自分がいかにその時々で読んでいる本に影響をうけやすいかの一つの証左ではあるのだけど何が悲しいといって全然似ていないという事。


 毎月恒例の古本市をふらふらと覘いていたら山田風太郎『軍艦忍法帖』『自来也忍法帖』を400円で見つける。角川版山風コンプリートに小さな一歩を示す。これであとは『外道忍法帖』『秘戯書争奪』『忍法落花抄』『忍法鞘飛脚』『忍法女郎屋戦争』『くノ一紅騎兵』『忍者六道銭』『忍法笑い陰陽師』を残すのみなのだけど、この場合"のみ"という言葉は相応しくないな。いうてもまだ残り8冊もある。それにしても『秘戯書争奪』あたりはともかくとして何で他のやつと出会わないのかしらん。いや、『くノ一紅騎兵』『忍者六道銭』は何度も見かけそのたびに買いかけるのだけど値段があまりにもあまりで購入を見送ってきているのでこれは置くにしてもその他のやつには本当に出会わない。盲亀の浮木優曇華の花とはいうけれど何時になったら出会えるものやら。むむむ。
 出会えない理由は明白で古本屋で集めようとしているからなのだろうけど、そりゃ角川版のような普通に古本屋を見ていてもそれほど出会うことの多くない山風作品もネット上にはかなりあるので値段に糸目をつけなければといっても古本屋で買うより安い場合が多いので値段の多寡の問題ではなく私自身の問題として割合に容易く手に入るというのが面白くないのだ。ネットの場合は作品が有ればそれは有るのであり無ければそれはもう無いので有ると無いとの間の距離が極めて短かく私の関わる要素が薄いのに対して実際の書店では有ると無いとの在り方はネットと同じ偶発的なのだけど私が働きかける時間の在り方で有ると無いとの距離が長くも短くもなりその触れ幅の中に面白さや喜びがある。
 それは私がこれは角川版に限らず文庫化されている山風作品をなるべく500円以下で手に入れるのを一つのmotivationとして古本屋を覘いているのか平坦な生活の中で古本屋を覘く行為を慈雨と感じ生きるよすがとしてはいるのだけどただ漠然と何かの本を買うという気持ちでは立ち寄る気になれずその理由付けとして山風作品を利用しているのか判然としない中で恐らくその両方の気持ちを含んでいて山風を探すために古本屋に立ち寄り古本屋に立ち寄るために山風を探しているというのが正確な気持ちに近いような気がする。つまり日常の希薄化した感情を揺り動かし刺激するものとしての悦楽を求める時、古本屋の棚の中にまだ手に入れていない山風作品の別けても中々見つからない角川の赤い背表紙を見つけた時に感じる体の深い所がじんと痺れるような感覚とそれが500円以上である時に感じる身震いするような別れの一期一会感というのは中々に癖になるものでといっても山風に限らず欲しい本や探している本はそれなりにありそれらに出会った時の喜びも知ってはいるのだけどやはり色々なものを総合した時の快楽の閾値において山風にかなうものは中々に今のところ私には無いようなので多分これからもなるべく500円以下という縛りをかけた上で探し続けできるだけこの楽しみを長引かせながら古本屋を覘き続けるのかもしれない、というような事を以前友人に話したところ変態扱いされた。

 どこでどうそう思われたのか今もって判然としないのだけど、どうやら佐伯俊男の絵が好きなだけだと認識されたらしい。それはもう確かに好きだし、他の版で持っているものもできるだけ角川版で購入しようとしているのはそんな理由もあるからなのだけどそれだけではない、というかその理解の仕方は私の話の内容と全く関係なくないかと思い、自分の嗜好を説明するだけでもいっぱいいっぱいなのにそれを理解して貰うのって何て難しいのだろう。というか今読んでいる吉田健一『金沢;酒宴』の真似をしてみようとしたらわけが分からなくなってきた。日本語って難しい。今もって口癖のように生まれ変わったら日本語をきちんと身に付けたいなとか言っていて分かるのは、母語すら満足に扱えないのに第二外国語なんてそんないやはや、というのを言い訳にしていたから普通の1.5倍もかかったんだな。卒業。