角砂糖角(かど)ほろほろに悲しき日窓硝子唾(つ)もて濡らせしはいつ(山尾悠子)

 ひょんな事からここ数年探していた歌集を手に入れる。山尾悠子『角砂糖の日』(深夜叢書社)。狂喜する。
 山尾悠子に一冊だけ歌集があるという話をなにで知ったのか記憶も定かではなく、それを知った時も彼女の小説は好きで好きでそれはもう好きで国書の『山尾悠子作品集成』も『ラピスラズリ』も玩味熟読し*1、といっても前者で一番好きなのは『月蝕』なのです、という話しを先だって久しぶりにあった先輩にしたところ「それあれだよね、巻末の解題で石堂藍が『わかりやすいファンタジー』とかいってるやつだよね」といわれ、私はわかりやすい話が好きなんですよといいつつも、あの熱にうなされ夢の中を彷徨うような奇妙な粘り気のある文章と描かれる少女の姿に私はこれまた大好きな岡本綺堂の短編「寺町の竹藪」という作品の中で少女がつぶやく「あたし、もうみんなと遊ばないのよ」という戦慄する台詞を思い浮かべてしまい陶然とするのです。しかしながら短歌という形式には全く興味がなく、というよりも短歌という形式の面白さが皆目わからなかったので、歌集があるという話にも、それがどれほど手に入れがたいものであるかという話にも興味はひかれず、ただそういうものがあるという一つの情報として蓄えられるだけで、読みたいともなんとも思わなかったのだけれども、ここ一年、短歌の面白さに惹かれはじめ、似た傾向のものとはいえ歌集を読み、これまたひょんな事で知り合った人にいくつか歌集をかしていただき短歌に親しむようになるといつのまにか意識の表面の近いところを山尾悠子の歌集というものがふらふらと漂いだして、先日まったく別の用事でネットを遊覧している最中、よくいく古本屋の数ヶ月前の目録の中にそのタイトルを見いだしてしまい思わず電話をかけるとその日の業務は終了していて、翌日、電話ではなく直接お店を訪れたというのはおそらくそれを見つけたかもしれないという楽しみをできるだけ引き延ばしていたいからという心持のあらわれであるにしろ自分でも不思議ではある。電話すればいいのに。お店に行き棚前をうろうろとし、店内をぐるぐるみたところで発見できず、意を決してお店の方にうかがう。
「あの、少し前の話なんですけど、こちらのネットの目録で山尾悠子さんの『角砂糖の日』という歌集がでているのをみかけたのですが、在庫ってまだありますか?」
 するとお店の方は「あー、あれねー」といってすまなさそうな顔になる。「あれ、ネットにのってすぐに売れてしまったんですよ。5日くらいだったかな」
 思ったほどにはがっかりしない。ああやっぱりかそう簡単には手に入らないよな、というかそう簡単に手に入ってたまるか!という理不尽な感情に襲われ、むしろ無かったことを少し嬉しく思う。
「あー、やっぱりそうですよね」
「売れたあとも何回か問い合わせがあったんですけどね……」
「あー」
「その後は中々入荷しなくて」
「あー、ですよねー」
「あー」しかいえなくなっている。

 と、そんなやりとりをしてから数日後。ひょんなことから手に入る。あるもんなんだなタイミングって。で、この歌に心震える。

昏れゆく市街(まち)に鷹を放たば紅玉の夜の果てまで水脈(みを)たちのぼれ

 一読して陶然。夕暮れがおとずれ街が闇に飲み込まれてゆくなか、そのゆるやかな時間と空間を切り裂くように地上から放たれる鷹。弓から放たれた矢のように鋭く飛ぶのだろう。紅玉を夕暮れのあの燃えあがるような巨大な落日と観ずれば、その死にゆく太陽へと鷹は一直線につきすすむ。あるいは太陽それ自体ではなく、世界が燃え上がっているような夕焼けでもいい。「紅玉」という硬い感じの言葉(この言葉が真ん中におかれることで歌がおそろしく引き締まる)、同名の林檎の発する馥郁たる香気を思いそれが夕暮れのイメージと交わりやがて夜へとなる。そしてその夜に向けて、鷹が空中に描く鋭い線と交わるように水脈が立ちのぼる。水脈を字義通り川や海の帯状の深くなっているところととれば、川、あるいは海から水が勢いよく立ちのぼる姿をみるのだけど、私は(水脈にそんな使い方があるか知らないけれど)地表を割り水が立ちのぼる姿を観じてしまった。地平に沈む太陽へ(あるいは世界の終わりのような夕焼けへ)放たれる鷹(それは同時に水の奔流を導くように飛ぶ)と、それを追うように地表を割って立ちのぼる水。美しい。あるいは空を水と観ずれば鷹の飛ぶあとに残る線それ自体が水脈ともなるけれど、「たちのぼる」とイメージを考えると、やはり水脈は地表からの方がいいなぁ。

 あとこんな歌も気に入る。

葡萄月・酢牡蠣・酸蝕白真珠 歯に貝殻の硬さ欲る夜は

 ところで山尾悠子といえば私は自動的に二階堂奥歯という名前を思いだしてしまうのだけど、書籍として刊行された『八本脚の蝶』に「奥歯さんのこと」という題で穂村弘がこんな文章を寄せている。

 編集者だった二階堂奥歯さんと夜御飯を食べながら、仕事の打ち合わせをしたことがある。終わりがけに突然、テーブルの上に水着が飛び出してきた。
「これから泳ぎにいきませんか」。
 ええ? と思う。時刻は夜の十時を回っている。その唐突さに異様なものを感じた。
 その後、何度か言葉を交わすうちに彼女のことが少しずつわかってきた。二十代前半の若さで、こんなにも多くの本を読み、鋭敏な感覚と高度な認識を併せ持ったひとがいることに驚嘆する。表現の世界ではエキセントリックで早熟な才能は珍しくないとも云えるが、このタイプの「本物」をみたのは初めてだ。
「水着」のような衝動性は、なんというか、生き続けることに対して、彼女が払っているぎりぎりの税金みたいなものだったのではないか。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』p445〜446

 この文章の最後に穂村はこんな歌をのせている。

風が、風に、風をみつめてねむらない少年探偵団の少女は 

 二階堂奥歯がネット上の日記(?)に「最後のお知らせ」を書いたのが2003年4月26日。
 その半年後にでた『短歌ヴァーサス 第二号』に穂村は30首の歌を発表しているのだけどその中にこんな歌がある。ちなみに掲載されている他の歌とは★マークで区切ってあり、一連の流れを持った歌として読めるようになっている。

風が、風に、風をみつめてねむらない少年探偵団の少女は
居酒屋の卓に水着は飛び出して「これから泳ぎにいきませんか?」
髪を切って男の子になったので(光のなかを跳ねる飛び魚)
これからって、もう夜中だよ、お酒飲んでるし、海まで遠い、いこうか
電卓に蝶がとまって走りだす数字はきみの口から溢れ
その遊びはほんとうに楽しそう、でも、たぶん、そのとき、あ
星々が風に溺れて叫んでる柵を跨いでみおろす夜の
ここに墜ちましたと指せばびちびちと光を割って跳ねあがる(?魚*2
さよならとつぶやく空にきらきらと理解できない電光掲示
いけなくてざんねんでした 迷い子になる準備すっかりできていたのに

なんというか、切ない歌ですね。

*1:そういえばここの2月14日の記事にある「山尾悠子新作書下し小説」はどうなっているのだろうか。

*2:原文では縦書きで「?」と「魚」は180度反転している。魚の跳ね上がる様子が視覚的に表現されていて面白い。