「インターネット殺人事件」さんに捧げる。


インターネット殺人事件」さんの11月25日の日記を見てとても楽しくなる。こういう文章を見ていると頭の中で何かが流れるのがよくわかる。どくどく。前々から凄いサイトだとは思っていたけど、これほどまでに柳生、ひいては隆慶一郎に惚れ込んでいるとは。一人で興奮してしまったので以下の文章を勝手に捧げてみる。昔書いた文章をほぼそのまま置いているので、読みにくい点が多々あるかとは思われるが、読まれる方はご寛容の程を。ちなみに本文中の「レ」とか「一」、「ニ」は返り点です。





 中国の明代に編纂された兵書『武備志』に不思議な伝書が収録されている。
一読すれば分かるように、この文書は漢字仮名まじりの草書体で書かれていると思われるのだが、それを同書に収録する際、日本語を解しない人間が無理に翻刻したようで、殆ど意味が通じない。この不思議な伝書を『影流之目録』と解読し(便宜上、以下この書を『影流之目録』として扱う)、「陰流」と関連付け考察したのは、管見の限り、元禄元年(1688)に成立した松下見林の『異称日本伝』が始めてのようである。
 『異称日本伝』は計126種にのぼる中国・朝鮮の書物の中から、日本に関係する文章を抜き出し、自らの疑問や批判を付け加えることで成立した書物。この書は広く読まれたようで、これ以後、陰流に言及する諸書に引かれているのを見ることができ、陰流についての言説に多大な影響を与えたといえる。

その「巻中之六」に次のようにある。


武備志巻八十六  陣練制 練 教藝三         防風茅元儀輯
    劍
   固知、中國失而求ニ之四裔一、不ニ獨西方之等韻、一日本之尚書也、
(固に知る。中国が失いこれを四裔に求める。独り西方の等韻にあらず、日本の尚書なり)    


茅子曰、武經總要所レ載刀凡八種、而小異者猶不レ列焉、其習法皆不レ傳、今所レ習惟長刀、腰刀、腰刀非ニ團牌一不レ用、故載ニ於牌中一、長刀則倭奴所レ習、 世宗時進犯ニ東南一、故始得レ之、戚小保於ニ辛酉陣上一、得ニ其習法一、又従而演レ之、并載ニ於後一、此法未レ傳、時所レ用制略同、但短而重、可レ廢也、
(茅子曰く、武経総要に載せるところの刀、おおよそ八種。小異の者なお列せず。その習法みな伝わらず、今習うところ、ただ長刀、腰刀。腰刀は団牌にあらずんば用いず、牌中において載せる。長刀、即ち倭奴の習うところ。世宗の時、進んで東と南を犯す。故に始めてこれを得る。戚小保、辛酉の陣上においてその習法を得たり。また、従いてこれを演ずる。あわせて後に載せる。この法いまだ伝わらず時に用いるところ刀の制略に同じ。但し、短くして重い。廃すべしなり)


と、『武備志』を引用し、これに続いて松下見林は次のように述べる。


今按、戚少保戚繼光、辛酉明嘉靖四十年、當ニ日本正親町天皇永禄四年一、影流日本劍術者流名也、當影レ作レ陰、凡日本自レ古雖レ多ニ敦劍者一源義經稱ニ絶軌一、鞍馬寺有ニ鐔正谷一、寂寞無人之境也、昔權僧正壹演嘗修ニ行佛道于此一、故名ニ鐔正谷、一出ニ眞言傳一世傳、義經少年避ニ平治之亂一、至ニ僧正谷一、逢ニ異人教以ニ劍術一、義經善習ニ刺撃之法一、其後劍客居多、及ニ乎足利氏之季一有ニ日向守愛洲移香一、磨ニ霜刃一年久、詣ニ鵜戸權現一鐶ニ業精一、夢閼顕ニ、名著ニ于世一、名レ家曰ニ陰流一其従上泉武蔵守藤原信綱用レ心損ニ益之一、號ニ新陰流一、有ニ猿飛、猿回、山影、月影、浮船、浦波、覽行、松風、花車、長短、徹底、礒波等手法一、茅氏擧ニ猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見之名一、而収ニ入國字一、傳寫之誤、披草有ニ缺畫一、


(今あんずるに、戚少保は戚繼光なり。辛酉四十年は日本の正親町天皇の永禄四年(注 1561年)にあたる。影流は日本剣術の者流の名なり。影はまさに陰に作るべし。おおよそ、日本古くよりおのずから剣をうつもの多いといえども、源義経が軌を絶すととなえる。鞍馬寺に僧正谷あり。寂寞として無人の境なり。むかし権僧正壹演、嘗て仏道をここにおいて行を修めた故に僧正谷と名づく。真言伝に出づ。世伝えて、義経少年平治の乱を避けて僧正谷に至り、異人にあう。異人教えるに剣術をもって、義経よく刺撃の法を習う。その後、剣客いること多し。足利氏のすえに及んで、日向守愛洲移香あり。霜刃を磨くこと年久しく、鵜戸権現に詣で業の精することを祈る。夢に神、猿の形で顕れ、奥秘を示す。名を世に著わす。家に名づけて陰流という。その徒、上泉武蔵守藤原信綱、心を用いてこれを損益し、新陰流と号す。猿飛、猿回、山影、月影、浮船、浦波、覽行、松風、花車、長短、徹底、礒波などの手法あり。茅氏は猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見の名を挙げて国字を収入す。伝写の誤り披草、欠画あり。


として、『武備志』に収録されていた『影流之目録』を次のように読み下す。


影流之目録 猿飛 此手ハテキニスキレハ意分太刀タリ 虎飛青岸陰見 又敵ノ太刀ヲ取候ハンカヽリ何造作モナウ先直偏カラス彼以上大事子切ヲ意婦偏幾ナリイカヽニモ法ニキリテ有偏シ 猿回此手モ敵多チイタス時ワカ太刀ヲテキノ太刀ア者ス時取偏ナリ初段ノコトク心得ヘシ 第三山陰 蓋武備志所レ載有ニ缺誤一、大抵應レ如レ是、
(蓋し、武備志に載るところ、欠け、誤りあり。大抵、この如くなるべし)

 ここに引用されている『武備志』は明の武将茅元儀が天啓元年(1621)に完成させた兵書である。茅元儀は歴代の軍事書籍二千冊余りを広く採りこれを編纂したという。上記に「戚小保於ニ辛酉陣上一」とあるが、松林見林が述べているように、戚小保とは明の武将戚継光のことである。戚継光は『紀効新書』の作者として知られる武将。『紀効新書』は軍事訓練を主な内容とした著名な兵書であるが、18巻本と14巻本がある。18巻本は明の嘉靖39年(1560)前後に、戚継光が浙江で参将に任じられたとき、兵士を訓練して倭寇に抗戦したときに作ったものといわれ、14巻本は明の万暦12年(1584)に、広東総兵に任じられていたときに新たに重ねて校訂し、増刷したものである。現存しているのは万暦23年(1595)徐夢麟刻本と書林江殿卿明雅堂本、明傅少山刻本、そして清代以来の多種抄本と刻本があり、『墨海金壷』などの叢書も収録している。14巻本は明の万暦16年(1588)の李承稃刻本、万暦21年(1593)刻本、崇禎17年(1644)刻本があり、記述内容に18巻本と異なるところがある。日本には、安政3年(1856)の相馬肇編になる9巻本(紀効新書定本 9巻)、寛政10年(1798)の平山子龍選になる18巻本の刻本などがある。

 万暦16年(1588)刊『紀効新書』(14巻本)所載「巻四短器長用解」では、短兵器の利を説いた後で、腰刀・長刀の二種類の刀について図解しているという。長刀部分は「長刀製」「長刀解」「習法」からなり、「習法」の中に「影流之目録」を挙げ、冒頭に「これ、倭夷の原本なり。辛酉の年、陣上にこれを得たり」と注記しているという。ちなみに、18巻本に『影流之目録』は収録されていないようだが、これは18巻本が成立したとき未だ辛酉の戦が起こっていなかったためではないかと思われる。
 『武備志』にある『影流之目録』は、この『紀効新書』に収録された「和夷の原本」をさらに採録したものだと考えられる。


 松下見林は『武備志』中の『影流之目録』に続いて図も付している。それは猿が互いに剣(刀?)を使う絵二枚。一匹の猿が剣(刀?)を構え、もう一匹が無手で相対している絵が一枚。猿が一匹で剣(刀?)を構える絵が一枚。その後に、中国風の衣装をまとった人間が互いに剣(刀?)を使う絵七枚と、やはり中国風の衣装をまとった人間が一人で剣(刀?)を構える絵一枚の計十二枚である(注)。何故、このように猿と人の絵に分かれているのか不思議である。戚継光が得た本がこのような体裁になっていたのかとも考えられるが、『武備志』中に「戚小保於ニ辛酉陣上一、得ニ其習法一、又従而演レ之、并載ニ於後一」とあり、特に「其習法を得たり」といっているところから、戚継光が新たな刀法を編み、さらに「また、従いてこれを演ずる。あわせて後に載せる」とあるところから、『武備志』に収録された『影流之目録』と猿の絵は、戚継光が辛酉の陣上で得た「和夷の原本」と同じものであり、その後の中国風の衣装をまとった人間の絵は戚継光が編んだ刀法を描いたものではないかと考えられる。

 ところで、繰り返しになるが、『影流之目録』は、漢字仮名交じりの崩し字で書かれているように見え、『紀効新書』、及び『武備志』に収録されるとき、実際の目録通りに翻刻しようとしたのか、漢字の部分はどうにか読むことができるが全体に意味不明な部分が多く、松下見林も上記のような訳を試みているが殆ど意味が通じない。
それでは何故松下見林は『武備志』に収録された文書を『影之流目録』と読み解き、「新陰流」と関係付けて考えることができたのだろうか。それに加え松下見林が解読したのは「影流」であって「陰流」ではない。何故、松下見林はこの二つを「影流日本劍術者流名也、當影レ作レ陰」として同じものと考えたのだろうか。


 松下見林が『異称日本伝』新陰流の「手法」として挙げているのは「猿飛、猿回、山影、月影、浮船、浦波、覽行、松風、花車、長短、徹底、礒波」である。
 松下見林はこれらの名称をどうして新陰流の「手法」と判断したのだろうか。それを考えるため、『異称日本伝』が成立した元禄元年(1688)までに書かれ、私の管見に触れた新陰流関係の目録から、『異称日本伝』に「影之流目録」として解読された中に出てくる名称と、新陰流の「手法」として引用された太刀名(猿飛、猿回、山影、月影、浮船、浦波、覽行、松風、花車、長短、徹底、礒波)に関係すると思われる太刀名を抜き出してみる。

・『影目録』永禄9年(1566)上泉信綱
「燕飛」(燕飛 猿廻 山陰 月影 浦波 浮船 獅子奮迅 山霞)


上泉伊勢守から西一頓を経て山北三蔵宛 慶長15年(1610)
「鷰飛」(鷰飛 猿廻 山陰 月影 浦波 浮船 山霞 獅子奮迅)


『猿飛之巻』元和5年(1619)
烏戸大権現から線が引かれ、愛洲移香、愛洲小七郎、上泉武蔵守、疋田豊五郎の名がある。
「猿飛目録」
猿飛 猿廻 山陰 月影 浮船 浦波


・『タイ捨流燕飛序』元和10年(寛永元年 1624)
丸目石見入道から丸目喜右衛門尉へ 
燕飛 猿廻 虎乱誥 十手誥 山陰誥


上泉から疋田豊五郎、山岡太郎を経て嶋田左源太宛 寛永5年(1628)
「新陰流猿飛目録」
猿飛 猿廻 山陰 月影 浮船 浦波


「新陰三学之巻」
覧行 松風 花車 長短一味 徹底 礒波


『月之抄』寛永19年(1642)柳生三厳
「遠飛」(遠飛 猿廻 月影 山陰 浦波 浮船 切甲 刀捧)


・『新陰流討太刀目録』貞享2年(1685)柳生利方筆
「燕飛」(燕飛 猿廻 山陰 月影 浦波 浮船)


(注 カギ括弧内は「かた」の総称であり、括弧内は個々の太刀名だが、元和5年(1619)と寛永5年(1628)の疋田のカギ括弧内は目録の名称であり、総称としての「かた」名がなかったため、その下に太刀名を記した。また元和10年(寛永元年 1624)『タイ捨流燕飛序』は題名だと思われる)


これらの目録を見ると、字句に多少の違いはあるが、その全てが始めの太刀名を「エンピ(燕飛・猿飛・鷰飛・遠飛)」として、続いて「猿廻」、第三に『タイ捨流燕飛序』と『月之抄』を除いて全て「山陰」としている。これは『影流之目録』に記してある「猿飛・猿回・山陰」とほぼ同じ名称であり、記された順序も同じである。
また、『異称日本伝』が「猿回」「山影」「長短」と書くのに対し、寛永5年(1628)の疋田を経由した左源太宛の目録では「猿廻」「山陰」「長短一味」となっているという相違はあるが、『異称日本伝』で新陰流の「手方」として引用されている名称と疋田を経由した嶋田左源太宛の目録に記載された太刀の名称が、極めて類似しているのが分かる。
無論、新陰流の影響下に成立した流派は数多くあり、発行された目録数も相当な数になる。取り分け柳生新陰流(江戸柳生系の新陰流)は将軍家の御流儀として隆盛を誇り、柳生但馬守宗矩の門弟のうち二十人近くが諸藩に召抱えられ各地で新陰流系の剣術を教授したため、元禄元年(1688)までに限っても、発行された目録はかなりの数になると思われる。松下見林が参照したのもあるいはそれらの膨大な数の中の目録であったのかもしれず、その中に『異称日本伝』で引用されたそのままの「手法」名を持った流派があったのかもしれないが、管見に触れた範囲内で考えるに、松下見林が参照した伝書は疋田系の新陰流のものと思われる。


 松下見林が初めから『武備志』に掲載されていた文章を「影流之目録」と読み、影流という流派の目録だと見当を付け、新陰流との関係を考えたのか、逆に新陰流の知識があったから「影流之目録」と読んだのかは分からないが、これらの点から、松下見林が『武備志』に掲載された日本のものと思われる文章を「影流之目録」と解読し、新陰流に関係させて考えたのは、諸新陰流の目録に記された「手法」(この場合疋田系新陰流)と『影流之目録』に記された「手法」名、それが記された順番、及び「影」と「陰」の名称の意味、音の類似によるものと思われる。


 ところで、『影流之目録』の中で比較的確実に読めるものとして、「山陰」の前の「第三」という文字があるのが気になる。その通りに読めば「第三番目の」になると思われるのだが、これは一体、何に対しての「第三」なのだろうか。上記のように「影流」が「陰流」であり「新陰流」と関係があると考えれば、その太刀名表記の順番も関係があるといえる。すると、諸新陰流が「燕(猿)飛」の「かた」を「燕(猿)飛・猿廻・山陰」の順番で記しているように、「影流之目録」の太刀名も「猿飛」「猿回」に続く「第三」の太刀名として「山陰」と記してあると考えた方が自然である。そこで問題になるのが松下見林が「虎飛・青岸・陰見」と読み取った文字である。本文で「茅氏擧ニ猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見之名一、而収ニ入國字一(茅氏は猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見の名を挙げて国字を収入す)」としているように、松林見林は「猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見」と読んだ文字をそれぞれ別個の固有名詞として、つまりここでは『影流之目録』を構成する「手法」として読み取っている。これをうけてか『影流之目録』について言及した書の殆どが、自明の事として「猿飛、猿回、山陰、虎飛、青岸、陰見」を「影流」の「かた」としている。しかし、「山陰」の前に置かれた文字が「第三」であるならば、その前に五つの太刀名があるのは奇妙に思える。松下見林もそう感じたのか上記のように『影流之目録』本文に出た順番を入れ替え「猿飛、猿回、山陰」と「虎飛、青岸、陰見」のように分けて言及している。

 確かに原文を見ると、初めに題名と思しき「影流之目録」と読める文があり、改行して「猿飛」とあり、また改行され、「猿飛」よりも小さな字で文が書かれている。この部分は一番初めの文字が「此手ハ」と読めるところから、「猿飛」の解説であることは間違いないと思われる。それが二行続き、改行され、「虎飛青岸陰見」(ただ、「虎飛」の「飛」の部分は「龍」にも見える)という文が出る。この箇所をひとまず置き次を見ると、五行分文字が記され、「猿飛」と同じ位の大きさで「猿回」の文字が書かれ、改行され、また少し小さな字で四行続く。そして最後に「第三 山陰」という文が置かれる。
 
 さて、ここで気になるのは「虎飛青岸陰見」の部分が、本文の解説部分と思しき部分とは異なり、「猿飛」「猿回」「山陰」と同じ位の大きさの字で記されているように見えることと、最後が一マス分空き、改行されているように見えることである。文の構成上、このような書き方からは明らかに「虎飛青岸陰見」は「猿飛、猿回、山陰」と同様の性質を持ったもの、つまり個々の太刀名を示したものだと読み取れる。しかしそうすると「第三 山陰」の意味が取り難くなる。また、何故他の太刀名のように「虎飛」「青岸」「山陰」と分けて書き、一つ一つに解説を加えなかったのかが気になる。しかし、もしも「虎飛青岸陰見」以下を説明文(この場合、場所からいって「猿飛」の説明部分だと思われる)だとすると、わざわざ「猿飛」の後に改行した意味が分からなくなる。
ここで考えられる可能性としては以下のようなものがあると思われる。


①一つ一つが太刀の名称。
②「猿飛」という動きに含まれた個々の太刀名。
③「猿飛」に含まれた心法。
④影流に関係する太刀名で、猿飛の動きの説明のためこの場所に持ってきた。
⑤影流とは関係ない太刀名


①はそのまま「虎飛青岸陰見」を「虎飛」「青岸」「陰見」を個別の太刀名と見る考えで、諸書はこの考えに習っている。しかしこれだと、文中の収まりが悪いように思える。何故、「虎飛」「青岸」「陰見」と個別の太刀名として分けて記さず「虎飛青岸陰見」と一括りにしているのか。また、何故「第三 山陰」とあるのかが分からなくなる。


②は「猿飛」を「かた」の総称と考え、「虎飛青岸陰見」を「虎飛」「青岸」「陰見」と個別に分け、「猿飛」の中に含まれる太刀名とする考え方である。例えば上記の『影目録』などでは「燕飛」を個々の太刀名であると同時に「燕飛」という一群の「かた」の総称としているが、「影流之目録」でもそのような構成になっており「虎飛」「青岸」「陰見」の総称として「猿飛」という名称が付けられ、「猿飛」の次の文は「猿飛」全体の解説であり、「猿飛」を構成する太刀名として「虎飛」「青岸」「陰見」を挙げ、その後の文で「猿飛」の具体的な解説を行っているとみる考え方である。


③は「虎飛青岸陰見」を影流の中の特別な語彙としてみる考え方である。例えば『影目録』では「燕飛は懸待表裏の行、五箇の旨趣をもって簡要となす。いわゆる五箇は眼・意・身・手・足也(原漢文)」として「燕飛」の注意すべき点を語っている。また新陰流には「二星」「峰谷」「遠山」などの用語が技法の説明や精神状態の説明に使われている(注)。「影流」にもそのような用語があり、「此手ハ」以下で「猿飛」の意義を説明し、その後特に注意すべき点として「虎飛青岸陰見」という影流独特の用語を用いて、具体的な説明をしているのではないかとみると、この場合、改行したのはそれが固有名詞であることと、特にこの部分を強調したかったからだということになる。


④は「虎飛」「青岸」「陰見」を影流に含まれる太刀名ではあるが、「猿飛」とは直接に関係を持たないものであるとみる考え方である。何故この場所に置かれたかは不明だが、例えば「猿飛」の説明などの理由だろうか。


⑤は「虎飛」「青岸」「陰見」を影流とは関係ないが、太刀名だとみる考えである。他流派(例えば『影目録』にしるされた「上古流」「中古念流・新当流」「其の外」)の中にこのような太刀があり、「猿飛」との関係でそれについて語っているとみる考えである。『影目録』に「九ケ之太刀」(必勝・逆風・十太刀・花木・睫径・小詰・大詰・八重垣・村雲)があるが、これは上泉武蔵守信綱が自分の極めた他流の奥源の中から選び出した太刀を九本にまとめたものだという(注)。つまり上泉が新陰流を興した当時、すでに他流派が存在し、独自の太刀を持っていたことが分かるのだが、『影流之目録』を書いた人物も他流派の太刀を知り、それに名前を付け(あるいは他流派の太刀名をそのまま用い)、「猿飛」の項でそれを書き、比較の対象、もしくはその太刀に注意するようにいったのではないかという見方である。



資料の確定も定まらないものに対し、何故、こんな埒もない事をくだくだしく書いたかというと、諸書が「猿飛、猿回、虎飛、青岸、陰見、山陰」を影流の太刀名だと安易に断定していることへの違和からである。また、「影流之目録」の解読が難しい以上、この先、新資料(「影流」関係の伝書など)が見つからない限り「影流」の体系は不明のままだが、それは現在明らかになっている資料の分析を止めることを意味しないと考えるからである。

 ところで、この『影流之目録』が何時、誰の手によって書かれたのかという問題が残る。
『紀効新書』に「辛酉の年、陣上にこれを得たり」とある事から、戚継光が『影流之目録』を手に入れたのは辛酉の年に間違いないだろう。十干と十二支による年号は、10と12の最小公倍数から60年で一回りし、60年に一度同じ年号がくるが、1528年(?)に生まれ1587年に没した戚継光が活躍していた範囲で辛酉の年は1561年(嘉靖40年)のみなので、この「辛酉の年」は1561年で間違いない。嘉靖40年は松下見林が書くように、永禄4年(1561)にあたる。辛酉の戦いが何月にあったのかわからないので、少し幅を持って考えても『影流之目録』は永禄3年(1560)までには成立していた可能性が高いと考えられる。この『影流之目録』を陰流の目録と考えるとして、永禄3年(1560)といえば、『伝記』より、陰流の開祖愛洲移香斎久忠の没(1538年)後22年である。また同書によれば、息子宗通は永正16年(1519)に生まれたとあるので、この時42歳。その子常通は天文5年(1536)に生まれたとあるので、この時25歳。その息子は永禄元年(1558)生まれなのでこれは違う。また、陰流を習った者であるが、現在伝書から確実に確認できるのは上記の『影目録』を記した上泉武蔵守信綱だけだが、生年が曖昧なのでひとまず年齢の考証はおくとして、『影目録』が発行された前年、柳生新左衛門尉に向けて発行した新陰流の印可状に「永禄八年卯月」とあることから、この頃までには新陰流を名乗っていたことはほぼ確実だと思われるが、それ以前に陰流の目録を「影流」名義で出した可能性はなくもない。


以上のことから、戚継光が辛酉の戦いで手に入れた『影流之目録』を発行した可能性があるのは、
愛洲移香斎久忠(含むその弟子)
②愛洲美作守宗通(含むその弟子)
③愛洲修理亮常通(含むその弟子)
そして、新陰流を名乗る以前に陰流・影流を名乗っていた時期があり目録を発行していたとすれば、
④上泉武蔵守信綱(含むその弟子)
となり。後は、陰流≠影流だとすれば
⑤それ以外
となると思われるが、これ以上の事はわからない。


 ただ、一応付記しておくと、上記のように永禄8年(1566)、柳生新左衛門尉宛に書かれた印可状では「新陰流」と書かれ、また同年、宝蔵院胤栄宛に出された印可状にも「新陰流」と書かれてある。その後、柳生家で発行される伝書はすべて「新陰流」としているようである。また、永禄8年(1566)、ないし永禄9年(1567)以前に秀綱から疋田豊五郎に発行された目録にも「新陰流」とあるという。
 しかし、上泉伊勢守信綱名義で永禄9年(1567)に発行された四巻(「燕飛」「参学」「七太刀」「九箇」)からなる伝書『影目録』では、その内、「燕飛」「参学」「七太刀」の三巻まで、題名に一度「新陰」と書いて、その後で「陰」を墨で消し、横に新たに「影」と書いて、「新影流」としている(注)。そして四巻目の「九箇」では初めから「新影流」と書いている。しかし、『影目録』の序文に書かれた「新影流」の縁起部分には、上記のように「陰流」及び「新陰流と号す」と書いてある。それに対し、元亀3年(1573)、秀綱から丸目蔵人佐経由で田浦美濃守宛に発行された『タイ捨流秘書』には『影目録』の序文、「新影流」の縁起部分とそっくりの内容が記してあるが、『タイ捨流秘書』では「陰流」が「影流」となり、「新影流と号す」となっている。また永禄10年(1568)上泉伊勢守信綱から丸目蔵人佐宛てに出された印可状ではその序文に「新影流」とある。
 ここから分かるのは、永禄9年(1567)を境として、「シンカゲリュウ」表記が「新陰流」と「新影流」にわかれているということである。永禄8年以前に信綱が発行した文章がないのでこれ以上は何ともいえないが、信綱においてはこのように、表記に揺らぎがあったことは事実である。


 
 という文章を踏まえた上で、中国に影(陰)流が残っていたり*1、小笠原源信斎長治が唐土張良の子孫から得たといわれる武術、実はこれが影(陰)流だったりしたら面白いなーと妄想。あと『熊谷家伝記』という本の中に非常に興味深い記述があるので折を見て書いてみます。

 
 もしこの文章をここまで読まれた方がいたら、この日の日記も参照して頂けると嬉しいな。

*1:いや、残っているという話はあるのだけど。このサイトとか