恩田陸『チョコレートコスモス』を読む。

 天才的な演技力を持つ少女、芸能一族に生まれついた努力派少女、新しい劇団を立ち上げたばかりの若い劇作家、そしてベテランの劇作家という登場人物がいかにも某漫画を思わせるのに加え、少女の天才的な能力に曽田正人『昴−スバル−』を想起してしまい、映画化もされることだし早いとこ再開してくれないものかと思ったり、ぶつかり合う演技の場で彼我の境を越えて「向こう側の世界」に行く様子に松本大洋『ピンポン』のペコとドラゴンの試合を連想したり、作中での舞台の描写に小さな劇場で舞台が始まる前の場内がすっと暗くなるあの一瞬の高揚感を覚えたりと、連想や身体的な記憶の連鎖が激しく、身体がざわついてしまい、読む手が度々止まってしまったのだけど、それ以上に、作中で語られる言葉に、この作品が恩田陸という作者を持つのだと思うと、悶絶というか何というか、長年恩田作品を愛読している身としてはもののあはれを覚えてしまうところが多々あって非常に楽しく読む。


 例えばこんなところ。


 周囲が気味悪がるほどに芝居に熱中し18歳で新人賞を総なめにした努力派少女が、しかし、そんな自分がどこかで芝居に完全にのめりこむのを拒絶していたと思う場面。

しかし、その一方で、どこかで彼女は醒めていた。必死に周囲からいろいろなものを吸収しながらも、最後の一点でのめりこむことを拒絶してたのだ。
 まだそっち側に行ってはいけない。そっち側に行ったら、二度と引き返せない。
 心のどこかでそういう声があった。
 むろん、そんなことを計算していたわけではない。当時は無我夢中だった。それまでに感じたことのない、役作りの深さ、面白さ。まだその快楽のとば口に立ったばかりと承知していても、楽しかった。なにしろオフィーリアである。古今東西の女優が演じてきた役。役の重さが桁違いだ。先達たちがおのれの解釈で作り上げてきた役に、今自分も一俳優として立ち向かっているという高揚感があった。
 しかし、同時に彼女は恐れてもいたのだった。
 この面白さには果てがない、ということに薄々気付いていたからである。
 恐らく、この世界の面白さ、この職業の面白さはこんなものではない。もっと凄い、もっと恐ろしい面白さがこの先に続いている。一生かけてもそれは味わい尽くせない。それは果てしなく、ブラックホールのように役者たちを呑み込んでしまい、どんなに求めてもきりがない。
 その予感が彼女には恐かった。まだ自分にはあそこに足を踏み入れる覚悟ができていないと知っていたのだ。


恩田陸チョコレートコスモス毎日新聞社(2006)p34〜35

 この文章、私にはこう読めてしょうがなかった。

 しかし、その一方で、どこかで彼女は醒めていた。必死に周囲からいろいろなものを吸収しながらも、最後の一点でのめりこむことを拒絶してたのだ。
 まだそっち側に行ってはいけない。そっち側に行ったら、二度と引き返せない。
 心のどこかでそういう声があった。
 むろん、そんなことを計算していたわけではない。当時は無我夢中だった。それまでに感じたことのない、物語を作る深さ、面白さ。まだその快楽のとば口に立ったばかりと承知していても、楽しかった。なにしろ物語を書いているのである。古今東西の人間が作り上げてきた物語という流れ。先達たちがおのれの解釈で作り上げてきた物語に、今自分も一作家として立ち向かっているという高揚感があった。
 しかし、同時に彼女は恐れてもいたのだった。
 この面白さには果てがない、ということに薄々気付いていたからである。
 恐らく、この世界の面白さ、この職業の面白さはこんなものではない。もっと凄い、もっと恐ろしい面白さがこの先に続いている。一生かけてもそれは味わい尽くせない。それは果てしなく、ブラックホールのように作家たちを呑み込んでしまい、どんなに求めてもきりがない。
 その予感が彼女には恐かった。まだ自分にはあそこに足を踏み入れる覚悟ができていないと知っていたのだ。

 どうも、こう、作家の姿を透かしてみたくなるような誘惑にかられてしまう。
 他にもこんな文章。

「技術っていうのは、使えばうまくなるし、うまくなればもっと使いたくなるでしょ」
「そりゃそうです」
 響子は頷いた。
「殺し屋にあるじゃん、得意な殺人方法が。『荒野の七人』で、ジェームス・コバーンはナイフ使いの名人だった」
 話が飛ぶので、今いちついていけない。
「確かに、ナイフを使うのが上手だという評判だったら、ナイフを使うの、頼むよね。でも、そんなにいっつもナイフ使うことばっかり頼んでていいのかなあって思うんだよね」
 なんとなく分かってきた。
 自分なりの方法を持っているプロの役者たちは、ついそれまでの経験に頼り、無難にまとめてしまおうとする。自分は芝居の一部であるとわきまえ、鑑賞に堪える作品を作り上げようといういわばプロ意識ゆえの行為なのだが、逆にそれが芝居を平坦にしてしまう。
 観る前から、きっとこんな感じなんだろうと予想がつき、観終わってからも、どこかで観たような気がする芝居になってしまうのだ。
―中略―
「なにしろ、東響子は何でもソツなく使える。ナイフも銃も、毒だって使える。頼むから、あたしの得意技はこれって決めないでくれよな。せっかくキミはいい殺し屋になれる資質があるんだから」


同上p73〜74

これがこう読めてしまう。

「技術っていうのは、使えばうまくなるし、うまくなればもっと使いたくなるでしょ」
「そりゃそうです」
 響子は頷いた。
「作家にあるじゃん、得意な分野が。―は学園モノとかノスタルジー、みたいな」
 話が飛ぶので、今いちついていけない。
「確かに、学園モノやノスタルジーを書くのが上手だという評判だったら、学園モノを書くの、頼むよね。でも、そんなにいっつも学園モノを書くことばっかり頼んでていいのかなあって思うんだよね」
 なんとなく分かってきた。
 自分なりの方法を持っているプロの作家たちは、ついそれまでの経験に頼り、無難にまとめてしまおうとする。自分はエンターテインメントを書いているのだとわきまえ、鑑賞に堪える作品を作り上げようといういわばプロ意識ゆえの行為なのだが、逆にそれが物語を平坦にしてしまう。
 読む前から、きっとこんな感じなんだろうと予想がつき、読み終わってからも、どこかで読んだような気がする物語になってしまうのだ。
―中略―
「なにしろ、―は何でもソツなく書ける。ミステリもSFも、ホラーだっていける。頼むから、あたしの得意技はこれって決めないでくれよな。せっかく―はいい作家になれる資質があるんだから」

 また例えば、ベテランの劇作家が若手の旗揚げ公演に足を運びそこに集まった観客を見て思うこと。

こんなふうに、全く何の縁故もない見知らぬ一人一人が劇場に足を運んでくれて自分たちの商売が成り立っているのだと思うと、あまりにも不確かで何の保証もないないことに愕然とする。彼らには、そうする義務はどこにもない。食べたり飲んだりするように、毎日の生活に必要なわけでもない。彼らが「観たい」と思い立ってわざわざチケットを買い、足を運んでくれない限り、劇場は埋まらず、我々は食っていけない。
 そう考えると、こうして目の前に立って談笑している客たちが、有難くも恐ろしくてたまらなくなるのだ。


同上p151

 これがこう見えてくる。

 こんなふうに、全く何の縁故もない見知らぬ一人一人が書店に(あるいは図書館に)足を運んでくれて自分たちの商売が成り立っているのだと思うと、あまりにも不確かで何の保証もないないことに愕然とする。彼らには、そうする義務はどこにもない。食べたり飲んだりするように、毎日の生活に必要なわけでもない。彼らが「読みたい」と思い立ってわざわざ本を買い(あるいは借りて)、読んでくれない限り、作品は売れず、我々は食っていけない。
 そう考えると、こうして目の前に立って談笑している客たちが、有難くも恐ろしくてたまらなくなるのだ。

 
 他にも色々と引っかかってしまったのだけど、これが他の作家だったら全然気にならないのに何故か恩田陸だと気になってしまう。不思議だ。と、他し事はさて置き、物語の閉じ方を見ると、正式な意味での続編は期待出来なさそうだけど、天才的な演劇少女―佐々木飛鳥―の兄弟と父親をメインにした作品を書いてくれないものだろうか。中々、魅力的な書かれ方がされていたので気になる。『六番目の小夜子』の関根一家みたいな感じで。期待期待。