ゆきゆきてスイング

 書店にて棚の隅に一冊だけ置かれた『新装増補版 伊藤彦造イラストレーション』(河出書房新社)を見つける。1999年に出版されたものの新装版らしい。狂喜して購入。カフェに移動し、本を繰りながら一枚一枚の絵に見入る。それはもう嘗め回すように。その絵の多くはペンで描かれたものだというけれど、私は絵に関してまったく知識がないので、ペンで描かれたといわれても、そういうものかと思うだけで、この絵が「ペンで描かれた」という事に対する凄さは皆目わからないのだけど、一枚の絵として見たとき、その妖艶さ、流麗さ、そしてなによりも静中の動とでもいうべきか、動きの瞬間を捉え止まっているはずのものから、そこに描かれた人物の動きの質が伝わってくるような、いや、明らかにその動きの質が感じられるという事に驚嘆の念を禁じ得ない。
 それはたとえばp74〜75の見開き。雪の吉野山義経を追ってきた僧兵と、義経を逃がすためしんがりとなった佐藤忠信が対峙する場面。それはたとえばp155の「剣聖上泉伊勢守」と題された絵。振り下ろされた刃の下からすくい上げるように相手の二の腕に刀を止める一重になったその姿。姿勢、目配り、身体の運び、足の動き、五体への力のかけ方が、全て見えるような、そして、その瞬間に至る動きからその後の動きまでがすべて内包されているような絵に、戦慄を覚え何度もページを捲る手が止まってしまう。そして、本書にはその絶筆となった絵がのっているのだが、これがまた……。これを「動き」に精通した眼を持った人が見たらどのように「読む」のだろう。とりあえず黒田鉄山甲野善紀前田英樹内田樹といった面々の感想を聞いてみたいな。
 この人がもしマンガを描いていたらどのような動きを造りだしていただろう。一枚の絵と、マンガとではその絵の描き方に違いがあるのかないのか知らないけれど、それはさて置くにして、立ち合いの動きを描かせたら現在のマンガ家ではとみ新蔵にかなう者はいないのではないかと思っているのだが、それを凌駕する作品を生み出したのではないかと思い、読んでみたかったなあ。

 ところで伊藤彦造といえば、その紹介文によく伊藤(伊東)一刀斎の子孫だと書いてあるのを見かけるのだけど、これってどれくらい信憑性がある話なのだろう。この本に収録されている渡辺圭二伊藤彦造の歩んだ道」という小文によると「尾張春日井の郷士の家に生まれた彦造の父浅次郎は、伊藤一刀斎の正裔を自認していた」(p179)とあるので、父親がそう言っていたのはそうだとしても、うーん。これで一刀流系統の家伝の流儀でもあったとしたら面白いのだけど、流儀の事は書いていないしなぁ……。「小学校三年生のころから、彦造に剣道の稽古を始めた。浅次郎は、木刀から入って、一年後には真剣を持たせて立ち会わせ」*1(p179)とあるので、どうやら自身も何がしかの流儀を身につけてはいたようだけど、巻末の「伊藤彦造略年譜」には「明治44年(1911)8歳 父の希望により、この頃から剣術を始める」と書いてあり、これでは彦造の学んだものが「剣道」なのか「剣術」なのかよく分からない。無矛盾につなげると、父親からは剣道を学び、他に剣術を学んだということか? しかしながら父親の世代を考えると「剣道」を学べたのか疑問がある。そうするとやはり父親から剣術を習ったと考えるのが妥当なのかもしれないけれど、すると流派はなんだったんだろうという思いがむくむくとわき上がってきて困る。
 そもそも伊藤(東)一刀斎の没した年代も場所も不明で、綿谷雪によれば下総小金ヶ原説と丹波笹山説があるけれどその傍証はないらしいし、間島勲『全国諸藩剣豪人名事典』(新人物往来社)によれば、神子上典膳*2を後継者にして下総国を去った後の消息は不明で、しょうがないので典膳は別れた8月7日をもって一刀斎の命日として祀ったというくらいで、だからこそその事跡は不明でどこでなにをやっていても不思議ではないのだけど、伊藤彦造が本当に末裔なら、その辺の詳しい話とか家に伝わってなかったのかな。あったら面白いのに。ちなみに神子上典膳の弟子で、一刀流正統3代目を継承し、忠也派(伊藤派)一刀流を興した伊藤典膳忠也の墓が品川は天妙国寺にあるらしく、そこには『三世伊東一刀斎』と記されているらしいのだけど、伊藤家に伝わっていた「伊藤一刀斎の子孫」という話がこの「三世伊東一刀斎」の事だったらそれはそれで面白いな、と思うものの「藤」と「東」か。うむむ……。

さらにところで、実は以前、伊藤彦造が剣術をやっていたらしいという話を聞いた時にちょっとだけ調べてみたのだが、綿谷雪 山田忠史『増補大改訂 武芸流派大事典』にこんな一節を認めた。

神武一刀流(剣) 伊藤一刀流ともいう。祖は伊藤彦造。神奈川県町田市在住。影山流の宮崎雲舟の門人。後に分派して一流を創めた。(p455)

 その時は本人か同姓同名の別人かどうか判然としなかった。一応、町田市在住という共通点もあるし、やっぱり本人かなと思っていたのだけど、今回『新装増補版 伊藤彦造イラストレーション』の一番初めのページに「伊藤彦造と影山流二十代宗家宮崎雲舟」というキャプションのついた写真を認め、ようやく本人だと得心がいった。よかったよかった。それにしても絵の中に影山流を描いたものが割合にあるのはやはりそのためなのだろうか。
 ちなみに影山流は居合で有名な流派。ただこの流派は仙台の方で広く行われていた流派なので、伊藤彦造がいつどこで学んだのかちと気になる。

*1:ちなみにこの文章はこう続く「、彦造が気後れしていると、彦造の皮膚だけを斬り、斬られることに慣れる修行をさせたという」 なんちゅう親父だ。東堂国彦か!

*2:寛政重修諸家譜』より。『寛永諸家系図伝』では”御子神”と表記。