みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ 鷹羽狩行

 年末、京都に遊びにいき、病院にいくという貴重な経験をする。京都の病院。看護婦さん(今は看護士さんというのか?)が舞妓さんの格好をしていたらどうしようとどきどきしていたら、そんな人はいなかった。同行の人にいうと「そんな人おるわけないじゃないですか」と呆れたようにいわれる。東夷の妄想力をなめるなよ、ものすごく凡庸なんだぞ、と思うも、まあ、呆れるよな。
 そういえば以前、京都にいった時のこと。同行の人と鴨川の上を渡りながら河原に等間隔で座るカップルを見て、あれは実は大部分が京都の観光課にやとわれたアルバイトなのではないだろうかという話になったことがある。あんなにいつもいつもきっちり等間隔で一定数のカップルが並んで座っているのはどう考えてもおかしい。安定して供給される仕組みがあるのではないだろうかと。いや、最初は自然発生だったのかもしらんが、「名物」になるに及び維持する必要がでてくるのは世の常。学校や会社で男女別々に集められて、当日、男女一組になって河原の決められた場所に座って楽し気に話しているふりをする。時給800円くらいで。いいな。東京に戻ってから、そんな話をしたと友人にいうと、実は京都では有名なアルバイトだけど、観光客には秘密で、京都に住んでも三代以上になるまでは明かしてもらえない秘密のバイトなのではないだろうか、という話になる。
「ということはつまりですよ。進学で京都に来た男の子がひょんなことからそのアルバイトをすることになるわけですね」
「季節は夏な。大学生活はじめての夏休み。サークルかなんかで仲良くなった生粋の京都人が本当はやる筈だったんだけど、急な用事で行けなくなり、代わりを頼まれるのな」
「事情は話されないまま、とにかく待ち合わせの場所にいって女の子にあって、河原で二時間話してきてくれとかいわれて」
「そうそう。待ち合わせは土下座前とかね。で、二時間話して別れるんだけど、そこでであった女の子の事が忘れられず、捜すことに……」
「なんだか森見ちっくですけど、いいですね」
「いいよね」
よくないよ。


 数年ぶりに年末帰省。実家に着いたその足ですぐに雪かきを命じられる。終わったら切れていた電球の変えを命じられ、三つ目を変えたところで「ついで」に神棚の準備をするようにいわれる。いいのか「ついで」で。神棚に幣束をかざり、食べ物を供え新しいお札をかざる。古いお札類をひとまとめにし、灯明を供える。庭にある地主神の社、台所、風呂場、手水場などにも幣束をかざりやっと休んでいると、深夜、年が変わったら神社にいき、さっきまとめた古いお札類を納めてくるようにと母にいわれる。寒いから面倒にございます、というと、たまの帰省くらいいうことを聞くようにいわれる。たまの帰省だからこそもう少し労ってくれてもよいのではないでしょうかと提案しようかと思うも聞き入れてくれないは必定なので、口を噤む。22時過ぎ、眠くなったといい母が寝床に引っ込む。
「良いお年を」
「良いお年を」
 一人になった居間で紅白が終わるタイミングに蕎麦をゆであげ、ちょうどはじまったジャニーズカウントダウンを見ながら、あー若い子はええやねーと食べだしたところで、このシチュエーションなにかにあったような気がするというか「きのう何食べた?」にあったよということを思いだし悶絶する。
 食べ終わったところで23時55分。外に出ると頬を裂く風に混じって白いものが。雪が降っている。引き返し長靴に履き替える。踝まで雪に埋もれながら徒歩で2分の裏山にある神社に向かう。0時を少しまわったところで境内にたどりつく。参拝し、おみくじをひき納所に古いお札類を納め、境内で焚いている火の前で甘酒を啜り体を温め帰宅。帰りがけ高校生くらいの男の子五人組が、神社で配っていたお神酒の瓶を片手に「これまじ酒だよ」「やべえ超酒」「飲む?」「飲んじゃう?」と騒ぎながら口に含み「ちょ、これまじ酒」「無理、飲めねぇ」「やべえ超酒」といって口々に雪に吐きだしていたのが阿呆で楽しそうだった。
 そういえば年越しにこの神社に参拝するのは15、6年ぶり。子供の頃は年越しのお参りというと、夜更かしをしているという興奮、行き帰りの肺がひりつくような寒さ、息の白さ、ふと脇を見たときの闇の深さ、ぼんやりとした提灯の明かりに常には無くざわつく参道(そういえば子供の頃「参道」と「産道」がおなじ音だと気づいて不思議な気持ちになったのもこの神社でだった)、境内に燃え立つ炎の勢い頬をなで眼の奥を焼く熱に自分がどこか違う場所にいる心持ちになり頭がくらくらして、あちら側にいけるような気が自然としたものだけど、今はそんな感じがあまり(でもやっぱり異界感はある。ちょっと)しないことに寂しさを覚える。帰宅して本棚にあった「幻想文学」をぱらぱら見ているとこんな文章があった。

 だから、物語はまず、断片として語られはじめなくてはならない。まるで、遺跡から発掘された陶片のように、一見ばらばらに見え、それを目にした人々はその関連性を見いだすことができないかもしれない。
 しかし、断片であるがために、それは却って見えない全体を予感される力にみなぎっていなければならない。そして、たとえ全体が発掘されなくとも、断片は断片のままで充分に美しくあらねばならない。

寮美千子「『夢見る水の王国』のための覚え書き」(「幻想文学58号」p44 アトリエOCTA)

 つまりは、はやく山尾悠子の新刊でないものかという話ですよ。本当に。今年こそは。ちなみに2009年最後の読書は城戸朱理『潜在性の海へ』(思潮社)だった。今年も願わくば良い本に出合えますように。南無。