最近の奇遇

QueSera2007-08-16


 布団にうつ伏せになって山口雅也『奇遇』(講談社)を読む。首が凝ってきたので体勢を変えようと身動ぎした瞬間、積み上げていた本に肘がぶつかる。地響きを立てながら本が崩れる。落ちてきた本が頭に当たる。痛い。呆然とするも、残り数頁だしと崩れた本をざっと脇に寄せそのまま読み進める。読み終わり、興奮冷めやらぬまま参考文献に眼を通しているとどこかで見たタイトルが。気づいた瞬間、総毛立つ。ロバート・シルヴァーバーグ『確率人間』(サンリオ)。それはついさっき崩れてきた本の中、落ちてきたうちの一冊だった。このできすぎた「奇遇」に唖然とする。思わず写メを撮ってしまう。後ほど友人に見せたところ「……とりあえず君の部屋がいかに汚いかよくわかる」と言われる。そこか。そこなのか?つっこむところは。


 書店をぶらついていると面白そうな本を見つける。樋口ヒロユキ『死想の血統』(冬弓社)。ぱらぱら見てみるとゴスロリ歴史学というか分析というか、いわゆる「ゴシック」と「ロリータ」という価値観(あるいは概念)がどのように「誕生」し、それが何故日本で(どうやら「ゴシック・ロリータ」という存在は日本特有のものらしい)結びついたのかというような事を書いているみたいだけど、寺山修司丸尾末広なんかについても書かれていて中々に面白そう。詳しくはこちら。多分お好きな人は目次だけでたまらないはず。それにしても冬弓社、面白い本だすなぁ。手持ちが無かったので購入リストに加え、帰ろうとエレベーターに近づくとイベントの告知が貼ってある。何気なく見ると、さっき手にしていた樋口ヒロユキ『死想の血統』の出版を記念してのトークショーがあるという。ゲストは高原英理。慌てて踵を返しカウンターに行き申し込む。それにしても店に入った瞬間にもトークショーの告知は見ていた筈なのに全然気づいていなかった。この本を手に取らなければ恐らくスルーしていたかと思うと、これもある種の奇遇だと思い、不思議な気分になる。

 古川日出男のライブパフォーマンス(というか自作の朗読)を見に行く。普段行きなれていない地域だったので店の場所が良くわからず、その界隈に詳しい知人に案内してもらう。結構早めに着いてしまったのでぶらぶらしつつ、そういえばこの辺に昔WAVEというCD屋があってたまに来ていたという知人の話から、宮沢章夫東京大学[80年代地下文化論]講義』(白夜書房)、『東京大学[ノイズ文化論]講義』(白夜書房)の話になる。宮沢章夫の語り口がそれまでのエッセイに比べ、ひどく重たいように感じられて、何だかそういう語り口を選択せざるを得ないというか、そういう語り口を選択させる世相に、話しながらお互い暗い気持ちになるかと思いきやそんなこともないのは、ぎりぎり感というかその話し方、身振りが芸として完成されているからなのだなというところで時間になったので店に入る。入り口を入ったすぐ横にいきなり古川本人がいて驚く。私はこういうイベントはよくわからないのだけど、何か色々バンドみたいな人たちの演奏とかあったりしながらビール片手に良い気分で聴いていると古川日出男の朗読が始まる。最初は挨拶代わりということで『ボディ・アンド・ソウル』(双葉社)から「作家フルカワヒデオ」の日常を描いた一節。

 人生はブンガク虎の穴である。三日間つづけて二十枚超の原稿を書きに書いて感覚麻痺。喝!を入れるために早朝に築地市場に突入を決意し、午前七時半には名称「魚がし横丁」なる場内の一角に。
―中略―
ほろほろと酔いはじめながらも自らに諭す。瞬間も鈍らにならないように、研げ。研ぎすませ。言葉とイメージを、あらゆる感覚をひらいて、切磋琢磨しろ。これが僕自身の十戒だ。第何条かはわからん。しかし人生はブンガク虎の穴。
 フルカワヒデオをブースとせよ!
 ですから皆さん応援してください。

古川日出男ボディ・アンド・ソウル』(双葉社)p152〜154

 と、酒も入っていたのでうろ覚えなのだけど、たしかこの辺りを朗読した後、新作「ハル、ハル、ハル」(河出書房新社)から「スローモーション」「8ドッグス」の一節をそれぞれ朗読。上手いのかと問われればよくわからんと答えるけど、何かしら憑依している感じでよいよい。こうして文章を書き写しているとあの声が蘇り、それが眼で見て手で打つこの引用作業に多重性を与えているようで変な感覚。店をでるとざんざ降りの大雨。ずぶ濡れになりながら地下鉄の駅までダッシュし知人と別れて帰路の電車の中で日付が変わった瞬間、今日(だから昨日)が自分の誕生日だったことを卒然と思いだす。20代最後の誕生日だということもついでに思いだし暗鬱とした気分にすらもうならない。


 樋口ヒロユキ『死想の血統』(冬弓社)を読み終わり、トークショーまで時間があったのでよく行く古本屋街を冷やかす。行きつけの店に入りふと戸棚を見るとさっき読了した『死想の血統』の中で取り上げられていた丸尾末広少女椿』(青林堂)が鎮座ましましていて、もうこんな奇遇には慣れっこさと嘯くもやっぱり驚く。一瞬食指が動くも前に立ち寄った店で加藤九祚『天の蛇―ニコライ・ネフスキーの生涯―』(河出書房新社)他何冊か買ってしまったので購入はせず。そう、不勉強にして知らなかったのだけどあのニコライ・ネフスキーに評伝があったとは。『月と不死』とそのタイトルからして美しい名著をものにしているこのロシア出身の民俗学者については、柳田や折口、石田英一郎が語る姿でしか知らなかったのだけど、彼の生い立ちからその死までを描き、さらには付録として彼を知る人々の思い出話や、著者がネフスキーの娘さんを尋ね聴いた思い出話なんかが収録されていてとても良い。
 新宿に移動しかなり時間があったのでちょうど開かれていた古書市を覗きにいく。そこで長年探していた熊本県体育協会編『肥後武道史』(青潮社)を見つけてしまい欣喜雀躍して購入。財布のこととかまったく頭から抜け落ちていた。昭和15年に発行されたものの復刻版で、「恰かも皇紀二千六百年に當つて待望の好篇を得たることは肥後武道史の爲に欣快に堪へざる所なり」と時代を感じさせる文章がある。肥後藩で行われていた流派の伝系がまとまっているのも嬉しいけど、師範家(肥後の柳生流)の話や、最近では甲野善紀のおかげで知られるところとなった無住心剣術の流れを汲む雲弘流の話、さらには明治35年に「揚心流柔術、竹内三統流柔術、汲心流体術、天下無雙流捕手、四天流組討*1、全流、鹽田流小具足」の七流派によって結ばれたという「肥後流射術指導に関する協定」という話が面白い。特に最後の話は柔道の普及と合わせて考えると非常に興味深い。しかもこの協定書の流派代表の中に「元四天流組討教師 星野九門」という名前が見えるのだけど、この人たしか嘉納治五郎と交流があったという人。嘉納治五郎が五校に赴任したのが明治24年で、この協定が結ばれるのがその11年後。その間にあった諸々の出来事を思うだけで御飯三杯いける。ついでにと種村季弘『影法師の誘惑』(青土社)も購入。

 時間がきたので移動しトークショーへ。何か、二人とも黒っぽい感じだった。定員30名でほぼ満員。丁度良い人数加減。開始時に樋口ヒロユキが「今日はここへ来る前に鎌倉の澁澤さんのお墓にいってきました」とか、高原の「我々は澁澤兄弟ですから*2」というジョークがあり、だからというわけでもないけど、全体の中で言及された回数はそう多くないにもかかわらず澁澤関係の話ばかりを記憶してしまった。とりあえず高原がデビュー前に青木画廊で澁澤達とすれ違っていたという話や、何かについて意見を求めるとつねに「うん、あれは良いね」「ああ、あれは駄目だね」という非常にあっさりとした回答が返ってきたという話が興味深く、特にここで語られる澁澤像というのは、年下の友人巌谷國士が描くところの澁澤の姿を髣髴とさせる。

写真では知っていたけれど、予想以上に鋭角的で、色が白く、皮膚が薄く、すっきりとした顔だちの人である。太い黒ぶちの眼鏡がよく似合い、ふしぎな精悍さをかもしている。だがなにかの拍子にその眼鏡をはずすと、眼は以外に小さくて、とろんとした感じで、童顔にもどってしまう。まんなかから分けた直線的なばさばさの髪を、ときおり両手で掻きあげる。その手は、よく動く。ぱっとふりあげて、万歳みたいな格好をしたりする。そんなときは声もよく出る。甲高いハスキーな声で、喋るというよりは、叫ぶ。対話するというよりは、ひとりで勝手なことをいっている。すばらしく魅力的な人物だ、と思った。
―中略―
 そのうちに酒場は混沌としてきた。なにもかもごちゃまぜになった。澁澤さんはあいかわらず断続的に両腕をふりまわしたり、叫び声をあげたりしていた。私もいろんなことを喋ったり、質問をあびせたりした。なんでもいいから話をきいてもらいたい、というような、未熟な若造らしい態度であったろうと思う。ところが澁澤さんの対応ぶりは、それまでに私の体験したことのない種類のものだった。私がなにかいうたびに、彼は「そうだ!」とか「そうかな!」とか叫んで、腕をふりまわすのである。話が早い。突発的に反応があり、一閃にして結論が出てしまう。

巌谷國士澁澤龍彦考』(河出書房新社)p15〜16

 というわけで全体の話の流れは忘れてしまった。当日の流れとしてはこちらの方に詳しい。→死に忘れましたわ
 ただ、帰宅途中、購入したばかりの種村季弘『影法師の誘惑』を読んでいたらこの日のテーマにもなっていた「少女」「人形」というキーワードが章題になっていてちょっと驚く。特に「人形の解剖学者 ハンス・ベルメール」というタイトルで、『死想の血統』の中でも第二章「人形、ひとがたの呪具」で詳細されている「異形のひとがた」とそれを創造したハンス・ベルメールという「異人」について語っている。

 任意の関節人形を仔細にながめるがいい。首のつけ根とセックス、乳房と臀部、脚と腕、唇と肛門は、臍を反射の中点として類推的に対応し、転換され、同化し、重なり合う。下等なものと上等なものとの類推による転換は際限もなくくり返され、やがてかつての孤独者はついには「君*3」と「私*4」との間に立ちはだかる限界を破って両性具有的な超人称的宇宙へと偏在するにいたるであろう。

 種村季弘『影法師の誘惑』(青土社)p126

 本来自我以外の何物にも所属せず、所属することを潔しとしなかったこの画家をどうしてもなんらかの系譜上に位置づけようとしたければ、私は、その汚穢と卑賤、総じて下等なものへの嗜好において、反自然の狂熱と父親(造物主)憎悪の傾向において、ヘルマフロディトゥス的なその自己同一性の希求において、ルネサンス期の錬金術師たちの列に加えるのがもっとも妥当なのではあるまいかと考える。それかあらぬか『イマージュの解剖学』のある章のエピグラムにベルメールパラケルススの謎めいた言葉を引用している。
 曰く―「蠍が蠍を癒やす」と。

 同上p138

 それにしても、トークショーの直前にその日のテーマの一部をなす話を含む本を購入していたというこの奇遇に私はまた、いやはやと首を振るのでした。

*1:音が似ているが三倉佳境『関節王』(秋田書店)とは関係ない……と思う。

*2:周知のように高原英理は今は無き『幻想文学』で澁澤龍彦中井英夫の推薦でデビューしている。樋口ヒロユキは今回の本の帯に『平成の澁澤龍彦ここに降臨』という惹句がある

*3:「ドウ」とルビ

*4:「イツヒ」とルビ