陰流と摩利支天

 

 『摩利支天之ししやの事』という伝書がある。愛洲移香斎久忠の子孫、平沢家に伝わる(伝わっていた?)もので、末尾に「移香」とあるところから、愛洲移香斎久忠自身が記したものだと思われる。次のような文章である。


摩利支天之ししやの事

一 からす 一 □たち
一 さる   一 むかて
一 くも   一 ねすみ

是ハまりしてんのし
しやなり しかれハ道
をゆくとき我にむかひ
候ときめてたし もし うし
ろむき□□□のもんを
となへ□□□やうのいんをむ
すひ その中ニ身をかくし
ゆかんとすれハししゆ
五わうのいんをむすひ
行なり 又かのししやか
こえをたかくしおのヽく
いかりをなさは こヽろへ
候てまつさしてくしの□□
をとなへ ししや五わうニて
身をかたろかとをいてかへハ
あくなん たはらへしりそき
ふ□きはんほヽ□□□
/\たはらのたん□我ニ
しゆこすうん/\
         移香口
(□は欠字)


 これは「からす、□たち、さる、むかて、くも、ねすみ」を摩利支天の使者として、これらの動物に遭遇した時の注意を述べている書である。欠字がある「□たち」はおそらく「いたち」だと思われる。この文章から久忠は摩利支天信仰と何らかの関係があったと思われる。

 
 摩利支天は梵語mar_ci (=陽光・陽炎)の音訳。『仏説摩利支天菩薩陀羅尼経』ではその特徴を以下のように述べる。

 
爾時世尊告諸比丘。日前有天。名摩利支。有大神通自在之法。常行日前。日不見彼。彼能見日。無人能見。無尽能知。無人能捉。無人能害。無人能欺誑。無人能縛。無人能債其財物。無人能罰。不畏怨家能得其便。
(その時、世尊(仏陀)は諸比丘に告げた。日の前に天(注 サンスクリットにいうDeva。古代インドのバラモン教の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神となったものの総称)があり。摩利支と名づける。大神通自在の法有。常に日の前を行き、日は彼を見ざるも彼は能く日を見る。人の能く見るなく、人の能く知るなく、人の能く捉うるなく、人の能く害するなく、人の能く欺誑するなく、人の能く縛するなく、人の能くその財物を債するなく、人の能く罰することなく、怨家も能くその便を得るを畏れず)

 
 また、元久2年(1205)の『摩利支天法』では摩利支天に関する諸経典から引いたその特徴を「隠行事」、「在ニ日月前一事」、「伏ニ修羅難一事」、「十六日闘争事」、「除ニ王臣等難一事」、「護ニ苦難人事」、「伏ニ怨家一事」、「可ニ七種行一事」、「現ニ天真身一事」としている。

 
 中世に編纂された辞典『節用集』を再編纂した『書言事考節用集』(元禄11年(1698))では、


摩利支天、名義集、此云陽炎在日前行義楚其天女所執一扇上有萬字及日月形一上有火焔摩利支天常居日前執也


 としている。この事からも中世には摩利支天について経典からの釈義が広まっていたことが分かる。それ以外にも、寛文年間(1661〜1672)に発刊されたという『武家功者咄』*1の「巻中二」に次のような話がある。
(適宜句読点をつける)


二 軍神摩利支天の事
功者のいはく、をよそ軍陣にむかひてはまつ軍神を勧請すへし。是に重々の口伝有。その軍神と申は摩利支天の事也
―中略―
其中(注 諸天の中)にことさらまりし天をいくさ神とする事は、諸天伝にしるす所。一切経の中に摩利支天経とて一巻有、又大摩利支菩薩経とて七巻有、そのほか金光明経の鬼神品にも此天の事をとかれたり。あるひは南海奇帰伝の中にもしるしあらはせり。摩利支とは天ちくのことはなり。大唐にては陽炎と名つく。陽炎とはひろき野原には朝日の出る時分に草葉のつゆの蒸あげられて川のなかれのことくにみゆるを立よれは何もなし。それよりむかひに又水のなかるゝやうにみゆるこれを陽炎水と名つけて目には見て手にはとられぬたとへとするなり。まりし天もそのことくに、つねは日天子月天子のあたりちかくはしりめくり侍れ共、ちら/\としてそのすかたを見さためかたちをとらへとゝむる事かなはす。有とはみへて、手にもたまらす、きはめて神通しざいの徳をそなへ給ふ。そのかたちをいはゝ、衣の色しろく、かしらに七ほうにたうをいたゝき、面に三つのまなこ有、其ひかりかゝやく事、いなひかりのことし大にいかれる相をあらはし、八の手有右のかたをぬき右の手には宝剣と金剛のくさりと無憂花樹といふ花の枝と矢とをもち、左の手にはあくまをしはる索のなは、こんかうの杵ちゑの弓と智剣の印をむすひ給へり、右の足をあけて左の足へ猪をふまへて立給ふ。経の中にとき給はく、もし、よく此大まりしほさつを念すれは、その人のかたちをおほひかくし給ふ。あるひは水火のなん、あるひは国王のなん、たうそく鬼神の難をのかるへし。またよく此大摩利支ほさつの真言陀羅尼をとなふる事七返して隠形の印をむすふものは、くんちんの中にして、しよぐんせい其人をみる事なしと見えたり。まりしのしんごん、いんきやうの印にくてん有たゝしそれも天下国家太平の心さし有そ民をあはれむ思ひふかきともからには此利やくむなしかるへからす。
―中略―
武士のともからはよくつねに念すへし。いにしへより軍神とさためし事そのいは れなきにあらす(後略)


 この説話では摩利支天を軍神とし、戦の前にはまず勧請するように説く。多くの天部の中から何故、摩利支天を軍神とするかというと、それは諸経典の中に理由があるとする。摩利支天という言葉の由来を天竺にあると説き、その意味を陽炎だとする。摩利支天は陽炎であるので隠れることが巧みであるとし、その姿を語る。この神を念ずれば姿を隠してくれたり、様々な災厄から身を守ってくれるという。古来より軍神と定められていることには何らかの意味があるのだとして話を終えるが、この文から、江戸初期までには摩利支天が戦神として位置付けられ、意義を陽炎とし、常に日と月のそばにいるが見ることができず、念ずれば様々な難を避けてくれ、真言を唱え印を結べば姿を隠すことができ、昔から軍神と定められていた、という考えがあったことが分かる。
 このように、摩利支天に関する話を見てみると、ほぼ共通して「常に日の前に在り」「隠行」に通じ、「様々な災厄から身を守り」その意は「陽炎」であるとしているのが分かる。


 「陽炎」であったり「常に日の前に在」ったり、「隠行」というところからも「陰流」の開祖と関係付けるに相応しい神様だとは思うのだけど、それにしても不思議なのは、摩利支天の使者とされる生き物(からす、いたち、さる、むかで、蜘蛛、ねすみ)がどのようにして選定されたのだろうかというところ。普通、摩利支天の「ミサキ」(=「御先・御前」。神が使者として遣わす動物)はイノシシとされるのだけど、それを「からす」「いたち」「さる」「むかで」「蜘蛛」「ねすみ」と見る考えはどこから生まれたのか。誰か知っている人がいたらご教授頂けないものだろうか。不思議だ。


 ちなみに、というかここからは妄想なのだけど、陽炎の別名として遊糸という名称がある。遊糸は和語で「いとゆふ」と読まれ、晩秋や早春の頃、空中に蜘蛛の糸が浮遊する現象を指したもので、これは「あるかなきかのもの」にたとえられることが多く、陽炎と同じものとして考えられたらしい。『和漢朗詠集』巻上・春・春興19には「野草芳菲たり紅錦の地、遊糸繚乱たり碧羅の天」(『和漢朗詠集』p27 新編日本古典文学全集19 1999 校注・訳者 菅野禮行)があり、『和漢朗詠集』巻下・晴の415には「霞晴れみどりの空ものどけくてあるかなきかに遊ぶいとゆふ」(『和漢朗詠集』p222 同上)という歌が見える。ここから、摩利支天=陽炎=糸遊=蜘蛛という図式浮かんでくるような気がしつつ、蜘蛛といえば、愛洲移香斎の「陰流」開眼には何故かいきなり「蜘蛛」がでてくる事を思い出してしまう*2*3*4


 なんでここに「蜘蛛」がでてくるのかはよくわからないのだけど(ちなみにこの「蜘蛛」がいきなり「翁」に変わって、移香斎に兵法を授ける)、まあ少なくとも、こういう図式をたてると、摩利支天と蜘蛛の間にそれっぽい関係がつくれるような気がして、何だか楽しい。


 さらに妄想を繋げると『江談抄』巻三に「吉備入唐問事」という説話がある。入唐した吉備真備*5が鬼と化した阿倍仲麻呂の力を借り唐側の難題を解決したという説話なのだけど、この中に蜘蛛が出てくる。唐人が梁の高僧宝志和尚に『野馬台詩』という暗号詩を作らせ、これを読めるかと吉備真備に迫る。宝志和尚はこの詩を作るにあたり結界を張って行ったため、鬼と化した安部仲麻呂は手出しができない。追い詰められた真備が日本の方を向き、住吉大明神と長谷寺觀音に祈ったところ、天井から一匹の蜘蛛が降りてきて、糸を吐きながら文の上を歩いた。その後を辿ることで真備は文を解読することが出来たという。この話は住吉大明神と長谷寺観音の、要するに神の仮現する話といえるかと思うのだけど、これは逆にいえば、蜘蛛の存在が神の仮現を予兆したものだといえるような気がする。


 神の仮現といえば、自動的に翁という連想が働く。例えば、永正10年(1513)に成立した『鞍馬蓋寺縁起』にはこんな話がある。造東寺長官であった藤原朝臣伊勢人が勅命を受けて、寺を造り観音を安置するための場所を捜していたところ、夢中に白髪の老翁姿の貴布禰神から啓示を受け霊地を探し当てたという。これに限らず、聖のイメージを付与された超常的な存在の現われを具象的に示すため翁という表象を用いる事は結構多い*6


 と、ここまでの連想ゲームを整理すると、摩利支天=陽炎=糸遊=蜘蛛=翁=神の仮現となって、移香斎に兵法を授けたのは摩利支天でしたという話になるというか、陰流説話にはめ込まれたキーワードがあるまとまりを持つような気がするのだけど、こういうのって何て言うんだっけ。そうか、あれだ。我田引水だ。引けてないけど。

*1:万治4年(寛文元年 1661)に発行された六巻物の仮名草子『古老軍物語』の中から、巻1と巻2を取り出して順序を入れ替え、3巻本に仕立てたものだという。

*2:こんな文章。「久忠幼雅日起居動静願三修ニ此方一以向レ天黙偃矣或尋ニ師於千里一忘ニ旅程遠一或閭ニ君於萬代一願ニ國家安一仰ニ敷多師窮ニ諸玄辨一矣君子不レ恥ニ下問一斯之謂歟三十有餘歳至ニ日向國鵜戸岩屋一於ニ閼殿一燒ニ頭香一以深偃レ之三七日之暁燈影明滅四無ニ人聲一蜘蛛下在ニ面前欲レ除レ之其形片々不レ得レ樞レ之鑽レ之彌堅仰レ之彌高在レ前忽然在レ後矣於レ此得ニ此術一嗚呼奇哉怪哉蜘蛛忽化ニ老翁一謂曰你他日偏願ニ辨術一其丹誠匪レ淺因授ニ此術一莫ニ敢容易一問奈ニ其名一何答曰號ニ陰流一所謂日域無ニ比倫一以レ之號レ之南有ニ住吉一レ天下之英雄也向レ伊傳與レ至之久忠則到ニ住吉宅一密啓ニ其意一主忽横ニ干矛一直欲レ決ニ勝負一其嗔可レ欺ニ張良一久忠亦構ニ利生之太刀一戰如ニ風發一攻如ニ河決一主俄然抛ニ干矛一禮再三飜ニ敵對之嗔一還而結ニ子弟之縁一於ニ干此一傳ニ大事一」

*3:書き下すとこんな感じ。久忠、幼雅(稚?)の日より起居動性、この法を修めるを願い、天に向かい黙祷す。あるいは師を千里に尋ね旅程の遠きを忘れ、あるいは君を万代に祝い国家の安きを願う。数多くの師を仰いで緒の玄弁をきわむ。君子は下問を恥じず、すなわちこれをいうか。三十有余歳、日向国鵜戸岩屋に至り、神殿において頭香を焼き、もって深くこれを祈る。三七日の暁、燈影明滅して四も人声無し。蜘蛛下りて目前にあり。これを除かんと欲すれば、その形片々としてこの枢えず。これに切りつければいよいよ堅く、これ仰げばいよいよ高し。前にありとすれば後ろにあり。ここにおいてこの術を得たり。嗚呼奇なるかな怪なるかな。蜘蛛たちまち老翁とかしていいて曰く。汝、他日ひとえに辨術を願う。その丹誠浅からず。よってこの術を授く。あえて容易にすることなかれ。問うその名いかん。答えて曰く、陰流と名づく。いわゆる日域に比倫なし。これをもってこれを名づく。南のかたに住吉なるものあり。天下の英雄なり。これに向かい、これを伝与せよと。久忠すぐさま住吉宅に到りて、密かにその意を啓す。主、たちまち干矛を横たえ、すぐに勝負を決せんと欲す。そのいかり、張良も欺くべし。久忠また利生の太刀に構え、戦うこと風発する如く、攻めること河決する如し。主、俄然として干矛をなげうち、礼すること再三、敵対のいかりをひるがえし、かえりて子弟の縁を結ぶ。これにおいて大事を伝う。

*4:これって結構変な文章だと思う。幼い頃から武芸を志した久忠が、多くの師の薫陶を受けやがて自己の流儀に開眼するという物語なんだけど、ここに何故「住吉」という人物が出てくるのだろうか。久忠の開眼話ならば、蜘蛛が老翁と化し、その術を久忠に授けたところで終わるべきだと思うのだけど。それが老翁は久忠に術を授けた上で「南有ニ住吉一レ天下之英雄也向レ伊傳與レ至之」、つまり「お前を通して私の術を『英雄』へ授けなさい」と言っているのだ。これでは久忠は翁と「英雄」である「住吉」を繋ぐ存在にしかならない。しかも、久忠が住吉に会いに行くと、すぐに戦いになり、久忠はこれを倒し自分の弟子としてしまい大事(=術)を授けてしまうのだ。よくわからない話だと思う。

*5:吉備真備といえば『六韜三略』を持って帰ってきたという伝説から説話上、兵法と関係付けられることがあり、更には『金烏玉兎集』で陰陽道とも関係付けられる面白い名前ではある。

*6:山折哲雄『神と翁の民俗学』に詳しい。塩土老翁神とか。またその別名であるともされる白鬚明神。ここで面白いのはその名を冠された「白鬚神社」の祭神は猿田彦神であるというところ。塩土老翁神猿田彦神は「導きの神」という共通点がある。サルタヒコは天孫降臨神話において天孫ニニギノミコトを先導する役目を持つけど、ニニギノミコトアマテラスオオミカミ、つまり太陽の化身の命を受けた存在。するとニニギノミコト自体を太陽の化身と考えることもできる。その前にいる存在であるサルタヒコはここでは、太陽の前にいる存在として描かれている。摩利支天は常に太陽の前にいる存在(=日前の神)として描かれていた。ここからサルタヒコと摩利支天を同格とみなすことができる。実際、江戸の猿江にあった摩利支天社は「摩利支天日前先社」という名前で非常に賑わっていたが、明治の神仏分離令以後改称し、仏教神を改める際、摩利支天が太陽の前に先立ち進む存在であるところから、猿田彦大神を御祭神としたという。ところでサルタヒコは『日本書紀』の一書で「鼻の長さ七尺余り」であり、「口尻明り耀れり。眼は八咫鏡の如くして、赩然赤醬に似れり」とするが、これは後の天狗のイメージににている。サルという名前と天狗のイメージを持っている存在。私にはこれが猿飛陰流の縁起、異人「前勝房」と老猿の話に二重写しになって見える。山の中の異人=天狗という単純連想。ただ、柳生石舟斎宗厳が発行した『新陰流兵法目録事』の中で、「天狗抄」太刀の絵目録に「高林房」「風眼房」「太郎房」「栄意房」「智羅天」「火乱房」「修特房」「金毘羅房」として天狗と人の絵によって太刀を示している。ここから「房」と天狗に近親性を見る視点があったのかとも思える。するとそこから、摩利支天と天狗と猿が猿飛陰流縁起に繋がり、摩利支天を媒介として、陰流と猿飛陰流の縁起が繋がるのだけど、中々そうは上手くいかないのが残念。