昼も短し布団が干せない

 電話のたびに部屋が寒いとこぼしていたら実家の母が丹前を送ってくれる。さっそく着込む。もこもこに着膨れた姿で、何故かダンボールに一緒に入っていた番茶もいれてパソコンに向かう。とても温かい。いくつになっても母とはありがたいものであります。なむなむ。というわけで森見登美彦夜は短し歩けよ乙女*1読了。
 
 前作の『きつねのはなし』*2では硬質な筆致で綴られる奇妙な物語に、芸風の幅を広げようとする作者の心意気を見た思いがしたのだけど、本作は話者である「私」が、物語の中にどうどうとでてきて、今、我々が読んでいるものが「書かれたもの」であるという事を強く意識させ、その「書かれたもの」を今、まさに「書いている」のだという事を語る、話者のその語り口が『太陽の塔』『四畳半神話体系』以上に強く響いていて楽しくなる。そのあられもなさ。その人を喰った惚けっぷり。韜晦っぷり。でもそこがいい。
 
 語ることで生み出される出来事と、その語り口のズレ。生真面目な言葉で語られる極めて阿呆な出来事。この生真面目な語る言葉と、語られている出来事の間のズレが読むものに非常に惚けた味わいのあるユーモラスな読書体験を引き起こす。そのズレは作中で語り手となっている男の「私」と女の「私」にも当てはまり、男の「私」から見た女の「私」と、女の「私」から見た男の「私」のズレ、両者の見る世界のズレ、男/女の「私」が語る男/女の「私」についての言葉が反転し、いつのまにか語られている「私」が、語る「私」になり、語る「私」が語られる「私」になるという、語りの分裂と運動性、さらには「京都」という強い「現実」性から生み出されるマジック・リアリズム的な場面、ときおりはさまれる奇妙な擬音、他にも理由はいろいろあれど、その小説としてある事の多層性において、本作品は非常に素晴らしいものだなぁとの感想を持つ。今年度ベスト10入り確定。ところで、物語の話者となるこの二人の「私」。名前はないのだろうか? 最後にどちらかの名前が呼ばれて終わるかと踏んでいたのだけど外れた。
 
 それにしても学園祭の場面を読んでいて、ふと、石毛直道が何かに書いていた探検部時代の話を思い出したのだけど、それが何に入っていたか思いだせず非常に悔しい。出店をしてそこで何か、こう、色々とアブナイ食べ物をだしたというような話しだったと思うのだけど、それがいかにも「京大」の学園祭のようで、なるほどと思った記憶だけが確かで、今回この作品を読み、何だか読み返したくなったのにそれが見つからない。悲しい。あと、蓬莱学園とか思いだしたり。こういう楽しい学園祭の話はずるずると芋づる式に世の「学園モノ」の記憶を引きずりだしてくれてその引きずりだされ方、あるいはその引きずりだされるという事が恐らくは読書のある種の楽しみなのだなぁ、とあらためて強く感じ入った次第。
 
 「学園モノ」といえば、最近だと、よしながふみフラワー・オブ・ライフ』で、『フラワー・オブ・ライフ』といえば『大奥』の2巻が発売されたのだけど、一読驚嘆し、慌てて友人にメールしたところ「すげーーーー、って感想をUPしようと予定していたところです」との返信をもらう。やはり類友か。SF的な歴史改変モノとしても素晴らしいけど、終わり方がいわゆる「ドラマ」のパロディのようで、ここにそういう終わらせ方を持ってくる人を喰った感じがまた魅力だと思った次第。しかしあれだ、お万の方と家光の関係をこういった方法で描くとは……。ここに柳生刑部少輔友矩が絡むような事があったら(そうすると女性として描かれるのか?)私は間違いなく、鼻血を吹きだすと思う。よしながふみは一体、どこまでゆくのだろう。


 歴史改変モノといえば『大奥』が「史実」を元に様々なモノを反転させ歴史を語りなおそうとしているのに対し、「史実」の中に異分子を投げ入れ、異なる歴史と「正史」の揺れ動くさまを描く、方法としては真逆な感じがある村上もとか『JIN(仁) 』も最新刊がでて、ほくほくしながら読んでいたのだけど、もう、惜しげもなく美味しいネタがこれでもかと盛り込まれ満腹。どれくらい惜しげもないかといえば、例えば佐久間象山のエピソード。これを伏線も何も張らず、まるで投げだすように使うという贅沢さ。佐久間象山が実はアレだったというところを何の伏線もなく語るという暴力的なシーン。物語に対し吝嗇な人間としてはもったいなさに歯噛みしてしまう。だって例えば、天狗隠しだとか平田篤胤の弟子だとかいうガジェットを使うとかすれば立派な伝奇になるのに、って伝奇を目指しているわけではないのだから良いのか別に。いや、でも1864年ならば……。京都で六人部是香の弟子に会うとか。いや、あるいはこんな話。ある日、仁の元に不思議な老人があらわれる。老人は仁の様子とその医術を見ていう。「あんた、遠い世界からきなすったお人だね」 驚く仁に向かい老人はにやりと笑う。「わっしは子供の頃、天狗にさらわれた事があってね……」と。老人は石井篤任と名乗った。その幼名を寅吉という……。駄目だ。ぞくぞくする。でも寅吉って何歳まで生きたんだろう?

*1:どうでもよいのだが、最初にでてくる新郎と新婦。赤川康夫、東堂奈緒子というのだが、これって新郎の方は赤川次郎内田康夫を混ぜたものかと思ったのだけど、そうすると新婦の方にも何か元ネタがあるのだろうか。奈緒子は……『TRICK』からだったりしないよなぁ……流石に。別に何のネタでもないのかな。

*2:さらにどうでもよいのだが、この作品は植芝理一ディスコミュニケーション』に対するオマージュだったりしないだろうか。単純連想にすぎるけれど。