光の名はアムネジア

 朝一で図書館にいこうと思っていたのに、目覚めたら16時だった。やってらんねぇと不貞寝しようにも、寝すぎで眠くもならない。しょうがないので起きだし、夕飯の材料を買いに外にでる。妙に春めいた気候に腹がたつ。寝坊した日に限ってこれだ。これなら土砂降りにでもなってくれた方がまだ納得がいく。途中立ち寄った八百屋で、少し潰れた不ぞろいのイチゴが、一箱100円の捨て値で売っていた。四箱購入。帰宅後、ジャムをつくる。ヘタを取り、綺麗に洗い、水気をきって大鍋に投入し、グラニュー糖をふりかけ三時間ほどおく。その間に稲生平太郎『アムネジア』を読了。幻惑的な言葉の連なりと構成、そしてこれらによって喚起されるイメージ群に総毛立つとともに陶然とし、ぼんやりと霞む頭で台所にもどり、鍋に火をつける。中火〜弱火で30分ほど鮮やかな色が消えない程度に火を通し、最後にレモン汁を入れ、煮沸しておいたガラスの大瓶にいれる。薄暗い台所の明かりで見る蠱惑的な紅の色合いに、さきほど読んだ『アムネジア』を思いだし、またも陶然とする。前作の『アクアリウムの夜』が薄暮と水のイメージだとしたら、本作は宵闇のイメージが強く響いていたのだけど、ジャムのせいで、赤々とした火のイメージが付与されてしまった。明日の朝はヨーグルトにこのジャムをたっぷりといれて食べよう。それにしても、久しぶりに恐ろしく強靭な本に触れてしまった。しばらくこれだけで楽しめそうだ。とりあえず、私はこの本を「本当に」「読んだ」のか、というところから考え始めるのが良いのかもしれない。
 関係ないけど、『アムネジア』を読みながら、頭の中でぐるぐると小松左京『果しなき流れの果に』が流れていた。何故だ。大阪だからか? そんな阿呆な。さらに、こんな文章を思い出した。

 貫世界同一性の問題は、サンドウィッチ説対ソーセージ説だといわれる(これでも十分突飛かもしれない)。まず、サンドウィッチ説とは、個体はその断片が各可能世界にマッチした形でばらばらに存在しており、"複数の世界にわたって同一の個体が存在している"ような形に見えるのは、実はこの個体片がサンドウィッチのように重ね合わせられた姿を見ているだけ、というものだ。この場合、切片が重ね合わせられる基準の方は、あまり問題にされていない。「その可能世界での関心や要請に合わせてピックアップされてできたものが個体なのだ」という相対主義的な人から「個体に先立ってイデアが絶対的に存在しており、それに従って個体片が集められる」という本質主義者まで、いろいろな立場があるようだ。
―中略ー
 さて、それに比べてもうひとつのソーセージ説は単純明快だ。これは「個体とはソーセージ(あるいは、切り口が同じ顔に見えないできそこないの金太郎飴、といってもよいだろう)のように、各可能世界を貫いて横たわるものだ」と考える立場だ。−中略−こちらはイデアや属性などに先立ってまず、ワシントンありき、と巨大な実体がひとつだけあることになるので、本物の基準などについて頭を悩ませなくてもいい。形式的に処理する上でも、こちらのソーセージ説を受け入れた方が話は早いようだ。しかし、いくらこれは存在論ではなく、形式的意味論なのだ、といわれても、無数の可能世界を貫いてナマコのようにどてーっと横たわる個体を想像するのは、あまりにも不自然ではないだろうか。


香山リカ『自転車旅行主義―真夜中の精神医学―』ちくま文庫(1998)p77〜78

 

 こんなに長く引用するつもりはなかったのだけど、最後の「無数の可能世界を貫いてナマコのようにどてーっと横たわる個体を想像するのは、あまりにも不自然ではないだろうか」という、ナマコの比喩が好きなので、つい長々と引用してしまった。どてーっと。『アムネジア』の「物語」が、仮に、それぞれ権利的に存在しうる異なる物語の集積だとしたらそれはサンドウィッチなのか、それともソーセージの方なのだろうか。つまり、それぞれの物語間を横断する存在があるとして、その存在は、破片となって再合成されるのか、それとも、人物としての統一性を持ち、異なる「物語」の間を、「まるで過去の私があったような、未来の、次の私があるような」気持ちを抱え、「天と奈落に向かって繰り返し、繰り返し堕ちていくしかない」のかということなのだけど。


 ネットを徘徊していたら、このような感想を見つけた。非常に面白く読む。


Lエルトセヴン7 第2ステージさんから2006年02月19日 『アムネジア』稲生平太郎