最近やたらにお腹が空く。まるで冬眠直前の熊のように。もしかしたら私は南半球生まれなのかもしれない。


 雨の中ぼんやりと信号が変わるのを待っていたら斜め前の横断歩道を傘をさした女子高生が白い飛沫を上げて走っていくのが目に入った。なんだか急いでいるなぁ、と何気なしに目で追っていると彼女はわき目もふらず一軒の店の中に飛び込んでいった。看板を見ると仏壇仏具の店だった。通りすがりにガラス戸越しに中を覘き見ると彼女は仏壇の並ぶ通路で店の主人と思わしき女性と話していた。一体なんだったのだろう。自宅なのだろうか。それにしては店の入り口から入っていったし、帰宅して店の売り物の前で話すものなのだろうか。わからん。それともおつかいかしらん。制服で仏壇仏具店におつかいにいくというのも何だか面白い。


 書店で音楽を聴きながら本を見ていると何だか変な感じがするので、はてと首を傾げていたらその原因がわかった。耳元で流れている曲がダブって聞こえてくるのだ。意識して聴いていると僅かに拍子がずれて初めの音を追うようにして同じ音が聞こえてくるのがわかる。おいおいおいどうしたよ修理から帰ってきたばかりのmy sweet ipodと思い、本体をいじろうかと耳からイヤホンをはずした瞬間さらに不思議な事に気が付く。イヤホンを耳からはずしたはずなのに、聴いていた曲がまだ聞こえてくる。しかもより鮮明に大きな音量で。これは自分の頭がおかしくなったのかと思いきや何のことはなく店内の有線から流れてくる音楽だった。どうやら聴いていた曲と同じ曲がほぼ同じタイミングで有線でかかったもよう。念のためイヤホンを片耳にはめ聴いてみると店内で流れているリズムよりも僅かに早いリズムで同じ曲が聞こえてくる。ipodも私の頭も壊れているわけではなかったようなので安心する。って、よく考えると聴いていた曲とまったく同じ曲がほぼ同じタイミングで有線から流れてくるというのは中々に物凄い偶然だなと思い驚くとともに何だか気味が悪くなる。それぞれに関係を持たないはずのなにかが歯車のようにカチリと噛み合った時に感じる拍子の綺麗さにはいつも漠然とした不安を覚えるのでそのせいだとは思うのだけど。


 近所で古本市が開かれていたので冷やかしのつもりでいったら気づくと懐がひんやりと冷えていた。それでも値の張る書籍には手をださず文庫だけに留まったのは内なる人の叫びのためか。よくやった内なる人。結局、以下のものを購入。


 食わず嫌いとは少し違うと思いたいのだけど手元に置きながらこれまで読んでこなかった庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』を最近ふとしたはずみで読んでしまい、これまで読まなかった事を強く後悔しそうになるもそう思えるのはこれまで読んでこなかったからなわけで、もしも変なタイミングで読んでいたら鼻白んでいたかもしれず、そう考えると今回素直に衝撃を受けられたのだからこのタイミングで読んだのは結果として良かったのではないかと自分を慰めてみる。
 庄司薫のこれらの作品は栗本薫の"ぼくらシリーズ"の「栗本薫」や、橋本治の"桃尻娘シリーズ"の「磯村薫」なんかの「薫くん」の系譜をなす作品に恐らくは直接的に大きな影響を与えていると思われるだけに、昔これらの作品が本当に好きだった私にとって庄司薫を読むというのは先祖の墓参りをするような感じがあったのは確かで、義理、というと変だけどなんというか幾分かは「古典」を読むような気持ちで臨んだのだけど、いや、もう、横っ面を張られたような読後感。久しぶりに本を読んでいて泣きそうになる。いや、『白鳥の歌なんか聞えない』は実際少し涙がでたさね。それにしても庄司薫の作品に強く惹かれる自分の感性の「古さ」を嘆けばよいのかそれとも私を惹きつけるこの作品の「普遍性」を素直に讃すればよいのか。あーあ。とりあえず私はこういう、与えられた条件やすでに投げ込まれている環境の中で、それでも「真っ当」であろうとする少年ものに弱いのだと再確認。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』『さらば怪傑黒頭巾』と読み進め『ぼくの大好きな青髭』を買おうと思っていた矢先、偶然古本市で発見したので渡りに船とはこのことかと購入。で、帰宅後一気に読む。『ぼくの大好きな青髭』では、それまで書斎派を志していた僕とシリーズを通しての主要人物の一人であり街頭派であろうとしてきた小林が互いの立場が入れ変わったように行動するのだけど、この二人のキャラクターを混ぜて歳をとらせもう少し言動をシニックにして内面に陰鬱さを加えればそのまま村上春樹の初期三部作に出てくる「鼠」みたいになるのではなかろうか。そういえば『風の歌を聴け』で紹介されるデレク・ハートフィールド庄司薫の類似性みたいな文章を読んだ事があるけどなるほど納得。それにしてもこういう作品に出会うと、それを語ることのできる言葉を持たない自分に心底嫌気がさすというか悲しくなってくる。


 そういえば鏡花の短編って読んだことがないやと購入。


 北森鴻はそれほど好きな作家というわけではないと思っているのだけど"蓮丈那智シリーズ"が出れば新刊で買うし、それ以外の作品も古本屋で出会えば買うので実は結構好きなのかもしれない。私は美味しそうな食べ物の話が出るだけで読みたくなるので、今回はそのせいというのもあるのかもしれないけど。


 初小川洋子。だって古本屋の文庫の棚であまり見かけないのですもの。


 金井美恵子の小説とエッセイを一冊ずつ。この人の小説を読んでいると何時の間にか姿勢を正し緊張している自分に気づき、エッセイの方は初めげらげら笑い読んでいるのだけど気づくと頬が引きつっている。


 『妖星伝』について作者自身の言葉を読んでみたかったのと、『SFマガジン』に収録されていた『産霊山秘録』の作者前書きを読んでみたかったので。作者前書きは噴飯モノ。こういう人を喰った話はいいなぁ。


 食にまつわるエッセイを四冊。
恥ずかしながら色川武大(阿佐田哲也・井上志摩夫)が食エッセイを書いていたとは知らなかった。作者はナルコレプシーだったというけど食事中どんぶりなんかの中に顔を突っ込んだことはないのだろうか。そういえば私の祖父の家の近所にある寺では「阿佐田哲也をしのぶ麻雀大会」なるものをやっていて帰省のたび一度出てみたいと思っているのだけど面子が凄いような気がして恐れ多くてエントリーできないでいる。それにしても寺で麻雀とは。その寺、一応、江戸期にそこを治めていた藩主の菩提寺なのだけど、そうであるからにはそれなりに格式とか由緒とかあるように思うのだけどいいのか麻雀大会なんか開いて。凄いな住職……。
 檀太郎は檀一雄の長男で、という事は檀ふみは彼の妹という事になるわけで私は彼女の、阿川佐和子との共著『ああ言えばこう食う』が大好きなのだけどそれはもう純粋に文章が好きなわけで別に料理の話でなくても良いのだけど、檀太郎の方は別に文章が好きだからとかではなくレシピブックとして愛読している。そういえば血縁関係で片付けるのは失礼だと思いながら『新・檀流クッキング』の文章が親父さんにそっくりで何だか可笑しくなった記憶があるのだけど今回はあまり感じなかった。
 種村季弘もその博覧強記ぶりにはただただ仰ぎ見るしかなく、彼の作品を読むたびに化け物だなとの感をあらためるのだけど、そこに軽妙な語り口が加われば面白にきまっているわけで。というわけで『食物漫遊記』は非常に楽しみ。
 『清貧の食卓』は色々な人の書いた食エッセイを編したものなのだけど中に荒畑寒村の名前があったのには驚いた。食エッセイというと、こう、なんだかブルジョアジーの余技といった香りがするというか、なんというか、食べ物のことをあれこれいうというのは社会主義運動とは相容れないのではないかと勝手に思っていたので、しかもあの荒畑寒村なわけで。食エッセイと荒畑寒村という名前がうまく結びつかず始め別人かと思ってしまった。ちなみにタイトルは「監獄料理」。うわー。笑えないよこれ。いや笑っちゃったけど。


 須藤真澄はほあほあした所が好きで買っているのだけど、この作品もちょっと不思議なほあほあした心温まる良い話揃い。
 最近、樹なつみ花咲ける青少年』を読んだのだけど以前『八雲立つ』を読んだ時はそれほど面白いと思えなかったのが、今回はそのストーリーテラーとしての手腕の妙に驚嘆する。で、その時の絵の印象が強すぎて、似ている衣装のためか『T・E・ロレンス』を読んでいたら所々脳内で登場人物の顔を『花咲ける青少年』の絵に変換してしまい話がごっちゃになってしまった。それはさておき神坂智子を読むのは始めてなのだけど、イスラーム社会についての造詣が物凄い。いや、その凄さに驚く事ができるほど私がイスラーム社会の事を知っているのかといえば全然知らないのだけど、そんな私をして多分物凄いのだと思わせるのだから大したものだと思う。さらにその物凄い情報量をまとめ上げ漫画に仕立て上げる技量には脱帽。『アラビアのロレンス』『知恵の七柱』が読みたくなりました。