時代小説専門雑誌『KENZAN!』最新号の目次に藤本泉の名を見て驚愕する。生きていたのかと驚き、著者紹介を見るも、やはり消息不明のままのよう。してみると未発表の原稿でも発見されたのだろうか。いや、しかし本当に驚いた。驚いたといえばアンナ・カヴァン『氷』やマイクル・コーニイ『ハローサマー・グッドバイ』が新刊書店の棚にあったりして南無三宝。


 体力が落ちたなと思う瞬間が最近は多々あって、それはたとえば長距離バスで以前なら五時間や六時間の移動なんて平気の平左が、あらいやだ、二、三時間もするともう顔といわず首筋といわず、からだじゅう脂でにとにととしてきて、澱のように沈む疲労にやがて全身がきしみだし、眠りに落ちることもできず隣の座席のでかいおっさんがからだをこちらに寄せてくるのを押し戻しながらぼんやりと窓の外に目をやることくらししかできないというのは、これはなんなんだろうね。ようするに疲れた。それでも京都でおこなわれた川上未映子千野帽子の対談は非常に刺激的で面白く、いった甲斐があったというものであることよ。
 
 東京を発ったのが23時過ぎで、京都に着いたのが翌日の午前の6時過ぎ。約7時間。ようようたどり着いたころにはそりゃからだも痛いわなというもので、とりあえず目についたマンガ喫茶でシャワーを浴びて目覚めの一助。そのまま東寺の境内を散策し、電車で京都駅にゆき、さてどうしたものかと思う間にも歩みは進み、北進。途中ふらふらと迷いながらたどり着いた麩嘉に飛び込みふりで買った麩まんじゅうが非常にうまー。公園で食べようと思って買ったのに、歩きながら六つをぺろりといってしまったというのはわが事ながら意地汚いな。本格的に降りそうな雨に怯えていたのは杞憂だったようで、いつのまにやらかんかん照りに肌がじりじりと焼けてゆくのがわかるこれが後でお風呂に入ると痛いので非常に困る。私は七難隠すタイプの肌で、日に晒されると一息に赤くなり、酷い時は火傷のように膨れあがり、実際むかし海にいったときなんかは耳の後ろがぶくりとふくれ、指でさわるとなかからじくじくと膿のような液体があふれでて、しかもその時は駅に野宿していたのでこりゃあかんと夜があけたその足で病院に駆け込んだら、こりゃ火傷だねと驚かれたくらいに肌が弱かったなぁ、と歩いていたら、鳥居に輝く五芒星。あれはなんぞとみてみてみたらいつのまにか晴明神社の前を歩いていた。

 あれですね、境内に一条戻り橋のミニチュア(再現したもの?)があるのは良いとして、まさか橋の下にいたという式神を「再現」しているとは! 凄えよ! 式神を具象化しているよ! 押し合いへし合う修学旅行生を横目に参拝し、もともとの戻り橋を通過し、今度はひたすらに南東の方に歩くも途中で力尽きバスに乗り目指すは三条。バスを降りしばしうろつき、たどり着いたは一澤信三郎帆布。素敵なバッグが目白押しで、ああもう目移りすることこの上なく。あれもいいこれもいいと手触りを楽しみ肩にひっかけ手にぶら下げて、結局カーキ色のトートバッグを購入。荷物を詰め替えそのまま大きな通りを進み、知恩院へ。聳える山門に圧倒されながら勾配のはげしい階段をのぼり、本堂へ。お参りししばしぶらつき、そのままどこをどう歩いたものやら青蓮院に。はじめてきたけどいいですねここ。庭を眺めぼんやりとしているうちに疲れがでたものやらうとうとと、気づくと対談の時間が近づいていた。慌てて近くの駅にゆき、色々乗り継ぎ会場になっている場所へ。思っていたより早く着いたはいいけれど始めての場所で勝手がわからず、というか看板に場所が書かかれていなかった(と思う)ので、どこでやるのかわからずしばし彷徨い、ようようそれらしきところにつくと人が並んでおり、前の方に尋ねるとここだという。やれやれやっとたどり着いた、と壁にもたれしばしぼうっとしているも、時間の流れは中々おそく、いっかな開場の様子が無い。で、どんなきっかけでかはわすれたけれど、初めに声をかけた方と話し始め、し始めると驚くほど趣味、というか読んでいる本の傾向とか好きな作家が似通っていて、結局、講演終了後も京都駅まで話し続け、翌日、京都を案内していただくことになる。良い出会い。

 で、対談。
 印象に残ったことはそれはもうたくさんあって、それはたとえば、物語と批評のバランスの問題で、あの奥泉光でさえも、物語の機能として人を癒す力というものがあり、その力(あるいは機能するということ)は決して否定しきれないというようなことをいっていた、という趣旨の千野帽子の発言だったり、それはたとえば、川上未映子の「私」というわけのわからないものを、「私」を書くというシステムを使って、まるで「私」があるように語っていることに対し、恥じらいを覚えているように感じさせる文章が自分にとって面白いもののようだ、という言葉だったりして、そして後者の言葉には強く反応してしまい、それは、この講演の数日前に読んだ古井由吉にこんな文章があったのを思いだしたからだったりする。

だいたい、小説を書くということ自体が、相当に恥かしい行為なのだ。人は誰しも、必要のない嘘はつきたくない。また逆に、自分の心の内奥にかかわる本当のことは口にしたくない。小説を書く人間の手にする筆がまるで鉛の塊がついているように重いのは、この二つの気持ちがたえず働いているせいであるが、結局のところ、彼はこの厭うべきことを好きこのんでやっているのだ。
 この二つの本源的な羞恥を相手に、日本の近代作家はおそらく西洋の近代作家よりもはるかに繊細かつ陰湿にわたり合ってきたのではないかと思う。西洋の近代作家は羞恥という点では、まだしも、伝統として生きている芸術形式によって、つまりは超個人的なものによって救われているようだ。この意味で、彼らは日本の作家ほどに、物を書くといういとなみにおいて、「個人」の中へ放り出されてはいないと私は考える。それにひきかえ日本の作家の場合は、小説を書くことが芸術的立場である前に、「私の」人間的立場であるのだ。(中略)
 私はまだやみくもに、恥ずかしげもなく、物を書くという恥ずかしいいとなみに突進している。おのれを顧みる余裕もなく、表現欲だけが―私は現在失業中で無為孤独なので―ほかに情熱を吸い寄せて鈍重に動いている。ただほとんど一文章ごとに、私は自分にとって書くのがつらいことと、それほどでもない事とを、書痙(物を書こうとするとケイレンを起こす病気)ぎみの右手でもって感じ分けている。そして感じ分けてどうるかと言えば、書きづらいことのほうへ重い舵を取っていくことにしている。そうすると、私にとって物を書くいとなみはいよいよ怪しげになり、現実と非現実の間からウサン臭い気が立ちのぼってきて、私の手はいよいよ書痙に傾いていくが、しかしその分だけ、私は右手で物を考えているようだ。

古井由吉『招魂としての表現』p30〜31 

「わたくし率イン 手ー、または世界」?

 あとはこんなところ。

良い文章は上手下手にかかわらず、他者への洞察によって自分を相対化しようとつとめ、しかも相対化しきれない自分をあらわすものだ。自分が結局は自分でしかないことに、許しを求めているような表情が、良い文章にはどこかしらうかがわれる。

古井由吉『招魂としての表現』p92

 恥らい方にも色々あって、そりゃ顔を覆い恥らう素振りをみせるその手の内でほくそえんでいるような、なにか自分の感受性をこれ見よがしに見せつけ押しつける卑しい恥じらい、というものもあるにはあるのだろうけど、それでも、やはり恥じらいというものはあるのだろうなと思うし、含羞というのだろうか、どこかにわずかな後ろめたさを含んでいるような文章というのは、良いなと思う。

 それからあと気になったのが、川上未映子の発言で、彼女は最近「中国のテロ地帯」へいってきたという。彼女はそこで見たものをコトバにできないかという。そこにいる人たちは自分達のおかれている状況をコトバにするすべをもたないのだという。で、そこで、そこにいる人たちに代わって、その彼らの置かれている状況を代弁するのではなくて、そのものとして、その場で起きていることをコトバにしたいのだという。そういう可能性が「文学」にはあるのではないだろうかという。

 で、これは多分に私の解釈が入るのだけど、川上は「他者」の他者性(川上は「他者」という安易な言葉は使っていない)を犯すことなく、そのものとして、その場で起きていたことを書ける可能性が「文学」にはある、というか、それこそが小説の可能性ではないだろうか、というようなことをいっていて、それはもちろん、ひところ盛んにいわれた、飢えている子供を前にして「文学」はなにができるのかとか、コトバは外界を正確に再現することができるのか、とかそういった話ではなしに、なにかがあったというその痕跡をこの世にとどめることができるかもしれないという可能性、コトバをもたず、己が生きてそしていま現に晒されている状況を表すことができないものの「代わり」に、その世界それ自体ではなく、その世界の痕跡をこの世に残すことはできないのか、という川上の倫理的な態度のように思え、なんというか私は不覚にも感動してしまった。
 で、先の「文の中の恥じらい」ということと考え合わせ、「他者」を「他者」足らしめている他者性を排除することなく、そのものとして、その場を書ける可能性が「文学」にはあるかもしれない、と同時に、否応なしに、書かれることによって、剥奪されてしまわれかねないなにか(それは例えば他者性と呼ばれるものかもしれなく)があり、書くことによってなにか(それは例えば他者性と呼ばれるものかもしれなく)を剥奪しかねない力(=「小説」というシステム)を、己が技術として持つというのは、先の、「私」を「私」たらしめるシステムによって「私」と語ることの恥じらいとどこかで関係しないのでしょうか、というような事を聞きたかったのだけど、なんかこう、うまくコトバにできず、質問する機会を逸してしまった。残念。でも、手挙げるの恥ずかしいし。