きょうのできごと

 その声が聞こえたのは、書店で夢枕獏『キマイラ青龍変』を立ち読みしている時だった。宇名月典善と馬垣勘十郎が焼き鳥屋で余人にはうかがい知れぬ気のぶつけあいをしているところだった。この馬垣という男が、キマイラ本編にでてくる当麻真玄流の馬垣勘九郎とどのような関係を持つのか妄想しハアハアしていると、宇奈月が馬垣にむかって酒の雫を弾き飛ばし、馬垣が焼き鳥の串を手にした。久しぶりに眼にする夢枕獏散文詩のような文章に、テンションがどんどん高くなってゆくのがわかる。眠っていた血がふつふつと煮えたぎるのがわかる。さあ、どうなると思った瞬間、背後で女性の声がした。


「恋愛は常に結婚を前提にしている。イエス、ノー?」
 一瞬、二瞬、間があり、男性の声がした。
「おまえは? いつもそういう事考えて付き合ってんの?」
 沈黙。
「ううん。別に考えないけど……」
「俺も別に考えてないよ」
「……うん」
「いこうぜ」
「でも、まだ、続きあるよ……」
 振り向くと、少し離れたところに、片手に持った本に眼を落としている女性と、男性の姿があった。
 就職活動中なのだろうか、リクルートスーツを着た男性は少し目線をそらすようにして、顔だけを彼女の方に向けている。
 女性は本に眼を落としたまま、しばらく黙っていた。
「なあ、いこうぜ」男性がもう一度言った。
 頷いて女性は本を平棚に戻した。二人はエスカレータに向かった。


 なんだったのだろうあの会話と妙な間は。二人が去った後、テンションが下がってしまった私は、平棚に近づき、女性が戻した本を見た。占いの本だった。すると私が耳にしたのは、その本にかかれた質問だったのだろうか。そうだと思いたい。きっとそうだ。そうに違いない。何だか見てはいけないものを見てしまったような気がするのだけれど、私は絶対悪くないと思う。本を棚に戻し、帰路についた。なんだか、とても、げんなりとしてしまった。