嘘のような話

 ヒヨコ舎編『本棚』の2巻がでていた。帯に「cocco」とみえて、少し驚く。寡聞にしてあの「cocco」がこの本にのるほどの本好きだということを知らず、でもあの歌詞をつくる感覚というか能力を思えば本好きであってもなんの不思議もなく、知らなかったのはこちらの問題でしかないな、と頁を繰ってみる。
cocco」と本といえばどうしても彼女の作る歌詞からの連想で、漠然と、野溝七生子尾崎翠森茉莉矢川澄子アナイス・ニン萩尾望都ヴァージニア・ウルフ大島弓子、エミリー・ディキンスン、吉野朔実榛野なな恵神谷美恵子シモーヌ・ヴェイユ須賀敦子、とか、そういう、なんというか、ぎりぎりの感じがただよう作家(つまり私はcoccoをこういった作家とのつながりの中で認識している、というだけの話なのだけど)と親和性の高いような気がして、本棚もこの辺の作家達の本がならぶのでは、とか、あるいは画集とか環境問題の本とか、音楽の本とか、なんかそういうものがならんでいるのでは、と思うというのはあまりにもステロタイプではあるのだけど、ステロタイプステロタイプなりに何がしかの一端は掠めているのでは、という思いは、本棚の写真を見た瞬間、打ち砕かれる。
 大きな本棚に上から下までぎっしりと詰め込まれるのはハヤカワの青背、創元のラヴクラフト全集、サンリオ文庫……と、どこからどうみてもガチのSFモノの本棚。彼女の歌う世界とその本棚のあまりにもなギャップに仰天する。まるでこれは早川さんの本棚ではないかと思いながら、次の頁を繰った瞬間、そこに、本棚を指して微笑む、明らかに早川さんにしか見えない絵を見つけ、またしても仰天する。な、なぜ早川さん? この棚を見た編集の人が、これならということで早川さんを描いている人に依頼したのか? それとも「cocco」が早川さん好きとか?ありえるよなこの本棚なら、とぐらぐらする頭をささえ、なおも見ると、国書のSFはあるは、SFマガジンもずらりとバックナンバーがそろっているは、他にも色々な本が詰め込まれていてまちがいなくガチのSFモノの棚。発言を見ても、やはりどうみてもガチのSFモノ。

 いや、まあ、考えてみれば、ある作品と、それをつくった人と、その人の生活環境がそれぞれに「整合性」を持っている必要もなければ義理もないわけで(しかもその「整合性」にしたって、たかだか私の感じる「整合性」でしかないのだし)、別に「cocco」という人の作った歌から連想した「cocco」という人物の姿と、その人の暮らす環境が、私から見て全然「整合性」がないように見えたところで、そりゃ大きなお世話というもので。別に現実の存在としての「cocco」がSFを好きだからといってなんの不思議もないわけでとは思うものの、いや、でも、しかし、よくよく考えれば、あの歌詞の世界、それは例えば「Raining」の明るい絶望感だったり、「うたかた」の変化することへの透明な諦念のようなものだったりするそれは、「生き続けることに対して、彼女が払っているぎりぎりの税金」(ⓒ穂村弘)のようなものなのではないかと思い、そして、その「税金」とこの本棚の間には何がしかの「整合性」があるのかもしれない……、って事はないよなー。全然思いつかない。無理。

S-Fマガジン』を読み始めたのは高校生くらい。高校生だと毎月買うのも辛かったのですが、オタクという言葉が生まれたあの時期にあの雑誌を読んでいたことが現在の活動の大きな燃料になっていると思います。
『本棚2』p46

「あの時期にあの雑誌を読んでいたことが現在の活動の大きな燃料になっていると思います」
 
 やっぱり無理。

 それにしてもと拭えぬ違和感に、ふと頁の最初をみたら、そこにはこう書かれていた。

 coco(漫画家)

 氷解。自分の注意力のなさに絶望した。あやうく友人に「cocco」の本棚が大変なことになっている!とメールし、また失笑をかうところだった。