続く観劇週間


 いささか恥らう素振りを見せながらいうと、物語とは陳腐でしかない、陳腐でしかありえないということに対する冷めた意識がある一方で、にもかかわらず、どうしようもなく物語を語ることに引き付けられ、そうせずにはいられないという分裂した意識が見えるような気がして、そこに、一度でも物語に魅了された人間の業のようなものを感じてしまい、劇研アトリエ時代から6年近くも飽きず少年社中を見続けているのは、多分その引き裂かれた意識と、作品ごとに変化する物語との距離の取り方がなかなかにスリリングなところが好きだからなので、そうすると今まで見た中で一番、物語の陳腐さ薄っぺらさをこれでもかとあらわにすることで、索漠とした空間を生みだすことに成功し強い感動を私に与えたのが『エレファント』だとしたら、逆に『光之帝國』は物語に拘泥し陳腐さと真っ直ぐに向かい合うことで、素晴らしいエンターテインメントへと昇華させた例としてあげることができ、この二つは私にとって少年社中作品の双璧なので、今回の『リドル』にはじまる”少年社中冒険三部作「廃墟に眠る少年の夢-The Lost Adventure-」シリーズ”と銘うたれた一連の作品の、次回公演の予定タイトルにあがっている『光之帝國』は、あの『光之帝国』なのかといまからドキドキワクワク。


 というわけで、先週あたり少年社中『リドル』を見に行ってきた。その前々日に見た劇団がイマイチ楽しめずテンションが下がったままだったので、ちゃんと見られるか少しばかり不安だったのだけど、中々楽しめた。以下、内容とはまったく関係ない感想。


 看板女優だった加藤妙子がいつの間にか退団していた。彼女の演技、とても好きだったので非常に悲しい。もう一人の看板女優、大竹えりは健在。その存在感、美しさには何度見ても心打たれる。あとは、加藤妙子の抜けた穴を埋める、というわけではないのだろうけど、以前『ハイレゾ』に客演で出演していた松下好という女優さんが今回も出演し、言葉を忘れた少女という役を演じていた。『ハイレゾ』の時はボーイッシュな役で、清潔な色気のようなものがあったのに対し、今回は天真爛漫であるがゆえに、ある種の男にとって残酷な存在となり、そこが魅力的という小悪魔のような少女の姿を見事に演じきっており非常に素晴らしかった。というか素晴らしく綺麗で美しく蠱惑的で、成熟した肢体とそのキャラクターのアンバランスさがリリスもかくやという姿を見せてくれて、総毛だってしまったのだけど、演技に触れず、綺麗とか美しいとか色気があるとか可愛いとか格好良いとかいう情緒的な言葉だけで俳優を語るないし評価するというのは、舞台を見ずに、ただその俳優の身体的な特徴だけを語っているようで、なんとはなしに躊躇ってしまうところがある。
 でも、別に、ある役を演じている俳優個人に対してではなく、舞台で動いている物語の中のキャラクターに抱いた感情を表す言葉としてそのような情緒的な言葉を使っているので、まあよいかな、とも思う。
 別に俳優の身体的特徴だけに目がいっているのではなく、役者レベルではその演技(動作、仕草、発声、表情……etc)、舞台レベルでは演出、シナリオ……etc、及び見ている私のその時の状態の総体として生みだされた、抽象的な存在にたいして抱いた感情をそういう言葉でくくっているだけというか。
 私は芝居を見る上では、生身の個人としての役者の持つ身体的特徴には別段興味がなく、舞台を通してあらわれたキャラクターがどのような影響を私に与えるのかということに先に興味がいくので、ならば、キャラクターの名前をだして、そのキャラクターが美しい、とかいってもいいような気もするのだけれど、それはそれでなにか違う気もするし。Aというキャラクターが美しいのでも、Aというキャラクターを演じたBが美しいのでもなく、あくまでもAというキャラクターを演じたBの持つ身体的特徴と、演出やシナリオ、そしてそれを見ていた私のその時の状態によって出現した存在に抱いた感情として、美しいという言葉がでてしまい、それを他人なり自分なりに言うとき、とりあえず俳優名をだすのが一番楽でわかりやすいので、俳優の実体性に引きづられてしまうきらいはあるけれど、ついつい、その俳優の名前を持って「〜(俳優名)美しかったなー」とかいってしまうというか。

 
 それにしても普段は意識しないけど、どうやら私は俳優や劇団の名前とかどうでもよいと思っているところがあるようで、(いや、それをいうならばどのようなジャンルにおいてもそこに関わる人物名とかどうでもよいと思っているところがあるような気もする)、あるものを見て、心が動けばそれだけでよいという学習能力皆無な動物的消費者という面があるのだけれど、にもかかわらず、ついつい俳優の名前や団体の名前を覚えてしまうのは、おそらく意識しないところで効率よく「感動」というか快楽を手に入れたいという経済的な動機が潜んでいるのだろうなと思い、なんだかなぁ。別に効率よく「感動」しようとすることが悪いわけではないのだけど、快楽を得るための行為くらいは経済性を無視してかかりたいというか、うーん。でも経済性を無視してかかると中々に快楽は得られず、なんのために見ているのだという話にもなり。何事であれ、より強い快楽をもとめるのであれば、自分の傾向や流通している情報を調べて効率よく見て回るのが一番早いのだろうけど、その効率性がうっとうしいという面もあり。しかしながら、そういう効率性の外側からくる偶発的で暴力的な力があるのではないかと思い、その力に憧れ、そこにこそ本当の快楽があるのではないかと思ってしまうというのはある種の神秘主義のようでなんだかなー、という気持ちにもなる。いやはや。ぶひぶひ。


というようなことを思いながら本を読んでいたら、次のような一節にであい軽くヘコむ。

 もうひとつは「論理的に思考する」のではなく、「思考を論理的に表現する」ことが大事である、ということです。思考はそもそも論理的ではなく、ハチャメチャであるというわけです。科学的大発見などをもたらす思考は「どんな考え方をしてもよろしい」というハチャメチャな自由があってこそ実現するものです。しかし、ハチャメチャ思考をそのまま表現してもおそらくだれにも分かってもらえないでしょう。なんらルールのないところで自由に考えたものを第三者に伝えたいのであれば、こんどは第三者と共有できるなんらかのルールに沿ってその考えを整理し、表出する必要があります。そのルールが論理に他なりません。飛躍が最大になるように仕組まれているのが思考で、飛躍が最小になるように仕組まれているのが論理といってもよいでしょう。肌理の細かい小さな論理的ステップを丁寧に積み重ねていってはじめてその総和が大きな飛躍を含んだ思考の理解につながるのです。


福沢一吉『論理表現のレッスン』p7〜8