書店で20歳前後と思しき青年が二人、棚の前で話しているのを見る。「やっぱりドサドだよドサド」「ふーん。ドサドか覚えておくよ」 どうやらマルキ・ド・サドのことらしい。世界は広い。

 小竹向原で知人と観劇。青年団を母体とする新ユニット サンプルの第一回公演『シフト』

http://www.seinendan.org/jpn/infolinks/infolinks061228.html

 作・演出をつとめる松井周の舞台は以前、同じ場所で公演された文学座青年団自主企画交流シリーズ第一弾『地下室』というものをみているが、前作、今作ともに閉鎖的な共同体で徐々に歪み捩れてゆく人間関係をいやなにもそこまで描く必要もなかろうにという勢いで描いている。一人で観に行くなら良い。その悪意の充満する歪んだ空間を楽しめるだろう。気心の知れた友人と観に行くのも、まあ、よい。見終わった後、その嫌な感覚をどうにか言説化しようとあれやこれや話すだろう。しかしながらそこまでまだ親しくなっておらず、これから仲良くなろうと思っている人と観に行くべきではないと思う。ましてや自分から誘って見に行くべきではないと思う。何で誘ったんだろう自分。
「……ええと、嫌な感じが面白い芝居でしたね」
 非常に気を使わせてしまった。
 それにしても、登場する人物の誰にも感情移入できない、というかそういった見方をひたすらに拒む芝居で、舞台で進行している出来事を「異常」だと判断しようにもその判断の根拠となる足場を常に突き崩されるような感じや、そこで描かれている人物に対する嫌悪感がいや増してゆく感じというのが興味深く、実際、一緒に見に行った知人の「嫌な感じが面白い」という言葉も確かにその通りではあるのだけど、うーむ。あと、前作にも感じた事なのだけど80年代(という括り方も乱暴なのだが)に対する悪意を感じてしょうがない。登場人物のパロディの仕方に。近代によって破壊された共同体の残滓の中に生きる人間の、そのいかにもな在り方に加え、それに対置される人々が80年代の物語のパロディとして登場させられている姿を見て、乾いた笑いが突き上げてくると共に、生理的な気持ち悪さを覚え、これ笑っていていいのかなと、不安になる。あとはこれまた前作でも思ったことには、この松井周という人、意識してかどうかは知らねども、民俗学的なガジェットを用いるなぁと。前作だと水、今回だと相撲と注連縄の持つ意味合いを少しずつずらしながら。例えば相撲がその始まりにおいて外部から来た神がその土地の精霊を屈服させ支配権を得る一種のパフォーマンスとしてあったとしたら、この舞台では逆に外部から来た人間が共同体に取り込まれた結果として行われていたりとか。
 それにしても後味の悪い芝居だった。でもおそらくはこの後味の悪さを求めてまた観に行くように思う。今度は一人で。


 観劇後、知人と分かれ、第1回 全国〈古本女子〉サミットなるものを見るために千駄木は古書ほうろうへ。
http://www.yanesen.net/horo/info/1586
 少しばかり早く着きすぎて準備で忙しそうな店内に入れなかったため、近くのブクオフで暖を取りつつ本を見る。特に購入せず。
戻ってみるとすでにかなり入っている。プロジェクターの準備までしてある。何だか凄い。舞台に向かって右側のイスに席を取る。と、すぐ前に座ったおじさんとそばの女性の会話が断片的に耳に飛び込んでくる。
「……井原西鶴の研究とかもしているよね」「『……書物』という本が」「柴田宵曲が」
 もしかしてと思ったら、森銑三の会話で盛り上がっているではないですか! 森銑三ならば私も以前中公の著作集を揃いで見つけ買おうかどうか小一時間行きつ戻りつ呻吟したあげく、手元不如意で泣く泣く諦めたくらいに好きな文章家なので、会話に入りたいと一瞬思うも、やはり恥ずかしくて加われなかった。ちょっと残念。しかしそれにしても場所が場所だというか、どんな人が話しているのかとひょいと見れば、以前写真で見た事のある顔。岡崎武志氏だった。深く納得。22時頃終了。サミットでは各地から来た店主の方々が持参の栞や目録を配っていたのだけど、仙台から来ていた「bookcafe 火星の庭」さん手製の「仙台古本MAP」が手に入らなかった。残念。帰省ついでに回ろうかと思っていたのに。


 帰宅後、曽宮一念『榛の畦みち/海辺の熔岩』を読んでいたらこんな文章があった。

 友達の新倉が夜学と柔術とに行っているのをきいて父は私も両方へやってくれた(中略)柔術の道場は鉄砲洲にあった。(中略)
 道場は天心真揚流柔術指南の木札をかかげた古い家で講談に出てくる町道場とはこんな家であろう。道路からものぞかれるようになっていた。先生の谷老人は大きな音を響かせて倒れてくれた、時には私は捨身にかかって空間を廻転させられる。新倉も私も十一の年であったから習うというよりも先生の肩車に乗せられたり、まるで遊んでいたわけである。


曽宮一念『榛の畦みち/海辺の熔岩』(講談社文芸文庫)(p199〜200)

 
 というわけで曽宮一念は幼い頃、「天心真揚流」という流派を学んでいたようなのだけど、まずこの流名が気になる。磯又右衛門を初代とする「天神真揚流*1」ならば知っているが、「天心真揚流」とは初めて見る名前。綿谷雪 山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』を繰ってみると少なくともこの本には「天心真揚流」という流派は乗っていない。勿論、この本が日本中すべての流派名を網羅しているわけでもないので、あるいは「天心真揚流」という流派があったのかもしれないが、その名前、場所からいってこの流派が「天神真揚流」の誤記、あるいは「神」を「心」として指南していただけで「天神真揚流」の分流である可能性は高いかと思われるのだ。そうしてこのような予断に曇った目で見てみると、「天神真揚流」のところに、「谷虎雄」という名前が見えるのに興奮してしまう。また別の「天神新揚流」の項に「明治年代、谷鹿雄悦足が初代。手数は、手解十二手。別段十二手。中段二十八手。投捨二十手。試合口三手。捕縛三手。試合裏十八手。死相の事。誘活法。襟活法。陰嚢活法。総活法。以上によって磯の同名の流裔であることは明白である 綿谷雪 山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(p602〜603)」としてその伝系を「谷鹿雄悦足―谷虎雄知畿柳応斎(警視庁流柔術)―佐藤清衛(明治四十二年)」と書く。ただ本家「天神真揚流」をみると磯又右衛門―長島直吉柳玄斎(阿波藩)―谷虎雄として、「谷鹿雄悦足」という人物の名がない事が少しく気にはなるがまあいいや。
 上に引用した文の続きにこの老人の息子と思われる「若先生」がでてくるのだけど、この人物は「巡査で時々高橋の交番に颯爽と立ってい」たのだという。曽宮一念が「十一」の頃に学んだとあるからには、巻末の年表から見て明治37年(1904)。この流派名と「谷」という名前、更には「巡査」と「警視庁流柔術」という符号がどうにも気になる。単純につなげてしまえば、曽宮一念が師事した老先生とはこの「谷鹿雄悦足」という人物で、「若先生」としてでてくる「巡査」とは、谷鹿雄悦足の後を継いだ「警視庁流柔術」の「谷虎雄」という人物なのではないかなぁ、と思ってしまう。ちなみにいう。柔道の創始者である嘉納治五郎は天神真揚流福田八之助及び本流の三代目にあたる磯又右衛門正智に師事し、後に起倒流柔術を学び柔道の基礎としてその影響は今日でも講道館柔道に伝わる古式の型の中に見る事が出来るのだけど、嘉納が柔術の師を得ようとして中々見つからず苦労したという話は有名で、明治の初期に東京でどれだけ古流が衰微していたかわかり中々悲しくなる。ましてや曽宮一念が習った頃なんて、もう柔道も立派にあった頃なのに東京にいてわざわざ柔術をやるというのはそうとうに変わっていたように思うのだけど、そういうものでもないのだろうか。わからん。まあ、とにかく、この後、曽宮一念が何か武術をやったという形跡はないみたいだけど、一時的なものにせよ流儀上、嘉納治五郎と遠い親戚筋だったのかもしれないと思っただけでお腹一杯。


 

*1:開祖である磯又右衛門正足は伊勢松坂に生まれた紀州藩士で、初名を岡山(岡本?)八郎治という。号は柳関斎。15歳で京都にでて一柳織部に楊心流柔術を学び、師匠の死後、真神道流の本間丈右衛門に師事する。北野天満宮にて開眼し前述の二流派と天満宮の天神様からとって天神真楊流と名付け一派を起こす。その廻国修行の中で複数の相手との実戦における当身(打撃技)の有効性を体験し『真の当身』として技に採り入れたという。後に江戸神田のお玉ヶ池に道場を開き、流祖自身が講武所(幕府の武術練場)の柔術師範を務めたこともあって隆盛を誇る。また、同時期に栄えた北辰一刀流剣術の道場が向かいにあり、互いに交流があったという。