チャーリーと納豆工場

 何の因果かしらねども、よりにもよって12月25日、世に言う「クリスマス」になんで私は寒風吹きすさぶ寺の境内で餅を搗いているのだろうという疑問はここ数年毎年覚えながら、その度、忙しさに紛れすぐに意識の流れに溶けてゆくものの、何故というにつまりは私がこの日になんの用事も無い人間だからだというのは、まったくそのとおりで、しかしいくら私が基督教徒ではないからといって、仏滅の日に寺で延々昼から夕まで知らない人と会話しながら餅を捏ねているというだけでも変なシチュエーションなのに、今年はとうとう手返しまで覚えさせられたときては、テンションも変になり「あー、一年中餅を捏ねていたいですね」「あー、いいね。杵と臼を担いで日本をまわるのな。養蜂業みたいに」とか、蒸したもち米を臼に入れた後、二人一組になって臼の周りをぐるぐると回り杵で米を潰す作業をしながら「良いお餅はオレンジのかおり」とぶつぶついっているのは何かの宗教行事にしか見えないのではないかと思う。数十人分の餅を搗き終えた頃には日もとっぷりと暮れ落ち、私の腰は悲鳴を上げ始めていた。ただの筋肉痛かと思っていたこの痛みがまさか正月を越えても続くとは知るよしもなく、道具を片付け、宴会に混ざりお酒を頂きながら周囲を見回し、あれは某企業の創業者の親族、とか、あれは某ビルのオーナーの息子とかいう話を聞き、友人と、なるほどハイソな方々というのは本当にいるのだなという話をする。結局この日は徹夜になり、翌日死ぬかと思った。