これから旅も春風の行けるところまで


 旅行したいしたいと思っていたら発熱。久しぶりに39℃の大台に乗りかかる。あれに見えるは死兆星じゃないか。熱にうなされる中、部屋の隅に見えた影は何だったのだろうか。母方父方それぞれの祖父母の誰かだったら面白いのだけど。父方の祖父は私が生まれる前に物故しているし、母方の祖母が亡くなったのは幼稚園の年少の頃でそれなりに記憶があるも、取り立てて不義理をした覚えもなく、きっと可愛いだけの孫だっただろうと自負しているので、恨みを買うような事もなかっただろうからこちらも良いとして、問題は父方の祖母。これだと怖い。小五の時他界した彼女に私は非常な苦手意識を持って―いや、有り体にいえば嫌悪しており、死んだ時は清々したと思ったものだけど、その心情の裏返しとして微小な負い目を持っており、段々とそれは罪悪感を伴う恐怖に変わり何時化けてでるかと戦々恐々、と書いた途端、部屋の温度が下がった感じがして背すじゾクゾク。一方、三年ほど前に他界した母方の祖父の事は非常に敬慕していたのだけど、死に目に会えず、それを恨んで化けてでられたら、いやあの時は私も死にそうになっていたからしょうがなかったんだと釈明ができるかと期待しているのだけど未だでてきてくれない。ままならないものだ。あの時、確か私は真冬の敦賀でふるえながら上りの電車を待っていた筈。


 東京を出発し、京都で数日観光した後、岡山、鳥取を経由して出雲大社へ行き、近くにあった阿国の墓や日御碕を見ようと歩きだしたら思いの他遠くて泣きそうになったり、来たルートの逆をたどり和歌山にでて、そこから紀伊半島を時計の反対周りにぐるりと巡り熊野那智大社に参拝し、新宮に立ち寄り中上健次の墓を探して街を彷徨いながら冷静に考えれば人の家の墓に参るというのも失礼な話だよなと自分の無作法さに恥じ入りながらも、ようよう探し当てた墓で、墓碑に刻まれた柄谷行人の言葉に感じ入ったり、大晦日の前日に三重の津に行きつき伊勢神宮で初詣をしたりと旅行を楽しんだ後、そろそろ帰ろうかと名古屋にでて、ちょうど年も代わったし実家に顔をだそうと電車の時刻表を片手に経路を考えてみた。
私の実家は東北の太平洋側なので、名古屋から向かおうとすると一度東京にでて、そこから東北本線で延々北上するのが正攻法なのだと思う。


 ちなみにこの時は、旅程のすべて普通電車を使用していた。何故と云うに『青春18きっぷ』という、窓口で頼む時、つい小声になってしまい、小声になってしまう自分の自意識も恥ずかしいのだけど、聞き返されさらに恥ずかしい思いをしてしまう有名な特別切符があり、それを使っていたからだったりする。この切符は1枚で1日有効×5回分11500円、日本全国のJRの普通列車(及び宮島航路)に連続してもしなくても五日間乗り放題と云う、金は無いけど暇だけはあった私にうってつけの切符で、季節毎に愛用していた。ただ、普通電車と云うことは新幹線も特急も使えないわけで、結果きわめて時間のかかる旅行になる。別に時間がかかる事は気にならないのだけど、続く電車の振動に疲れ飽きて体が文句を言いだすのもまた事実。幸い、名古屋→東京は大垣発の大垣夜行と云う電車が走っており、これを使うとかなりの時間の節約になるのだけど、それでも新幹線を使う場合を考えると、新幹線が私の実家まで五時間強で運んでいってくれるのに対し、18きっぷの場合だと乗換えがスムーズに運んだとして試算、三倍強かかったりする。


 名古屋から乗ってもよかったのだけど、時間もあるし、混んで万が一にも座席が無くなっていると嫌だったので始発の大垣駅まで移動し夜行を待っているうちに雪は降ってくるし寒いし電車はまだまだ来ないしと、だんだん休憩室にいるのにも飽いてきたところで、ここまで来たのだから冬の日本海を見ながら帰ろうかと思い立ち、さらに折角だから若狭湾でも見ながら行こうかとルートを組み始める。ざっと試算したところ敦賀経由で30時間ほどかかる事がわかったので、少しでも早く移動した方が良いかと、丁度来た東海道本線に乗り込み、米原北陸本線に乗り換え敦賀に着いたところで終電を迎える。駅前にあった都怒我阿羅斯等の像を見て満足し、シャッターが閉まり始めた駅に戻るまで、お金が無いことを失念していたのは浅慮の謗りを免れないところだろう。


 18きっぷは十分にあったし、この旅程の殆どが友人宅と野宿の併用だったので、旅行でかかる金銭の大半―宿泊費と移動費をかなり抑えられたため自由になるお金はそれなりにあった筈なのだけど、それに寄りかかりつい色々と買ってしまったのが運の付き。気づいた時には宿に泊まるお金が無かった。大分体が悲鳴を上げ始めていたのでそろそろ機嫌を取ろうかと考えていたのに、それができなくなってしまう。さらに浅はかだったのは、この旅行中つねに悩まされた服装。西にゆくのだから暖かいだろうと、今考えるとよくわからない理由で冬にしては軽装でいた私はたちまち凍えるはめに。この時付けていた日記を読み返すと、一ページに渡り「寒い、寒い、寒い……」とあるのでよっぽど寒かったのだと思う。


 内田百輭に「二銭紀」という文章がある。
 若き日の百輭先生、始めての一人旅に興奮し、宿を辞す時、過分のお茶代を払ってしまい、京都から岡山までの帰りの旅費が二銭足りなくなってしまう。払いの礼をしに来た女中に向かい、あわあわしながら「こまかい物が無くなったので、今のお茶代から……」と、少し払い戻してくれといいたいのだけど、しどろもどろになってしまう。女中はよく聞こえなかったのか宿代を受取った旨を記した書付をだしてくる。受け取りの文が書かれた以上もう駄目かと落ち込むも、一応重ねて「いや、二銭ばかりいるのだけど」というと、女中はあんな大金をお茶代として払った客が二銭ばかりを取り戻そうと煩悶してるとは気づくべくもなく「近くに両替屋があるので細かいものが必要なら、両替してきてやろう」と親切心でいう。諦めて宿をでようとすると、車を呼ぼうといわれ、寄るところがあると断ると、土産物なら買いに行かせますと、百輭先生ますます困る。途中、使い古した足袋を持っている事を思いだし、これを売って二銭稼ごうと思うも、京都駅までの間によさそうな店がみつからない。とうとう駅に着いてしまった百輭先生ここでこう書く。

 尤も私がその時どう云う店を探して歩いたのか、それは判然しない。古着屋とか屑屋とか云うつもりであったかどうか、それもはっきりしない。又仮りに途中そんな店があったとしても、いよいよとなれば、その時分の私が古足袋を買ってくれと云って、這入っていかれたかどうかも疑わしい。結局その思いつきで安心し、力を得て七条(注 京都駅)まで辿りついたと云うに過ぎないであろう。


内田百輭「二銭記」(『大貧帳』ちくま文庫p107〜108)


 この後、どうにもならないと残ったお金で姫路までの切符を買った百輭先生。夜半に姫路に着いて思うには、鞄の中の本を売ればよかったということ。こんな時でもあまり朝早く出向くのはおかしいと考え、七時頃*1まで待つというのが百輭先生。結局、本を売り七十銭を手に入れ岡山まで帰ったという。


 百輭先生の場合はそもそも帰るための切符を買うお金が足らず、私の場合は帰る切符はあるのでそこは安心だけど懐のものが心許なく何も買えず、次第にひもじい思いにとらわれてきて、「二銭紀」の事を頭に思い浮かべながら、ザックの中にある本を売ろうかと本気で考え始めるも、終電が無くなる時間に店が開いているわけもなく。コンビニを見つけ朝まで過ごし、情けなくも実家に救援を求めようと朝一番で電話すると、祖父が他界したという話を聞く。結局、日本海ルートは諦め、また大垣に戻り、そこから東海道線東北本線などを乗り継いで帰る。実家に着いたのは翌日の朝だった。火葬場で対面した瞬間、もどしそうになったのは疲れが溜まっていたためかと思われます。ごめんなさいお爺ちゃん。

*1:それでも十分早いと思う。この頃の店と云うのはいったい何時から営業していたのだろうか。それとも百輭先生一流の諧謔だろうか。