観月ありさと工藤静香が出演するアルコール飲料のCMで自分のお腹をつまみ「軽くヤバイ?」というシーンがあるが、真似してみたところ軽くなくやばかった。深く落ち込む。


 ちと遠出したついでに知らない古本屋に立ち寄るのはとても楽しいものだけど、探していたものや欲しかったものが安価で見つかると楽しさは二乗されて嬉しさに変わるもので。


 講談社文芸文庫若山牧水若山牧水随筆集』が100円で見つかる。わーい。岩波で読んだ『新編 みなかみ紀行』(若山牧水著 池内紀編)がとても良かったので、ダブっているところもあるけれど、これに収録されていない比叡山や山寺に遊んだ話や旅以外の随筆が収録されている『若山牧水随筆集』を読んでみたかったのだ。本業が歌人なのだから当たり前とはいえ、詩がいい。これは『新編  みなかみ紀行』に収録されているものだけど、「枯野の旅」の中にこんな詩がある。

草鞋よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いてきた


履上手の私と
出来のいいお前と
二人して超えて来た
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひぞする
なつかしきこれの草履よ


「枯野の旅」(『新編 みなかみ紀行』p7〜8)

 歩いてきた道程を振り返りよくあんな長い道を歩いてきたなという思いと、体を預け共に旅してきた草履に愛着を覚えしみじみと語りかける様子が寂しげながら何ともユーモラスでつい微笑んでしまう。


 またこんな詩もある。ちょっと長いけど引用。いや、ほんといいんだって。


―前略―


いつでも、
ほほゑみを、
眼に、
こころに、
やどしてゐたい。


自分のうしろ姿が、
いつでも見えてるやうに
いき度い。


窓といふ
窓をあけ放つても、
蚊や
虫の
入つて来ない、夏はないかなア。


日本国中の
港といふ港に、
泊まつて歩き度い。


―中略―


おもふ時に
おもふものが、
飲みたい。


欲しい時に、
燐寸よ、
あつて呉れ。


煙草の味が、
いつでも
うまくて呉れ。


―中略―


庭の畑の
野菜に、
どうか、
虫よ、
附かんで呉れ。


麦酒が
いつも、
冷えていると、
いい。


「空想と願望」(『新編 みなかみ紀行』p152〜160)

 引用した部分は短いけれど、全て読むと、どこか寂寞な調子を帯びたことばの中に旅と日常の狭間にあってどちらにも心惹かれている牧水の様子が良く分かるような気がして何とも微笑ましいのだけど特に最後の「麦酒が、いつも、冷えていると、いい」というのが何でか分からないけど良い。ここは物凄くユーモラスだと思うのだけど何故そう思うか分からない。分からないなりに考えてみると、直前が「どうか、〜してくれ」という力強い懇願というか何か切実な口調のように思えるのに対して、「麦酒が、いつも、冷えていると、いい」がこの一文だけだとただの願望を書いているように思えるのだけど、この詩のようにことばが配置されると「いつも、〜だといいな」というような少し気の弱い感じがでているというか、ああ本当にそう思っているんだろうな、というように思えて前節との落差につい微笑んでしまうのだろうか。


 本編というべき紀行文はというと、どこかごつごつとしていて所々引っかかるところがある癖の強い文章のように思えるのだけど、だからこそ一度好きになると良いもので。
表題にもなっている「みなかみ紀行」は歌会のため信州を訪れた牧水の十四日間の旅の記録。歌会の後、突然思い立ち信州の山々を歩き回りたくなった牧水だけど、心細くもなってきて、東京から一緒に来ていたkという青年に同行しないかと誘いをかける。
 数日山々を彷徨った後、目的の温泉を間近にして、それまで一本だった野中の道が二股に分かれる。そこに立てられた道標の前で牧水はふと心惹かれるものを感じる。見ると道標には「右 沢渡温泉道」「左 花敷温泉道」とある。元々は右側を進み沢渡温泉へ行くつもりだった。始めはその通り右側に折れる牧水。それが歩いているうちに段々と強くなる思いに思わず同行者に声をかける。

 枯薄を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかかった文字を辛うじて読んでしまうと、私の頭にふらりと一つの追憶が来て浮かんだ。そして思わず私は独りごちた、「ほほオ、こんな処から行くのか」
 私は先刻この野にかかってからずっと続いて来ている物静かな沈んだ心の何とはなしに波だつのを覚えながら、暫くその小さな道標の木を見て立っていたがK-君が早や四、五間も沢渡道の方へ歩いているのを見ると、そのままに同君の後を追うた。そして小一町も二人して黙りながら進んだ。が、終には私は彼を呼びとめた。
「K-君、どうだ、これから一つあっちの路を行って見ようじァないか、そして今夜その花敷温泉というのへ泊まってみよう」


『新編 みなかみ紀行』(p99〜100)

 行く先を定めたその上で、何かに惹かれ弱法師のようにふらふらとそぞろに歩くその姿はさだめし芭蕉なら道祖神のまねきによりて、とでもいうところだろうか。それにしても、もとより急ぐ旅ではなしとはいえ、一度出来上がったリズムを崩されるのは同行する者には堪らないだろうと思うも、さして驚きもせず気まぐれに従うというのは類友というやつか。


 他にフレドリック・ブラウン『天使と宇宙船』が100円であったので一応購入。昔の装丁で、闇に黄色く光る発光体が赤い線を描いて飛んでいるというもの。現行の装丁の方が好きは好きなのだけどまあいいや。
 しかしフレドリック・ブラウンには奇妙な縁、というほどではないのだけど出会わないときは本当に出会わないのに一度出会うと変な値段で手に入る。一番驚いたのは、昔、旅行中、仙台の古本屋に寄ったときだった。
 市の中心から外れたところに看板を見つけ入った古本屋はとても寂れていて、薄暗い店の中には人の姿はなく、ただ糞塗れのかごの中でオウムが「いらっしゃい、いらっしゃい」と喚いていた。そんなに本の数はなかったのだけど、一応見ていたらブラウンの『発狂した宇宙』と『73光年の妖怪』が置いてあり、ちょうど先輩からブラウンの面白さを聞いた直後だったので買おうかと手に取り値段を見ようとしたらどこにも書いていない。書き落としかと思い、棚から他の本を数冊抜き取り見てもやはり値段は書いていない。「なんだこれは?」と思っていると、ぎゃあぎゃあとオウムが騒ぎ出した。びくりとして振り向くと入り口が開き男性が入ってくるところだった。開口一番「あれ、お客さんですか」ときたもんだ。どうやら店員さんらしいと値段を尋ねてみると、「ああ、その辺のやつ、全部持っていっていいよ」ときたもんだ。何だか嫌な予感がしたのであまり重い話にならないように、それとなく軽い調子で「え、いいんですか」と聞いてみると、彼は「ははは、いいよ、いいよ」とどこかやけっぱちな調子の乾いた笑いを浮かべ「どうせ、後一週間で潰れるから」ときたもんだ。うあ。やっぱり。聞くんじゃなかった。さすがに只で貰うわけにはいかないといったら、「じゃあ一冊十円でいいよ」とおっしゃる。このやり取りで自分の良心との折り合いはついたので棚を浅ましく漁る。ただおしむらくは、その時は今に輪をかけて本を知らなかったという事。今だったらもう少し色々探せたのに。残念。結局、数冊買って店を出ようとしたら「またいらして下さいね。って、もう店なくなるんだった。ハハハ……」といわれる。面白い人だった。