『ケータイ刑事』を観るか『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を観るかで友人と30分ほど話し込む。

 書店で文庫の棚を見ていた友人が一冊抜きだし首を傾げたのでどうしたのかと尋ねる。
 「いや、この本買ったかどうか思いだせなくて」
 何を手にしたかと見ればダンセイニの『時と神々の物語』。ダンセイニなんか読むのかと少々意外の感を覚えるも、よく考えればこの友人の読書傾向はあまり知らないのだった。
 「前はたしか『夢見る人の物語』を買った気が、いや、でも、もしかしたら『世界の涯の物語 』を買ってこの二冊を買ってなかったのかな。あれあれ」
 「気になるなら買えば」
 「だって1000円ですよ。買って帰って家にあったら悲しくなるじゃないですか」
 それもそうかとうなずく。それに現行流通しているものならば、帰って調べてからでも遅くないし。
 「それにしても」と、本を棚に戻しながら友人が言う。「だんだん本が増えていくと自分が何を持っていて何を持っていないかわからなくなってきませんか」
 「まあ、しょうがないよね。でも新刊書店で手に入るものならいいけど、これが絶版とか品切れ本だったらどうする?」
 「ああ、古本屋で自分が持ってるかどうか確証の持てない、でも捜していた、もしくは欲しい本を見つけちゃった時とか?」
 「そうそう」
 「そりゃ、値段によるんじゃないですか」
 「いくらまでならだせる?」
 「うーん。一概には言えないでしょ。どれくらいその本が欲しいのかとか、流通量はどうだとか、その本屋がどこにあるかとかにもよるだろうし」
 「もう一度いくのに面倒くさくない範囲で、かつわりと欲しい本だったら?」
 「300円くらいじゃないですかね」
 「しょぼいな」
 ならばあなたはどうだという言葉にしばし考える。
 「普通にでかける範囲でわりに欲しくてそれほど流通していないやつなら200円くらいまで。結構流通してそうで、それほど欲しくないやつならいったん家に帰って確認して次の日にでも出直す。遠方の本屋でわりに欲しくて流通少ない本だったら基本的に買いで3000円くらいまでならだすかなぁ」
 「あなたのほうがしょぼいじゃないですか。まあ、自分の持ってる本くらい把握しとけって話ですね」
 いや、まったくだ。


 でも確かに、ここ数年、自分が何を持っていて何を持っていないかというのはだんだん怪しくなってきていて、店頭で手にした本を読んだ記憶があってもそれを買って読んだのか借りて読んだのか、いやそもそも本当に読んだのかという疑念が飛来し、読むつもりで買った本や、読むつもりで買っていない本や、興味ないけどよく目にしているうちに段々自分が持っているような気になってくる本や、友人・知人・先輩・後輩から薦められた作家名、題名がごっちゃになり、買おうか買うまいか、買うべきか買わざるべきか、なにがなにやら頭の中がシュトゥルム・ウント・ドラング


 そして、得てして、これは持っていなかったはずと思い買って帰ると、本棚の一番目立つところに鎮座ましましていて、これは持っていたはずと買わずに帰ると、どこにも見つからないというもので中々に悩ましく、これが作家ではなく作品レベルで捜しているものならともかく、作家単位で買う、つまりその作家のものをコンプリートしようと考えたり、シリーズものを集めたりしていると、中々に大変で、巻数が多いものは、それが増えるのに比例して自分が持っていたかどうかわからなくなり、例えば全30巻の本を集めていたとして、ばらばらに買っているとだんだん自分がどこまで持っていたかが怪しくなり、たまに本屋でであうと「これ持っていたかな」と呻吟するはめになる。そして、本屋の棚に並ぶのが一冊二冊だと思い切って買ってしまうという選択が取れるだけまだよいのだけど、これがへたに何十冊もならんでいると、その中には確実に自分が持っていないものがあるので、迷いに迷い、結局買うことができず、帰宅して欠巻をチェックして数日後に出向くとその巻は無いということもある。こういう時はそれがはなから無かったのだと思う事が精神衛生上良いのは間違いないのでそう思おうとするも、時として私が迷い立ち去った後で誰かが私の持っていない巻だけを選んで抜いて行ったのではという妄想がふつふつと湧いてくる事もあり、こう、なんだか、買えなかった事よりもそういう妄想が沸いてくる自分がたまらなく可哀想な子のように思えてきてなんとも遣る瀬なくなる。
 いいかげんメモするとか覚えよう。