いいか、上官にはsirと言え。自分もお前達にはsirをつける。一つ違うのは、お前達は本気でsirと言え。


 と、上でそんな事があった後、悲しみを紛らわそうと桜も散り落ち冷たい雨そぼ降る街中をぶらついていると、変な古本屋を見つける。変なというと語弊があるけど、あー、でも変なんだもの。ふらふらと、いつもとは違う小道に入りしばらく散策していると、割合に汚い一軒家の軒先に吊るされた「古本」の看板が目に止まる。こんなところにもあったんだと近づきガラス戸越しに中を覘くと、そこは本の山。棚は勿論、狭い通路の両側に所狭しと並べられた本は私の胸辺りまでうずたかく積み上げられ、少しの震動でも崩壊しそう。しかもその大半は和綴じの古書のよう。中には掛け軸の類も混ざり込み、見るとレジを挟んで住居部だと思われる奥の座敷にも本が積み重なっている。


 ところで常々私は古本屋に入るにも経験値が必要だと感じていて、何というか格式高いというか、店の品格が高いところにあるなと感じると尻込みしてしまうところがあり、だから例えば、神保町の大屋書房とか未だに入れないのだけど、多分にそれは和綴じの本に対する畏怖の念が強いからなのかなと思うもよくわからず。


 それはさて置き、これは入るべきか入らざるべきかと恐れをなしていると、ガラス戸が引き開けられ、でてきた店のご主人らしいご老体がじろりと一瞥。咄嗟に口をついてでた言葉が「あの、入ってもいいですか」。ご老体、目をぱちくりし「どうぞ、どうぞ」と中へ誘う。まず感じるのは古い本特有の黴臭さ。積み上げられた本に触れまいと注意して歩くも通路の幅が私の横幅ぎりぎり。私の姿にご主人「ああ気にしないで」といわれるも無理です。気になります。
 ざっと見てみると、どうやら書画、郷土史、俳句、詩に関係する本が中心の模様。郷土史はともかく他のものは分からないので適当に見ていたら、文庫の棚に三田村鳶魚『時代小説評判記 鳶魚江戸文庫 別巻2』が。新刊同様の美本で400円。ここずっと、中公の鳶魚江戸文庫をちまちまと集めているのでこれ幸いと購入決定。それを片手に店内を歩ける範囲でぐるりと見てまわり、他に何かないかしらんと棚の下辺り、本の山に覆われて見えない辺りを漁り始めたところ古い剣道、柔道関係の本がでてくる。どうやらその一角は武芸関係の本のよう。さほど期待せずそれでも念のためと漁っていたら薄茶色の何とも素っ気無い表紙が目に入る。埋もれているため題名が見えないのだけど、顔をだした部分に『制剛流』の三文字が。久しぶりに古本屋で心臓がことこと速い音をたて始める。もしかしてと思いすぐに確認したくなるも、積み上がった本に邪魔されているのでまずそれらを崩さないよう丁寧に移動させる。ああ、もどかしい。やがて現れたのは綿谷雪 校訂『制剛流捕手和*1縄居合伝書類』。知らず止めていた息を吐き出し、近くにいる店主に驚きを悟られまいと、ことさらにゆっくりと本を抜き出し値段を確認する。予想は一万から上、二万以下。裏づけに鉛筆で書かれた値段は2500円也。迷わず購入。さようなら私の食費。でもなぁ、これ限定三百部の非売品だしなぁ。綿谷雪が多分自費出版したやつだろうしなぁ。買うよな。買わざるをえないよなぁ。ああう。


 制剛流は尾張藩に伝わった「やわら」の流派で同藩を中心に広く普及。「やわら」の他に縄術・居合術・捕手・組討・小道具などなどを付属。現在伝わる新陰流(尾張藩伝)に、この流派の居合術が付随しているらしいけど私は詳しい事は知らない。今回購入した本には尾張藩伝の制剛流の他に、築前系の制剛流の資料も収められていてただただ万歳。中々珍しい、縄術の絵付き解説もあり、お好きな人にはたまらないかと。取り合えず良い一日だった。あの古本屋はまた発掘―文字通り―にいかねば。いくぞ。おー。

 それにしても、何というか久しぶりに凄味のある古本屋に行き逢ったものだ。何から何まで私好み。古い建物、雑然と積み重ねられた書籍の類、一見無秩序に並べられた棚の本、店主も好々然としているけれど、中々に「伊達や酔狂で長年古書で飯を食ってきたんじゃないんだ舐めるな若造」的なオーラが見え隠れしているような気がして何だかどきどき。いいな、こういう古本屋。役者不足は承知の上で、積み上げられた本の整理のバイトでもしたいわ。時給800円位で。

*1:正確には「人偏」に「和」。