猿と影、あるいは陰。


 『平澤家傳記』(内題『平澤氏家傳』以下『家伝』)によると、愛洲家は久忠の息子宗通の代に常陸国に移住し佐竹義重に仕えることになる。以下『家伝』からその項を引いてみる。

第二世宗通傳記
小七郎(原注初愛洲氏)
美作守
永正十六年巳卯生ス天文五年丙寅長子常通生時ニ宗通年十八、七年戊戌父久忠卒時ニ宗通二十永祿七年甲子八月九日宗通四十六常通年二十九闐信公、(佐竹常陸介義重)刀法陰流ノ指南トナリ其奥儀ヲ授與シ奉リ御書二通(原註盟誓之書一通褒賞之書一通)父子連名にして賜之是ヨリ父子始テ常州久慈郡太田城ニ公(義重)ニ仕フ(原註傳テ采地賜フ那珂郡松原村ノ地ト云)
(愛洲小七郎(美作守)宗通は永正16年(1519)に生まれた。宗通が18歳の時、長男常通が誕生。天文7年(1538)に父久忠が卒した時、宗通は20歳だった。この年、刀法指南役となり、常州久慈郡太田城の城主であった義重に仕えるようになる。この時、領地を賜り、その場所は那珂郡松原村と伝える)


 宗通が書いたものに『陰之流私』という伝書がある。
 伝書の冒頭に「陰之流私」とあり、その下に「元香」、奥付に「愛洲美作入道宗通―同源 常通―同主膳在通」と書いてあるところから、この伝書は宗通が著し孫の在通に与えたものだと思われるが、何時、在通に与えられたのかは不明である。
 内容は「夫兵法ト者受道ノ根源也」で始まり、「切手・中手・極意」と分けて、剣を扱う上での注意すべきところ、心掛けるべきところを具体的に説いている。また文中には「懸待表裏」や敵の太刀に注意することを「月鏡ノ如シ」とするなど、「新陰流」に似た表現が興味深い。
 後述するように、愛洲元香斎宗通によって天正3年(1575)以後に再編成されたと考えられる陰流(=猿飛陰流)には、「序之巻」「参学巻」「四箇巻」「表之巻」「裏之巻」「中之巻」「免之巻」「位之巻」「留之巻」「陰陽巻」「決勝三神巻」「究極巻」「霧霞巻」「虎之巻」「附私之巻」の全15本の目録*1があったようである。
 15本の目録中、最後の「附私之巻」(「私」の右横に「ヒソカ」と振り仮名あり)と「陰流之私」はその名称の類似から同内容を持ったものかと思われるが不明である。一体に近世初期以降の流派は流祖や先師の創案した技法・心法を伝書化し、門弟の習熟段階に応じてこれを伝えたが、猿飛陰流に関していえば、これらの伝書が全て散逸してしまいその内容を伺う事ができないため、その相伝体系、及び猿飛陰流の中で「陰之流私」という伝書が持つ意味合いが分からず、この伝書がどの程度の修行を終えた者に与えられたのか不明であり、在通がどのような修行段階を終えこれを受けたか分からない。


 愛洲小七郎の名前は佐竹家第1世義光から第30世義厚までの歴代の伝記をまとめた『佐竹家譜』にも見ることができる。第20世義重の項の中、永禄7年(1564)のところに次のようにある。

八月九日 臣愛洲美作守、其子修理亮に授かる誓書に曰く再拝々々敬白起請文事
第一奢斯手、不可無益殺生事
第二師之赦不取、弟子不可取事
第三師者加父母。不可背命事。
若背此旨候者(次に神文あり。今是を略す)
  又
此度兵法付、不残申上候事、諒以、神妙之至、快然
不少候。加此之上、別而進退之儀、可加懇切候と

(其書二通、平沢清右衛門某家蔵真迹の書なり)*2

 この誓書は『家伝』に見る「誓之書」と同じものだと思われるが、これと同じものだと思われる文書が平沢家に蔵されているという。さらに『家伝』によると天正元年(1573)、佐竹義斯へ陰流を伝授し「盟誓」と「褒章」の二書を贈られたという。この年の十月、息子の常通が38歳で他界し、家督は常通の長男在通が16歳で継ぎ、前年に隠居していた宗通は命を受けて再任する。

 
 その二年後の話として『家伝』は次のように語る。

天正)三年乙亥十一月十五日 宗通五十七歳、長孫在通年十八、久慈郡真弓山ニ登リ、神祠ニ詣シテ当テ兵術精錬ノ功ヲ祈ル。速ニ異人ニ逢フ。前勝房ト云フ。又一老猿出テ前勝房ト剣刀刺撃ノ習法ヲ示ス。此ニ於刀法ノ術屢長ス。是ヨリ家ニ名ケテ猿飛陰流ト号ス。其目録十有七軸所謂、序之巻、参学巻、四箇巻、表之巻、裏之巻、中之巻、免之巻、位之巻、留之巻、陰陽巻、決勝三神巻、究極巻、霧霞巻、虎之巻、附私之巻、以上ヲ家蔵ノ書目トス。

 つまり、天正3年、宗通とその孫の在通が久慈郡真弓山に登り兵術上達を祈ったところ前勝房という異人にあった。また、老猿が出てきて前勝房と剣術を示し、それによって更なる上達を得たので猿飛陰流というようになった。その目録として序之巻、参学巻、四箇巻、表之巻、裏之巻、中之巻、免之巻、位之巻、留之巻、陰陽巻、決勝三神巻、究極巻、霧霞巻、虎之巻、附私之巻があるとしている。
 

 宗通とその孫の在通が「異人」に遭遇したという常陸国真弓山とは、多賀山地南部に位置する標高約300mの山のことである。『水府志料』や「真弓神社縁起」によると、大同二年(807)の創立で、坂上田村麻呂蝦夷征伐の途上、当山に参籠祈願した。やがて慈覚大師が日吉山王権現の分霊を遷して社殿を建立し、真弓山王八所大権現と称した。あるいは坂上田村麻呂が八所権現を祀ったともいわれている。その後、源義家が奥州征伐のとき真弓山上に陣をしき戦勝を祈願したという。山名は源義家が奥州遠征の帰途に山頂の神社に真弓(弓の美称)を奉納したことにちなむともいう。祭神は大己貴命少彦名命の二神。海抜329mに鎮座し、農業、漁業者に篤い信仰を受けている。


 この真弓山と非常に深い関係を持つ山として、東金砂山、西金砂山、竪破山、花園山がある。これらの山々は、いずれも以下のように開山の縁起に共通する特徴を持っている。
(1)坂上田村麻呂蝦夷征伐のとき参籠祈願した。
(2)慈覚大師が山王権現の分霊を勧請した。
(3)源頼義、義家が奥州下向のとき戦勝を祈願した。
(4)祭神は大己貴命大物主神)である。


 慈覚大師が常陸五山に分霊を勧請したという山王権現は、日吉神社とも呼ばれ比叡山の麓にあたる坂本の西に祀られている。「此の神は延暦寺建立以後、僧徒の奉ずる所と為り、地主にましませしが故に山王と号せしめ……」といわれているので、比叡山を本拠とする天台宗の布教とともに常陸国に入ってきたことが分かる。
 『古今著聞集』巻二十698に「常陸國の猿如法經寫經に成功の事」という説話が収められている。それによれば、常陸国のたかの郡に、大きな猿を飼う上人がいたという。法華経を書き写すための準備をしている時、上人が猿に言った。「お前が人間であったなら、私の大願の手助けをしたであろうに、畜生の身でくやしいとは思わないか」。猿は上人の言葉を聞くと何か言うように口を動かした。その夜、猿は姿を消した。猿はほかの郡に行き、どこで手に入れたのか下賎の者の着る「手なし」という物を身につけ、鎌を腰に差し、編笠などをかぶり、白栗毛の馬を盗み上人のもとへ戻ろうとした。馬の持ち主が後を追いかけると、猿は上人のもとで馬をつなぎ、上人に向かって口を動かし続けていた。上人が事の次第を始めから語ると、馬主は「このような不思議なできごとならば、どうしてこの馬を返してもらうことができようか。畜生でも法華経書写の手助けの心をもって、このような不思議なことを成したのに、ましてや人として仏法に縁を結ぶことは当然である」といい、この馬を法華経書写のために差上げようと言って帰っていった。(日本古典文学体系84『古今著聞集』p525〜526)


 これによく似た話が同じ『古今著聞集』巻二十680「紀躬高の前身の猿法華経を礼拝の事」にある。それによると越後国三島郡に乙寺という寺があり、そこにいた一人の僧が猿のために法華経を書き写そうとしたとき、数百の猿が木の皮をはいできて紙の材料としたり、山いもや栗・柿・梨などを僧に与えて写経の手伝いをしたという。(同上 p512〜513)
 また、文政9年(1826)に久慈郡太子村の黒崎貞孝が著した『常陸紀行』にも次のような話がある。

 余が隣里川山村の境に、久慈河の流に沿って断崖壁立し、人の攀得べからざる地あり。此の半腹に石窟あり。猿猱数百集会せり。毛色潔白にして潤光あり。面は紅にして、あたかも臙脂をもて粧ふがごとし。郷中の人民集りて生きながら捕え、上江奉れり。今礫川御鷹部屋に畜はる。又一奇事なり。同郡(注 久慈郡)高倉村より金砂山など猿最も多し。相伝ふ、山王日吉神あるかへとぞ。

 他にも『常陸國多賀郡竪破山縁起』にみえる話であるが、慈覚大師が竪破山に精舎を建立して暫くした後、大師が山間を歩き、岩の上に座した時、老猿があらわれ慈覚大師に向かい礼拝して鳴くのを止めなかったという。憐れに思った大師は念珠をもって功徳を施し、仏・法・僧の三宝に帰依させ、菩提心を発せよというと、猿は頭をたれて去った。数日して、大師は夢の中に猿が童子と化して、礼謝して西に向かって去って行くのをみたという。また、慈覚大師が岩の上で17日間、一念三千という秘法を修したときも、猿が多く集まり、格手に閼伽の水をくんで、その法座に列した。修法が終わると群猿は慈覚大師を取り囲み、護送して去った、と伝えている。


 このように常陸五山は猿と縁の深い場所であるが、『常陸紀行』にもあるように、これは久慈郡や多珂郡の山々に祀られていた日吉山王社と関係があるといえる*3常陸五山に天台宗の寺院が開かれたとき延暦寺にならって日吉山王社の分霊もあわせて勧請されたと考えられる。それは、同地の小字を見るとよくわかる。常陸太田市真弓町の小字に「山王平」、島町の小字に「山王町」、日立市宮田町の小字に「山王」、十王町山郡の小字に「山王沢」、高萩市高萩の小字に「日永」「山王」「山王下」「北山王」、島名の小字に「日永」があるなど、「山王」「日永」という小字が非常に多い。「日永」はヒエイとよみ、比叡・日吉を指し「山王」は文字通り山王権現を意味している。


 近江の日吉山王信仰は中世から近世初頭に大流行するが、この信仰の中でサルは神の使わしめの役割を担っている。これは古くからある山の神の手先としての猿神の信仰を比叡山天台宗の学僧が取り入れたものと思われるが、『耀天記』(別名『山王縁起』『日吉社貞応記』『山王耀天記』)に日吉とサルを結びつける記述があるという。
 あるいはこれらの伝承が真弓山での猿飛陰流の縁起に影響しているのかもしれない、と考えると中々に楽しい。

*1:文中では「十有七軸」、つまり17本あったとしている

*2:原武男 校訂『佐竹家譜 上』東洋書院 p171〜172。また『秋田県立秋田図書館所蔵系図・家譜・家伝目録』中、「愛洲美作守ほか宛義重御半紙写」を含め四通の免状がある。また元禄11年の「平沢氏覚書」、『平沢氏系図』がある。その持ち主は平沢清右衛門常季となっているが正体は不明。あるいは『家伝』を書いた通有か?

*3:しかしこれ、自分で書いておいて何だが非常に胡散臭いな。確かに日吉と猿とは関係深いが、だからといって、猿と関係があるからといって日吉大社と関係があるわけでもなかろうに。