蝶を蛸と読み間違えていた事に今日気づく。『八本脚の蛸』ってまんますぎる。でもあの本の表紙は蛸の脚の断面に見え……ないかな、やっぱり。

 色とりどりの文庫ひしめくワゴンの中から少しくすんだ色合いの赤い背表紙が眼に飛び込んでくる時の高揚感といったらないもので、先日赴いた月恒例の古本市にてようやっと山田風太郎秘戯書争奪』を見つける。嬉しさの余り乱舞しそうになるも、この日の日記にも書いているとおり、500円以下でなければ買わないと決めているので、見つけたといっても油断は出来ない、さてこれはいくらと値札を見ると、200円。購入。これで角川の赤背山風も残すところ『忍法鞘飛脚』『忍者六道銭』の二冊と相成った。ただ、この二冊は売っているところを知っているのですぐに手に入れることができてしまう。しかしながら、如何せん、両方とも1000円近い値が付いているため買うことはないのでまだしばらく捜す楽しみは続きそう。この、買えるのに買わない、手を伸ばせばすぐに手に入るのにあえて手にしないという歪んだ楽しみ。古本屋にいって件の本の前で「ああ、この二冊でコンプリートなのに」と四月の気層のひかりの底を身悶え歯噛みしゆききする楽しさよ。それにしても何で私はこんな楽しみかたをしているのだろうとたまに不思議になるのだけど、それはつまりあれだ、「つぎの夜から欠ける満月より 十四番目の月がいちばん好き」なのだ。きっと。


 他に嘉納治五郎嘉納治五郎―私の生涯と柔道 人間の記録 (2)』、日高普『本をまくらに本の夢』を購入。前者はいわずと知れた柔道の「創始者」の自伝。この間読んだ、よしだまさし姿三四郎富田常雄』が面白かったので、その流れで購入。富田常雄姿三四郎』は檜垣三兄弟(特に三男)との闘いとか、フリークスとの闘いのところが好きです。柔道対××男は衝撃でした。そういえば嘉納家といえば、廃仏毀釈の嵐が吹きまくっていた頃、嘉納次郎作という人が比叡山接触を持ち、日吉大社から何かを預かったんだか手にしたという記録を読んだ覚えがあるのだけど、どうやらこの嘉納次郎作は嘉納治五郎の父親らしい。それにしても、なにで読んだのか思いだせない。伝奇好きとしては気になるところだけに悔しい。と、今、『嘉納治五郎』を読んでいたらこんな文章を見つけた。

 自分の父は、もと江州坂本の生まれで、日吉神社の神官をしておった、正三位生源寺希烈卿の次男に生まれ、家庭においては、専ら漢学や絵画を学び、若年のころ諸方を遊歴する途次、灘の酒造家嘉納次作の家に逗留していた頃、論語の講義をしたことが縁となり、次作に懇願されて、長女定の養子となった。


嘉納治五郎嘉納治五郎―私の生涯と柔道 人間の記録 (2)』日本図書センター(1997)p62〜63

えーっと、何だかドキドキします。これで坂本龍馬と……とかいう話がでてきたりしたら堪りません。って、いや、繋がるのか。この親父さん、勝海舟と懇意だったというし。ヒ一族万歳。



 後者は書評、エッセイ集。作者は経済学の人らしいけど、はじめて知る。たまたま手に取りぱらぱらみていたら、なんともとぼけた文章に一目で気に入る。人によってはずらし方というか、狙った感じがいやらしく見えるかもしれないけど良い文だと思う。ざっと読むと、一本一本の書評は短すぎて、本の内容紹介にとどまるきらいがありそこが残念だけど、前書きと後半のエッセイ、特に岸田國士の思い出を綴った「ただで芝居を観る法」が面白く、これは良い人に出会えたと嬉しくなる。ぱっと見で波長が合う感じのする本と出会えるのはこの上なく愉快也。

 インターネットのためにやがて本が駆逐されるだろうという説があるが、コンピュータがまくらになるだろうか。本はそのために作られたものではないからまくらに適したものではないとはいえ、寝ころんで本を読んでいて眠くなったときまくらに当たるものをそばに求めるとしたら本しかないではないか。そのとき本は立派にまくらの役を果たすのである。風邪をひかないためには暖かいときがいいし、できればすべてがもの憂いような晩春がいい。その晩春のひとときに陶然たる夢をむすぶことができるのも、本のおかげであろう。インターネットに比べて、だんぜん本を支持するゆえんである。与謝野晶子だって歌っているではないか。「春曙抄に伊勢をかさねてかき足らぬ枕はやがて崩れけるかな」。いや、これはちょっとちがうかな。


日高普『本をまくらに本の夢』社会評論社(1996)p3