あたまパッカーン。めちゃめちゃホットやでぇ。


 短い文章。例えばアフォリズム、警句、箴言。少し長くなるとエッセイ、随筆の類。いや、これらに限らず簡潔な形で示された鋭利な言葉に出会うと、それが鋭ければ鋭いほど、その短い文章で何かが分かったような気になってしまい非常に危険なので、普段は敬して遠ざけるようにしているのだけど、たまに警戒心が緩んだとき近づいてみると無闇に面白く、そんな時はどんな言葉を面白いと感じたかで自分の精神状態が量れ興味深いのだけど、困る事もある。
 勿論こういう形式の文章一般が面白いわけではなく、特にアフォリズムのような短い文は作るだけならば誰にでも作れてしまうので*1阿呆な言葉に出会う公算も大きく、実際そういった臭う言葉はよく見かけるので、結局形式に関係なく面白い文章は面白いのだという当たり前のことなのだけど、何が困るといってついつい使いたくなってしまうということ。
 頬がひきつるほどに辛辣な言葉、貫通力のある言葉、じわじわと鈍い痛みを与える言葉であればあるほど人に使いたくなってしまう。特に状況如何では物凄い破壊力を発揮するので、これはという言葉に出会うと覚えておこうと思い、その言葉を使える状況を想像しては陶然としてしまう。
 しかしながら、使う時は、こう、あくまでもブリリアントに、できるだけエレガントに、できる範囲でスマートに口にしたいのだけど、ここぞという時に限って、タイミングを逃すまいと焦ってしまうためか妙にぎこちなくなり、しかも大抵途中で次の言葉を忘れ言いよどんでしまうので、今一つ破壊力が殺がれる感があり遺憾に堪えない。そういう時は使ったアフォリズムに対し申し訳なく思う。
 その一方でたまに上手く言える時があり、そういう時は言い終わった後、会心の笑みを漏らすまいとことさらに表情を殺そうとするのだけど、言われた方は大抵物凄く嫌な顔をしているので、何だか申し訳なく思いながらも、極度に人見知りの私は親しくない人にそういう事を言う度胸を持たないため、言うのは数少ない友人に限っているので、つまりアフォリズムの類を投げつけるのは私が親しいと思っている証左なので、そんな嫌そうな顔をしないで下さいと思うも、もしかしてそれが嫌なのだろうか。今度、嫌な顔をされたら聞いてみよう。
 
 今となってはどんな流れでそんな事を言ったのか覚えていないのだけど、以前とても落ち込んでいる友人と話していた時、意見を求められ、良い感じに酔っていた私が「まあ、ほら、あれだよエリック・ホッファーも『最も習得がむずかしい算数は自分の幸福を数え上げることである』って言っているしさ」と言った途端、沈んだ表情を冷たいものに変え眉間に皴を寄せた友人が、
「で、だから何。何が言いたいの」
「いや、だからまず足し算から覚えてみるとか……」
「で?」
「いや、ええと、……引き算の方が良い?」
「……」
「えっと、割り算より掛け算の方が幸せを感じられそうだよね。そんな気がしない? ……。あ、しないみたいね」
「もういい」

*1:そういえば今手元に無くうろ覚えなのだけど、奥泉光が『滝』の後書きだったかで「自分にとって書きやすい形が良いものだなんていう楽天的な考えは持っていない」というような事を書いていた。この人にこんな事を言われちゃあもうなにも言えないわと思った記憶がある。