最近気づいたこと

 本当は先週購入したよしながふみフラワー・オブ・ライフ (3)』がいかに素晴らしかったかを書くつもりだったのに一瞬で挫折する。それも悔しいので頑張って書いてみるに、どれだけ素晴らしかったかというと、それはもう、例えば先週の日曜の午後3時過ぎ、新宿のスタバでカバーのかかった本を片手に机に突っ伏し肩を震わせ悶絶していた人がいたらそれはかなりの高確率で私で、恐らくその時間帯の新宿で一といって二と下らない、ということは流石にないと思うけれど、100番圏内には余裕で入る位には怪しかったと思う状態に私をした程に素晴らしかったのだけど、これでは何がどう素晴らしかったのか全く伝わらないと思う。つまりはオタク的なコードを自在に操りながら、安易な叙情を拒否する姿勢、対象に陶酔する事を許さない視線と距離感によって生じるユーモアによるものなのかもしれないのだけど、取りあえず友人と500文字を超えるメールを4往復させるくらいには感動してしまったのだ。そして同じ書店で購入した桑田乃梨子豪放ライラック④』を読み、個々の作品を超えて反復される世界に心地良く浸り、同じく購入した内田樹『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い―』を読んでいたら奇しくも桑田乃梨子について言及されていて、これはなんのシンクロニシティと驚くというような事があったりしたのだけど、それはさておき、最近、といっても本当に最近なのかというとそういうわけではなく以前他のところで書いた事があるのだけどもしかしたらこちらに書いた方が色々な人の眼に止まりやすく何か事情を知っていてご教授下さる方がいるかもと思い書いてみると、今村嘉雄 編『改訂 資料柳生新陰流 下』(1995.新人物往来社)をぱらぱらと読んでいて変なところに気がつく。


 何が変かというと「兵法の落索」(p371〜372)、及びそれを引用したと思われる「月之抄」中の「兵法之落索」(p14)。ちなみに前者は書き下し、後者は漢文。内容からし柳生但馬守宗厳(柳生石舟斎宗厳)が流祖上泉伊勢守秀綱から習い覚えた術や学ぶに際しての心がけを子孫に伝えるために記したものだと思われるのだけど、その末尾にこうある。
 「歳次天文廿三甲寅三月日、柳生但馬守宗厳之を書す」(p372)
 つまり「天文23年にこれを書いた」といっているのだけど、「天文23年」は西暦でいうと1554年。これの何がおかしいかというと、一応、歴史上、柳生石舟斎宗厳と上泉伊勢守秀綱が初めて出会ったのは永禄6年(1563)興福寺塔頭宝蔵院でだといわれ、さらに秀綱が宗厳に「一国一人*1」といわれる印可*2を与えるのが永禄8年(1565)、そしていわゆる「影目録四巻(燕飛・七太刀・三学・九箇)を与えるのが永禄9年(1566)なので、天文23年(1554)だと印可を与える12年も前になる。文中に「古流・中流・新当流有り、亦陰流有り―中略―上泉武蔵守秀綱有り。諸流の奥源を関北に極め、奇妙陰流に抽んず。新陰流と号す」*3とあるので、秀綱から学んだのは間違いないのだけど、これだとまるで宝蔵院で会う前にすでに二人が出会い、宗厳が技を伝授されているように読めてしまう。しかも「宗厳数年当流・他流稽古鍛錬以て工夫の上―中略―無刀にて必勝の工夫を得」とあるように、巷間に知られる「無刀取り」の公案に解悟したことまで書かれているので、間違いなくこれは皆伝を授かった後に書かれたものだといえる。


 天文23年(1554)といえば秀綱は遠く上野の地で現役の城主を張っていた頃で、一方の宗厳はといえば筒井家に従属して小さくなっていた時期。もしこの文章の日付が正しいとすれば、この頃までに皆伝を与える事が可能なレベルで新陰流というシステムが完成していたという事になり、さらに二人が出会い兵法の伝授が行われていたとすれば中々にドキドキする話なのだけど、この文章と同じものだと思われるものが柳生厳長『正伝・新陰流』(1989.島津書房)に「柳生家憲」という名で収録されていて、そこでは「天正十七年己丑五月」*4(p324)となっているのでさすがに『資料…』は誤記だと思われる。誤記じゃなかったら本当に面白いのになぁ。残念。しかし何故異なるページでこのように同じ誤記が生じたのかとか、何故それがそろって「天文廿三甲寅三月日」でなければならなかったのかというのは非常に気になるわけで、いやはや楽しい。

*1:とはいっても結構発行しているみたいだけど

*2:卒業証書みたいなもの

*3:これと同じような文句が「影目録」にもある。というか、この文章はかなりの部分「影目録」と同じ

*4:西暦でいうと1589年