食事をしながら食べ物の本を読むと食が進む。例えれば梅干を見ながらご飯を食べるようなもの、か。


 夕飯を食べようと思うも、買出しに行くのが面倒だったので貯蔵庫を漁る。ジャガイモ、トマトの水煮缶、大蒜、玉ねぎなどを発見。トマトソースのパスタと、ジャガイモの炒め物でも食べようかと調理開始。


 スキレットを熱し油を少量ひいておく。一口大に切りそろえたジャガイモ2個と皮のままの大蒜ひとかけ、唐辛子2本をスキレットに放り込み、上からぱらぱらとセージをふりかけ蓋をして弱火にする。これは大体20分くらいでできあがる。途中たまに、焦げ付かないようにかき混ぜる。
 鍋に水を張り、塩を多めに入れ火にかける。湯が沸くまでにソース作り。
 大蒜ふたかけを包丁の背で潰し中華鍋に入れ、大蒜が半分浸るくらいオリーブオイルを入れ点火。弱火で香りをだし、大蒜のまわりに細かな泡が浮かび薄く色づいてきたところでみじん切りにした半個の玉ねぎを入れ中火で炒める。玉ねぎがしんなりしてきたらトマト缶を全て入れ中火で10分ほど煮込む。今日はここにクミン、コリアンダー、カーダモンを適当にふりかけてみた。この頃には湯も沸いているので、ソースを煮詰めながらパスタを茹でにかかる。ソースが煮詰まりすぎたら、適宜パスタの茹で汁で調節する。パスタを規定時間よりやや短めに茹であげ、最後に塩少しで味を調えたソースに放り込みざっと和え、皿に移してできあがり。この頃にはジャガイモもできあがっていると思うけど、蓋を開け少し焦げ目が付いていたら良し。最後に塩をふりかけ、ざっとまぜこちらも皿に移し、いただきます。宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』を読みながら食べる。ただでさえ箸でパスタを食べるとソースが飛び跳ねるのに、今日はトマトベースなので本に付くと閉口するのだけどまあいいや。
 私は檀一雄の食エッセイが好きなのだけど、彼の文章は何というか、一種の大仰さというか、無理に大人ぶろうとしている様子が透けてみえるというか。加えて、もって回った気取りの臭さが感じられる時があり、辟易する事もあるのだけど、それもまたアクセントというか、それ込みで好きなのでそれはいいとして、この宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』にも同じような臭さを感じてしまい、何でそう感じるのか不思議に思いながら読み進める。
 本書は北海道から奄美にかけての旅の記録で、作者が立ち寄った都市や村々の印象、そこで出合った食べ物、飲み物を紹介しているのだけど、何故か毎度毎度、見かけた女性の印象、出合った女性の感想が挿話される。庄内ではたまたま知り合った女子大学生と一緒に旅をし、鳥取では胸の大きな女性と混浴になった印象を語り、唐津ではカタクチイワシを食べるにあたり、女中に「指ではさんで頭をねじ切り、内臓をこそぎ捨て肉をしごいて取る」という捌き方を聞き、では結婚したらそうやって旦那を虐めるのだろうとからかってみたりと。
 読んでいて、何だかそこだけ文章が妙に浮いているというか、ぎこちないような印象を受ける。マジメな人が無理に下ネタをしゃべろうとしている時に見てて感じる痛々しさというか。そんな捌けているふりをしなくてもいいのに、みたいな。気のせいかな。
 それはさて置き文章が上手い、のだろうな。読んでいて心地良くはならないのだけど、じゃあ下手な文章なのかというとそんな事はなく、上手いと言わざるをえない。特に食べ物や酒の描写は非常に蠱惑的。

 この鯉は、弾けた固い卵といい、脂ぎってどろりとした腹の皮といい、歯ごたえのある内臓といい、これだけはやや淡白な肉といい、柔らかい鱗といい、まことに満足すべきものであった。そして最後に碗にのこった透明な脂肪を、底のタレごとすすりこんで、自分の口といわず歯といわず、いや体中がねっとりとした甘い脂とジェラティン質で浸された、と感じたときの幸福感は、いったい何にたとえればいいだろう。


宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』p101


 そういえば食べ終わってから気づいたのだけど、今日の食事には動物性たんぱく質がなかった。食べる前に気づかなかったのは、常日頃狩猟民族の末裔と自認している私としては非常に遺憾である。今後気をつけようと思った。明日は肉を食べよう。