お前は断言する、存在とは休息である、運動の中の休息であると。F.カフカ

 6月7日、リチャード・ブローティガン『東京日記―リチャード・ブローティガン詩集』購入。帰りの電車で読んでいたら、それが1976年の5月から6月にかけて日本に滞在していたブローティガンが書いた詩だということにおそまきながら気がついたのは、「東京から高速道路で大阪へと向かう」と題された詩の最後にある「浜松 一九七六年六月七日」という文字に目がいったからだった。
 前日の詩をみると、「東京 六月六日」とある。という事はちょうど32年前の今日、という事は約11680日前、という事は約280320時間前に、ブローティガンがこの東京から大阪へと移動していたのか、という、たとえ32年前の今日に東京にいたとしても、あるいはこれが2008年の事だとしても、どっちみちブローティガンには会えなかったなのだな、という当たり前のことを思い、何だか不思議な感じがしてしまった。いや、まあ、それ以前に32年前に私は生まれてもいないのだけど。そしてどうやら彼は6月9日には東京へ戻ってきて、「病院に友人を見舞いに行っ」たり(一行目はこう始まる「病院にカズコを見舞いに行ってきた」この「カズコ」とは藤本和子のことだろうか、この間文庫化された『芝生の復讐』は、本編は勿論、解説の岸本佐知子の文章が素晴らしかった。紀伊国屋スーパーでブローティガンに「会った」彼女と、東京で彼に「会えなかった」私)、「こわれた時計をもっ」て「東京を歩」きまわったり、明治神宮に忍び込んで乳繰り合ったりするらしい。いいな。なんだか楽しそうだ。


 香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』を読んでいたら、いきなりこんな文があった。

 その工作舎とかかわるようになったきっかけはごく単純で、高校生のころから『遊』の読者ハガキを何回か送るうちに、編集者から「一度、遊びにきませんか?」と電話がかかってきたのだ。工作舎の本を読むようになったきっかけはさらに単純で、「本屋で見たから」だ。しかしその本屋があった場所は東京ではなく北海道小樽市だから、少し特殊かもしれない。私は小樽市の中学に通っており、たしか塾の帰りに寄った本屋の新刊コーナーで工作舎発行の『二十一世紀精神』という本を見つけたのだ。私は中学3年、1975年10月のことだ。

香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』p6

 ここを読んだ瞬間、なにかがひっかかり、はて、と思っていたら、どうやひっかかっていたのは「小樽」「松岡正剛」「工作舎」という単語だったらしく、やがてこんな対談を思いだした。

〔重松〕そもそも京極さんは北海道のご出身ですよね。いまでいうサブカルとか雑誌文化に触れられた原体験というのは、「少年マガジン」あたりですか?
〔京極〕ああ……僕の子供時代には、いわゆる幼年〜少年雑誌って小学館の学年雑誌くらいしかなかったですよね。そこに漫画雑誌が加わることになるんだけど、そうですね、そういう意味では「少年マガジン」なのかな。(中略) で、そのあと中学の後半ぐらいから工作舎の「遊」あたりが。
〔重松〕「遊」って北海道の町の書店で手に入ったんですか?
〔京極〕売ってなかったように思います。
〔重松〕じゃあ、どういうルートで。
〔京極〕それが、覚えてないんです(笑)。創刊号は持ってなかったんですが、気づけば毎号取り寄せてました。一体最初はどこで手に入れたんだろうね。
〔重松〕その原因は見えないまま?
〔京極〕うん。気がつくと書店に注文しており、毎号届けてもらって――当時は配達をしてくれたんですよね。だから「少年マガジン」と一緒に「遊」が来るような。
〔重松〕すごい(笑)。「遊」のどこにいちばん惹かれました?
〔京極〕第2期になってやや路線変更があったわけですが、なんか第1期の「遊」は「読んで欲しくない」ってオーラが出てましたたでしょ(笑)。もうひとつはタイポグラフィックの問題ですかね。文字が多かったでしょ? あれがたまらなかったんですよ。これは異論がある方もいらっしゃるかもしれないけれど、基本的に「和風」だったし。当時はジャパネスクみたいな風潮はそれほど顕著じゃなかったから、そのへんに親和性を感じたんでしょう。
〔重松〕「現代思想」みたいな洋モノのたたずまいではない、いかにも松岡正剛さん的なたたずまい。

WASEDA bungaku FreePaper Vol.08_2007_01*1


 奇しくも両名同じ年頃に小樽という町で工作舎との出会いを果たしているわけなのだけど、1960年生まれの香山リカと1963年生まれの京極夏彦では3歳の年齢差がある。この年頃の3歳差というのは中々に大きい。この年齢差だと、京極が中学に入学するころ、香山は東京の高校に入学し地元小樽を離れることになる*2。というわけで、京極が工作舎にであった頃には、香山は同じ町にいなかったのだけど、それでも、小樽というそれほど大きくはない(のかな?)町で、工作舎という特異な文化集団に出会った早熟な(この年頃で工作舎の本と出合うなんて内容を「理解」したかどうかなんて関係なく、そら早熟に決まっている)少女と、少年がいたという事に私はなんだか感動に近い驚きを覚えてしまう。で、そんな早熟な二人が互いの事を知りもせず、もしかしたら同じ町の本屋ですれ違っていたかもしれないと思うと、なんだか、もう、胸がしめつけられるようになってしまうというのは我が事ながらどうかと思う。きっと「地方」「早熟」「少年少女」という単語の所為だと思う。

 そういえば何かのインタビューで京極が、高校時代はニューアカにちょっとはまってフラクタルの絵だかなんだかを書いていただかなんだかという話を読んだような気がするのだけど、何で読んだか思いだせない。で、例によって例の如く部屋を漁ったのだけど見つからず、その代わりこんなものを見つけた。ちなみにインタビュアーは佐々木敦

―― では「小説は構造である」という小説観は、どこから生まれたものなんでしょう。
京極 僕はグラフィック・デザインを生業にしているわけですが、そちらのほうの仕事も同じような考え方でやってますね。
 別に構造主義とか好きじゃないですけどね。現代思想は面白いけれど、罠が多いでしょう。理にかなっているものの、結局なにも語っていないようなときもままあってですね(笑)。ニューアカも高校生の頃ははまったけれど、恥ずかしくなってやめて。

ユリイカ1999年12月号 特集ミステリ・ルネッサンス』p54〜55

 ところで『ポケットは80年代がいっぱい』には、松岡正剛との思いでも書かれてあるのだけど、これがまた中々に恐い。昔に比べ「体制」に近づきソフトになってゆくように見える松岡の姿に強い抵抗感を持ち、距離をとっておきたかった香山なのだけど、あるイベントの開会式に一緒に出ることになる。そこで二人は10(20?)数年振りの再会をはたす。

何事もなく開会式はすみ、私は「こんなものか」と半ば安堵し、半ば失望しながら会場をあとにしようとしたそのとき。松岡さんがつかつかとこちらに近づいてきて、私の背中に両腕をまわして軽いハグをしながら、低い声でこう言ったのだ。
「やぁ、会いたかったよ。久しぶり」
 松岡さんは私を「香山」ではなく、本名で呼んだ。「香山リカ」名を名乗るようになったのは、工作舎での“丁稚奉公”を経て春美のところで『HEAVEN』に携わるようになってからであり、はじめて松岡さんに会ったときは私は本名を使っていたのだ。とはいえ、それは半年ほどの話で、その後、「香山リカ」になってからの時間のほうが圧倒的に長いのに、松岡さんは「私が知っているキミは、いつまでたってもあのときのままだよ」と思っているようなのだ。私は、足も口もすくんでしまって、文字通り固まった。「この人にはかなわない、ヤバイ、ここで“さあ、こっちへおいで”と言われたら、どこまでもついていってしまいそうだ。私はまだ松岡さんの磁場の圏内にいるんだ」と私は震え上がった。

同上 p123〜124

 そういえば本に巻かれた帯の、内側に折り曲げられた部分には1987年の香山リカの写真が使われているのだけど、非常に可愛い。一見の価値があると思ったことであるよ(ちょっと目が恐いように思うけど)。

*1:表記はこれでいいのだろうか?

*2:京極が早生まれで、香山が早生まれでないならば、中学時代が一年かぶる可能性があるのか?と思い調べてみたら、wikiこんな事、及びこんな事がかかれていたので、もしこれが本当なら中学時代まではかぶっているみたいだけど、まあ、何にせよ京極が工作舎に出会った頃には、香山は東京ですな。