春の宿なにも無きこそなにか有れ


 そろそろ梅雨突入の予感につね日ごろ部屋の掃除を怠っている人間としては本気でカビの心配をしなくてはならず、かなりドキドキ。ただでさえハウスダストアレルギー持ちなのにここでカビなんぞに繁殖されたらおちおち寝てもいられない。
 そういえば子供の頃は梅雨という感覚はなかったように思う。もちろん知識として梅雨というものがあるということは知っていたけれどそれは雨がたくさん降る時期という程度で、それ以上でも以下でもなく、大人の「梅雨は嫌だね」という言葉の意味が分からなかった。私は雨の日が嫌いではなかったし、いや、むしろ水量を増した川の流れを見たり、傘に雨を溜めて人にかけたりするのが楽しかったので雨が多くなって何が嫌なのだろうと本当に不思議だった。近しい人に梅雨の何が嫌なのかと尋ねると「むしむしするのが嫌でしょ」とか「じめじめするのが嫌だ」というような答えをもらうのだけど、身体感覚として雨が多い時期の「むしむし」とか「じめじめ」がよくわからず、大雨が原因での洪水や土砂崩れのニュースを見るたび、「実は大人も本当はこういうことが起きるから嫌なんじゃないのかな」と思っていた時期もある。それが何時の間にか梅雨と不快という感覚を結びつけて体感できるようになっていた。不思議だ。
 同じように四季というものも知識だけで実感がなく、身体を通した感覚としては理解できていなかったように思う。あるのは、いや、分かるのは夏と冬だけで、春というのは冬の暖かい日で、秋は夏の涼しい日という感覚で十数年暮らしてきた。それが変わったのは十代後半の時だったように記憶している。五月の暖かい日、郷里の中心を流れる大きな川の河川敷に腰かけてぼんやりと川の流れを見ているうち、ふっと、瞬間的に、流れる水の色に「春」を感じた。その途端、風の匂いや草木の色に、それまで知識としてしかなかった「春」がvividに息づいているのが分かり、なるほどこれが「春」かと本当に驚いた。書いていると本当かよと自分で突っ込みを入れたくなるけれど、中々に今思い出すとこれが本当だったりするから恥ずかしくなるのだけど、なにより恥ずかしいのは実は未だに「秋」という季節に実感がないことだったりする。