青年閑居して荒野を目指す。いはんや少年をや。


 吉野朔実『少年は荒野をめざす』の中で少女に強く惹かれる評論家に向かって、少女の母親である作家が、何故よい歳をした大人が娘に興味を持つのかと問う場面がある。そこで評論家は「僕は夢を見たことが無い」と云い、それが比喩ではないと知り驚く母親に「だから彼女の中にある無数の夢に憧れる。彼女には人に夢を見せ、夢に誘う力がある」というようなことを云うこの場面、中々に良い場面だと思うのだけど、この場合の夢とは文字通り睡眠中に見るあの「夢」とも、心に思い描く空想としての「夢」とも、それらが渾然となったあちらとこちらのあわいにある物語を生む根源的な力ともいえるのかと思うのだけど、まず穏当に睡眠中に見る方だとした時、比較的私はよく夢を見るほうだと思う。
 

 以前、友人と話していたら夢を見る視点の話になったことがある。友人はカメラ的になんの感情も無く、視点だけになり、ただ映像を見るように夢を見るパターンと、現実と同じような視点で世界を見ていて自分の身体があるのは意識できるのだけどそれは見えない、あるいは別の人間の意識に入り込み、そこから世界を見るというパターンがあり、この二つがぐるぐる入れ替わることもあるのだという。私の場合は、ただ意識だけがふよふよと動き回り、目の前で起きる出来事をその眼を通して外側から見ているというパターン(真っ暗な映画館で巨大なスクリーンと向かい合っている感じに近いかも。見ているものが何なのかという情報はそのつど意識の中に流れてくる)がまずある。この場合、カメラになった意識が何かの予定表にそって夢の世界を作っている感覚があり、大抵の場合そうなのだけど、たまに、意識の片隅を流れる「これは夢だ」という感覚をうまく掴まえられる時があり、そういう時はカメラを自分のものにでき、世界をアレンジして好き勝手な物語を作れるので中々楽しい。これとは別に、視点が具体的な形(生物でもそうでなくとも)を持ち、展開される出来事の中に入りこんでいる時は、自分の意識とは関係なく受動的に動かされるというか、自分の意識と繋がったモノが勝手に動くのを少し離れたところから見ている、というように分裂した意識で夢を見ている感じがする。で、私の場合もこの二つのパターンがある時は単体で、ある時は入り混じり夢になる。
 

 この間、久しぶりにエグイ夢を見た。宵闇の密林の中、眼と口のところに亀裂のような穴の開いた平べったい仮面を着け松明を掲げた半裸の男たちが何かを取り囲み威嚇するように手に持った槍を動かしている。槍の穂先にいるのは少女だった。松明の明かりを受けて肌を赤く染めた少女は大人の背丈程もある崩れた泥人形にすがり震え泣きじゃくっている。それを上空から俯瞰的に見ていると、その少女は吸血鬼で、泥人形はその母親だということが分かった。どうやら心臓に何かを突き刺されると、泥人形になってしまうらしい。男たちが輪を縮めた。そこで場面が切り替わり、古い木造の病院になった。その病院では一晩毎に一人ずつ殺されていて、最後にその病院の医師である青年と、小さな頃から入院している少女が残る。どうやらその少女は始めにでてきた吸血鬼で、その子が犯人なのだけど、青年はそれに気づいておらず、真っ青な月の夜道を少女と一緒に病院から逃げだす。それを見ながら「うわ、これ典型的なバッドエンディングだな」と思っていると、いきなり意識がひっぱられ、その青年の中に入り込み、その瞬間、少女がこちらを見てにやっと笑い「あら、気づいたのね」と云った。その赤い口中の牙を見たところで、意識暗転。久しぶりに飛び起きた。気づくと寝汗をびっしょりと掻いていた。映像の外から登場人物の中に入り込むのは珍しくないけれど、あそこまで強く引っ張られて、強くシンクロするのは久しぶりだったので非常に驚いた。夜の空気の質感だとか、姿の見えないものに追われる恐怖感だとか、握った少女の掌の冷たさだとか、こちらを見た少女の蒼ざめた顔だとか、月の光を吸い込み輝く赤い眼だとかが非常に生々しくて、思わず部屋の明かりを全部つけてしまい、まんじりともせず夜を明かしてしまいました。というようなことを最前の夢の話をした友人にメールしたところ、「それは前世の夢だよ。覚醒するんだよ、とか言いたい」という返事を貰う。うーん。摩陀羅テイスト。
  

 そういえば『どろろ』が実写化されるらしいけど、どうオチを付けるのだろう。というか、どろろ百鬼丸と同年代の女性にするなんて。製作サイドは「百鬼丸どろろの関係性をよりスリリングなものにしたい」というけれど、弟分のように思っている男装の少女に恋されるという方が定型的であるとはいえよほどスリリングだと思うのだけどな。柴咲コウが男装しているのかどうか知らないけど、万が一男装しているとしてもそれが一目で丸分かりでは興醒めというものだろうし、そもそもあの作品の中ではどろろという人間が百鬼丸との出会いを契機に、その肉体の変化と歩を合わせるようにして、未分化な性の混沌とした状態から女性として再統合されてゆく様子を描くのが一つのキモなわけで、そこを柴咲コウが演じられるならありだとは思うけど、うーん。設定を変更してやるくらいなら摩陀羅の方が実写化しやすいような気がするのだけど、見たいかといわれるといや別に。