新旧こもごも

本屋で中村明日美子『同級生』と岡崎京子『東方見聞録』を購入。

 男子校の合唱祭にむけての練習中、草壁はとなりの生徒が歌っていないことに気づく。少年の名は佐条利人。学年でも頭が良くて有名な生徒。教室に忘れ物をとりに戻った草壁は、佐条が一人で歌の練習をしているところにでくわしてしまう。やる気がないのではなく、黒板がみえないので歌えなかったのだという佐条に、草壁は思わず言う。「合唱祭まで歌みてやろうか」 そして始まる繊細なメガネ優等生・佐条と天然音楽バカ・草壁の恋の話……。
 というわけで、中村明日美子すごいなぁ。この年頃の(極々一部の)少年だけが持つ静謐な危うさとでもいうべき妖しさと、少年同士の友情の延長線上に成立しかねない(いや、そこには一線があるわけではあるのだけれどそういった線が消えてしまう季節というのもあるものなのだ多分)微妙な関係を巧みに描いている。こんかいのところ書下ろしを含め六話収録されているのだけど、一話目、二話目で二人が付き合うまでを描き、三話目で視点人物を教師*1に持ってゆくのも巧い。少年同士の閉じた関係だけを描くのではなく、大人の男(ちなみにゲイ)からみた二人の世界を描くことで作品に広がりをもたらしている*2。それにしても三話目で佐条がメガネをかける場面は異様に妖しい。
 ところで、公園の砂場の上で草壁が佐上の背中をさわりながらつぶやく「肩コウ骨は翼のあと て小説が」という台詞*3。これ、デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』のことかと思うのだけど、それを思いうかべる前にJ・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ』(野崎訳)の「バナナフィッシュにうってつけの日」を思いだしてしまう。翼を思わせる華奢な肩甲骨。天使の比喩。そうか、草壁にとって佐条は天使だったのか。


 ・少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて 葛原妙子


 岡崎京子『東方見聞録』は20年前の長編の初単行本化。これでるの知らなかったので本屋で見て無茶苦茶おどろく。岡崎京子の新刊ですよ新刊!
 というわけで読了。エキセントリックな女の子と彼女に振り回される男の子の話。『くちびるから散弾銃』とか『TAKE IT EASY』のころのアイロニーも何もないバブル真っ只中(直前?)の能天気な感じを思いだす。巻末の藤本由香里の解説にもあるけれどその後の『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』、さらには『UNTITLED』とか『チワワちゃん』(とくに表題作「チワワちゃん」!)のあの、なんというのでしょう、「ただごとではない切迫感」を思うと、岡崎京子という人は本当に遠くに来たのだなと思ってしまう*4。なんだろう、世界から意味が消えていってしまうような感覚。そのことで奇妙な安心を得てしまう怖さ。世界には(固定された瞬間に)絶対的な悪意が存在してしまうのだという事への諦念。岡崎京子の作品を読むといつもそんなことをぼんやりと思ってしまい悲しくなる。


 ・卵のひみつ、といへる書抱きねむりたる十二の少女にふるるなかれよ 同
 ・皿に割りし卵黄に目あり 屹とわたしをみし如く思へり 同

*1:この教師がまた格好良い。駅で倒れた佐条を迎えにいき桜の下を自転車で二人乗りしながら交わす会話。「ごめん 名前なんだっけ」「…佐条です」「佐条なに」「利人」「さじょうりひと… 親さクリスチャン?」「? …祖父が…」「あーじゃあおじいちゃんが名付け親なんだな ドイツ語で『光』だろ 『Licht』 『光あれ』だろ」 これは名場面でしょう。自分の「名前」をわかってくれる人。いいかえれば本当の名前を知るということ。物語的にはこの瞬間に二人は結びついているよ。

*2:五話目で草壁が先生に男同士のやりかたを聞きにいく場面を読んでいて、よしながふみの『月とサンダル』を思いだしてしまった。

*3:この台詞を佐条にいわせるのではなく、いかにも本を読んでいなさそうな草壁にいわせるところがまた良い。

*4:そんな中でp121の女の子の表情と台詞「この世に天国なんてないわよ」は後の作品を予感させる。