きょうよんだほんから

村上 (中略)ところで、本の紹介で思い出したけど、僕がときどき存在しない本について書いていたの知ってます?

新元 え、どういうことですか。

村上 昔の話ですけどね。やりたくないのに書評の仕事を引き受けて、いろいろ読んでも面白い本がなかったときはでっちあげて書いていたんです。アメリカで出てる本って言って。これこれこういう話で、主人公はこういう人、こんな変な奴が出てきて、これは面白いからぜひ読んで下さい、手に入りにくいかもしれないけどって(笑)。今はアマゾンとかあるから、検索すればそんな本はないってわかっちゃうからやりませんけど。

新元 そんなことなさっていらしたのですか。
(中略)
新元 面白いですよね、もしそうやって書いた原稿を集めて本にしたら。

村上 でも、日本の読者は真面目だから、もしそんなのバレたらすごく非難されるんですよ。「嘘つき!」って。インターネットなんかやってたら抗議が殺到しちゃうよね。冗談きかないこともあるから。


新元良一『翻訳文学ブックカフェ』本の雑誌社(2004)p260〜261


 本書は新元良一と11人の翻訳家とのトーク・セッションをまとめたもの。 若島正柴田元幸青山南といった錚々たる面々が、それぞれの翻訳観、というか、ようするに「読む」とはどういう事なのかについて語りたおしている。引用したところの発言者「村上」は村上春樹。面白い本をどうやって探すか、という話の流れででてきた話。村上春樹がこんな遊びをやっていたとは。新元が言うように、それを集めた本を読んでみたい*1。存在しない本について語るというのは、洋の東西を問わず結構やられているはずで、少し考えただけでも、小説というかたちではレムとかボルヘスという名がすぐに浮かぶだろうし、村上の場合は紹介本になるのだろうからちょっと違うのかもしれないけれど、そもそも、「存在しない物語について語る物語」とか「存在しない物語に対する注釈」という形式は小説の(あるとすればだけど)本質に掠る話だからそれだけでも興味深いし、日本だと、これもやっぱり小説ではないけど、垣芝折多 著 松山巖 編『偽書百選』みたいな物凄いものもあるので、今更、村上がだしたところでそこで変な非難をする野暮な人なんていないような気もするのだけどそういうものでもないのか。社会的な知名度が違うというのはあるのかもしれないけど。
 でも、そこで語られる本は「ない」ものなのだけど、それが存在しているかどうかとは関係なく「ある」事を前提として語られることで、「ない」ものが言葉の中で「ない」ままに作品として「ある」ようになるという面白さと、そこで「ない」ままに生み出された作品を村上が「読む」ことで、片手で絵を描きながら、同時にもう一方の手でその絵の解説をするような、こう、一粒で二度美味しいようなお得感があるように思えてしまい、読んでみたいなぁ。


 あ、この本、トーク・セッション自体はとても面白かったのだけど、せっかくページの下に注釈用のスペースをとってあるのだから、もう少し注を入れて欲しかった。ある作家に注がつくかと思えば、他の作家にはつかず、ある作品に注がついたかと思えば、他の作品にはつかないというように、注をつける基準がよくわからない。それとやたらに書影をのせてあるのだけど、これ、実際に書店で本を捜す時に、一度書影を見ていると捜しやすいので、ありがたいといえばありがたいのだけど、ここまで載せる必要あったのかしらん。そこにスペースをさくくらいなら、作品の情報は出版社とか作者程度で良いので、固有名詞レベルの注を充実させて欲しかった。

*1:もしかしてでてる?