなどの20世紀文学がそうであるように、様式についての強い自意識を持ち、芸術の固有性・自律性を強調する。また、この運動はリアリズムに代表される19世紀の伝統的な価値体系を廃し、小説の分野では意識的に作者と読者との間に共有される暗黙の了解を無視するという手法を取るようになった。
 他方でポストモダニズムの文学の代表者であるJ・バースは、次のような指摘をしている。

「文学の可能性は既に使い尽くされており、今やそれらを接木したり補完したりする事こそが重要である」(金曜日の本)

 つまり、ポストモダニズム的な技術形式の主要な特徴は、引用・反復・パロディ・雑種性・などのメタ意識的な「ひねり」のうちに見て取る事ができる。「語り」の構造、いわば「語り」のコードを自覚的に反転・逸脱させたメタフィクションは、物語の自己完結性に対するアイロニーとなり、さらには偶発的な出来事を組み込む事により、自覚的な創作主体による作品の統一という神話に疑問を投げかける。このような考えはモダニズム運動に連動する芸術の形式化運動に対するアンチといえるだろう。また、ポストモダニズム的な小説とはモダニズムによって獲得された形式を自己言及的に語るものだといえる。

 メタフィクションの典型的な例は、物語を停滞させる語り手(=作者)が物語進行について弁明するスターンの『トリストラム・シャンディ』や、「贋金使い」という小説を書いている小説家を登場させる事で、作中小説家の語る小説論を物語の中心になるよう構成されているジッドの『贋金使い』などが上げられるであろうし、現代小説ではたとえば「ニューヨーク三部作」(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)や『リヴァイアサン』などで知られるポール・オースターが上げられるだろう。
 『リヴァイアサン』は次のような物語である。

 主人公であるベンジャミン・サックスは「自由の女神」建造100年祭の日にパーティーで花火を見物しようとして4階から墜落し、危うく一命をとりとめる。 その日から彼の失墜が始まる。バーモントで森に散歩に出たとき、道に迷い、親切な若者のトラックで家まで送ってもらう途中、車の故障で困っている男に声をかけたところ、男は銃で若者を撃ち殺し、サックスがバットで男を殴り殺すという惨劇が起こる。 サックスが殺した男は、自分の思想を実行に移すアナーキストだった。サックスはその遺志を継ごうと「自由の怪人」を名乗り、アメリカ各地の「自由の女神」像に爆弾を仕掛けてまわるうちに、爆死を遂げる。 この新聞記事を読んだ「私」は、サックスに聞いた話を元に友の死の真実を明らかにする小説を書き始め、「自由の女神」が象徴する国家がつくった“偽りの自由”を暴き出す。

 この小説には中心がない。複数の物語が別々に、等しい重要性をもって進行していく。それゆえに筋は複雑だし、だから読者のほうにも、物語を読み解くうえで相応の努力が要求される。オースターの「虚構」へのこだわりは極めて強く、初期のニューヨーク三部作(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは実験色も濃い。だが、『ムーン・パレス』やこの『リヴァイアサン』などに至ると、そうした実験色は陰を潜める。けれどもそれは虚構へのこだわりをオースターが放棄したということではなく、小説の底部に深く沈潜させているといったほうが正確だろう。この作品においては、それ以前のモダニズム的なコードによる規定を受けず、どこまでも拡散していく様子が見られる。

 さて、西欧でおこったポストモダニズム現象は1980年頃日本にも輸入され、(いわゆる)純文学の世界ではその影響下に様々な実験的な作品が生み出されてきた。

 しかし、視点を少しだけずらしてみると、西欧と日本の文学現象を繋ぐ形で、日本にはすでに探偵小説という形式があったのである。
 笠井潔は探偵小説(ミステリ)論の中で次のような事を述べている。

「ミステリ(探偵小説)はコードの小説である。そこには確固たる形式がある。犯人と被害者と探偵がいて、最後には探偵が犯人を指摘して終わる。探偵小説においては、人間の個性は、その反復強迫のように繰り返される同じ構造のなかで、副次的で装飾的な役割を果たすにすぎない。この点で探偵小説は、人間の個性を前提とする19世紀的な近代小説から離れ、「大量死」と「大量生」で特徴づけられる20世紀の精神世界を反映した固有のジャンルを形成している。」(『探偵小説論I・II』、東京創元社

 笠井によれば、黄金期の英米探偵小説は第一次世界大戦の、日本の戦後本格は第二次世界対戦の破壊的な時代体験を背景として生じたものだという。その意味で大戦後西欧で起こったモダニズム芸術運動は、英米における探偵小説運動の時代的根拠ということができる。今ではあまり聞かれないが、かつて探偵小説を語る時のクリシェとして「人間が書けていない」という言い方があった。第一次世界大戦という、人類史の中でも未曾有の大量死の体験が古典的な人間像に死を宣言した。世界大戦を通過した時代が、登場人物をパズルのピースのように扱う奇妙な小説形式に20世紀的なリアリティをもたらしたのである。

 メタフィクションはある時期から物語の写実的な語り形式や描写方を疑問視し、それらを徹底して脱構築するような小説形式を意味するようになってきている。

 黄金期の探偵小説の中で、メタフィクションの典型的な例としてはクリスティの『アクロイド殺人事件』が上げられる。この作品は「私」が遭遇した殺人事件を描いた手記として読者の前に提示されるが、実はその「私」が犯人であるという結末が用意されている。このような、作中の作者(小文字の作者)が読者を騙す手法は探偵小説では叙述トリックと呼ばれ、今では当たり前の手法になっている。しかし、この作品が発表された当時はまだ、「私は…」という文章で始まる時、それは物語に内在した透明な人物による作品であるという、作者と読者の間に存在する不可視の近代小説のルールが存在していた。この近代小説の制度性を裏返した点で『アクロイド殺人事件』優れてメタフィクション性を備えているといえる。

 メタフィクション的な探偵小説は、『虚無への供物』の作者として知られる中井英夫によって「アンチ・ミステリー(反探偵小説)」と命名された。探偵小説では、どのように異様な謎も最後には、現実性の論理において解明される事が宿命づけられている。つまり、謎を現実の論理に沿って解体するところに探偵小説のルールがあるといえる。だから、このルールを自覚的に逸脱する作品の系列はアンチミステリと定義される事になるだろう。
 さて、日本におけるアンチミステリの一つの到達点として、私は京極夏彦の『鉄鼠の檻』をあげたい。
 この作品は箱根山中の巨刹で起きる連続僧侶殺人事件が事件の中心となっている。

 本作品の中では幾度も禅の公案について語られているが、それは禅の公案もまた形式体系を追求する事により、内部からその形式性を破壊するという意味で、作中においてミステリ(アンチミステリ=メタフィクション)と類比的に語られている。

「だから了念さんも一休も盤珪公案を嫌ったのだなあ。坊主どもも皆、大概今のあんたのようなことを考えおる。長い間公案はな、言葉遊びみたいになっておったのよ。その、最近ではなんと云いますかのう、そのゲ」
「ゲーム?」
「そうそう。頭を使うゲエムみたいに、如何に洒落た着語や下語―回答するか、そこに工夫を凝らすようになった。如何にも奥の深そうな回答を如何に綺麗に作るか、そればっかりに腐心する。良い答えの書いてある行券という虎の巻まで横行した時期があったそうでな。こりゃ求道じゃない。言葉の遊びだ。禅の堕落だ―」
「言葉の、小手先の技術に過ぎない訳―ですね」

 作者は言葉の遊びと化した公案を「ゲエム」という言葉で表現している。
 古典的な本格形式はしばしば小説の形で出されるパズル、あるいはゲームであると言われてきた。

 現在最もラディカルに探偵小説を書いている作家達は、自己のジャンルの形式性に際だって自覚的である。探偵小説の形式性とは、そのコードに集約される。先に引用した笠井の言葉をもう一度繰り返すならば、探偵小説とは『犯人と被害者と探偵がいて、最後には探偵が犯人を指摘して終わる』ものなのである。しかし、探偵小説というジャンルは、その形式性故に、自己の形式の無根拠さに直面せざるを得ない。それは英米探偵小説の黄金期に発表されたE・クイーンの『十日間の不思議』によくあらわされている。

 この作品は、ライツヴィルという架空の町を舞台にしたシリーズ中の一つであるが、登場人物が少なく、犯人の意外性など初めから捨てている話といえる。『十日間の不思議』は二部構成になっている。探偵エラリイが友人の不倫事件に頭を突っ込み、謎の脅迫者と暗闘を演じたりしたあげく、殺人事件が起きる。エラリイはバラバラに配置された様々な「一見なんでもないこと」の裏に、モーゼの十戒という秩序を見い出し、精神分析という知を活用して犯人を指摘する。ここまでが前半である。さらに、後半(解決篇)は、恋愛サスペンスが一転して宗教心理犯罪小説の相貌を帯びる。そして最後にはそれをもひっくり返してしまう。解決されて謎など消滅した場面から、「謎/解明」図式が相対化されるのだ。第一の解決で活用された精神分析という知(そのフロイト的な家族図式)は、それを現実の犯人狩りへ適用させる場面において自爆する。最終的な真相は、超人的な犯人が担う神のイメージを経由して、形而上学批判にまで達している。

 この作品のはらんでいる問題は『後期クイーン問題』などと呼ばれ、自覚的にその問題と格闘している作家として、日本では法月綸太郎などを上げる事ができる。この問題とは、要するに、完璧な形式体系であるパズル的=ゲーム的な探偵小説空間が、その根拠の致命的な不在を自己露呈するという事である。

 海外に見られるメタフィクション的な作品は、モダニズム様式を備えた小説がこの「根拠の致命的な不在を自己露呈」してしまったあと成立したものだが、日本の探偵小説はこの点に関して二重の拘束性を帯びている。
 つまり、探偵小説はその形式性故に探偵小説であるのだが、その無根拠さに直面してしまった今、その形式性を保つ事が出来ない、しかし、その形式性を無視してしまった途端それは探偵小説ではなくなるというジレンマである。英米本格の時代はまだ、壊すべきコードがあったのだが、今や、壊すべきコードすら見つからないという状況になっている。それゆえこの状況下において探偵小説作家は、空無と化した形式体系を自前で構築し、維持し、最後には自己破壊するという作業が課せられている。

「束縛無くして自由は無い。つまり檻が無くては檻から出ることはできない。檻から出たがっているものはまず檻を造らなければならないんだ。(略)見立てだよ、見立て。明慧寺は宇宙の見立て。脳髄の見立てだ。彼は出たいから造ったのだ」

 先に挙げた京極夏彦の『鉄鼠の檻』からであるが、この言葉に探偵小説のジレンマは集約される。モダニズムの失墜が生み出した形式体系の無底性によって生じた小説形式のアポリアはここにあるのではないだろうか。